トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 07年3月30日  (10年12月10日 記述を追加)
取り上げた作品 蟲師(むしし)
原作者 漆原友紀
さて、このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、今回で発行500回になります。
メールマガジン発行元の「まぐまぐ」なり、「メルマガ天国」での配信回数は、もっと多かったりしますが、2重配信などのチョンボもありますし・・・
あと、購読者さんによる投稿もありますが、この場合は、この私が文章を追加しているので、まあ、そちらは配信回数に含めていいでしょう。

500回記念ということで、いつもとは違った趣のある文章にしたいと思っていて、どんなお題がいいのかなぁ・・・と考えていました。
ということで、今回はまたアニメ作品である「蟲師(むしし)」を取り上げようと思います。この「蟲師」というアニメは、もともとはマンガが原作とのこと。あと、最近(3月21日)に実写?の映画が公開されたとのこと。
まあ、ジャンル的には色々とあるでしょう。重要なことは、その作品のテーマと言えるでしょう。

この「蟲師」という作品は、蟲(むし)というものを扱う蟲師のギンコという人を主人公としています。蟲というものは、生命と非生命の中間的なもの・・・で、一般の人には見えないけど、一部の人には見ることができる。その蟲が引き起こす様々な問題を、そのギンコさんが解決していく・・・まあ、らんぼうに言ってしまうと、そんなストーリーです。

このメールマガジンでは、以前に、やっぱり日本のアニメである「ひぐらしのなく頃に」を取り上げたことがあります。あの「ひぐらしのなく頃に」は、ダメダメ家庭の問題を直接的に扱った作品と言えます。それに対し、この「蟲師」は、ダメダメ家庭の問題を扱った作品ではありません。いくらダメダメ家庭だって、蟲みたいな魑魅魍魎じみているものなんて家庭にいるわけではありませんよ。

このメールマガジンではたびたび芸術作品をとりあげますが、作品の批評を目的として取り上げているわけではありません。作品を考えながら、ダメダメ家庭の問題を考えるに際し、有効な視点を提供する・・・そのことが目的です。

魑魅魍魎に近いような・・・一般の人には見えない存在である「蟲」・・・その「蟲」が引き起こす問題への対応の仕方・・・そのことがダメダメ家庭の問題の解決の方法を考えるに有効なんですね。
「蟲」が引き起こす問題は、その「蟲」が「見える」人間と一緒に当たらないと、解決しないわけ。

このメールマガジンでは、「見える」ということに注意を払っています。それこそフランスの哲学者であるミシェル・フーコーの「哲学の役割は、見えているものを、見えるようにすることだ!」という言葉を頻繁に引用しています。多くの一般の人は、「物理的なり生物的には見えているのに、心の目では見えていない」。だから、本来は物理的には見えているはずの、本質的なものを、心の目でも見えるようにする・・・それによって問題解決に近づく・・・フーコーはそう言いたいんでしょうね。

しかし、一般の人は、自分自身が「心の目では見えていない」こと自体がわかっていない。見えていないことが見えていないわけ。これって、まさにソクラテスが言う「無知の知」ということ。だから、「自分が知らないことを、まずは、知るようにしましょうよ!」と、ソクラテスは呼びかけることになる。
ソクラテスとフーコーの間には2000年の時間があるわけですが、言っていることはほとんど同じなんですね。まあ、それだけ人類というものは進歩していないわけ。

さて、この「蟲師」という作品では、村人などが「困った!困った!」などとトラブル状態にあるところに、蟲師のギンコさんが出かけていって、「それは○○という蟲のせいですよ!その蟲はこんな性質があって、こんな現象を引き起こすものです。その影響で、こんなトラブルが発生したんです。」なんて説明していくわけ。
まあ、その蟲師のギンコさんは、「蟲」が見えるわけだから、そんな説明も簡単にできる。しかし、一般の人は、そう言われてもピンと来ない。だって、その中心原因とされる蟲が見えないわけですからね。ただ、聞かされた理屈は通っているし、トラブルの現象も説明できる。だから、それなりに納得することになる。
このような時に、お約束のように登場する言葉が、
『妙に納得した。』

この「妙に納得した」という言葉自体は、この「蟲師」という作品には出てきませんが、登場人物の表情には浮かんでいる。
「ふーん・・・そんなモンなの?ワタシには実感できないけど、きれいに説明できるんだから・・・そんなものなんだろうなぁ・・・」
まあ、「蟲」が見えないんだから、実感として納得することは、やっぱり無理。
だから、どうしても「妙に」なんて言葉がついてしまう。

見えている世界が違うんだから、これはしょうがない。「妙に納得した」側の人がダメダメというわけではありませんよ。ダメダメではなく、一般人という言葉の方が適当でしょう。
説明した側にしてみれば、「妙に」という言葉が付いても構わないわけですが、とにもかくにも、納得してくれればいいわけ。
逆に言うと、「妙に納得した」と言われる説明をしない人は、現在トラブル状態にある人と、「見えている」ものが同じということでしょ?つまり、本質的な意味での解決はできない人ということなんですね。

トラブルの原因となっている「一般人には見えない存在」である蟲について分かってもらうこと、それに加えて、見えているものが違う、あるいは、一般人が見えないものを見える人がいる・・・そのこと自体を、どうやって納得してもらうのか?

「見える」人間だったら、頻繁に考えざるを得ない問題意識・・・それが、この「蟲師」という作品の根本テーマの一つというわけでしょうね。

「見える」人間は、特に苦労もなく「見える」わけですが、その感覚を分かってもらうことには苦労する。「見える」もの同士だったら、「ああ!あれねっ?」『そうそう!あのことだよ!』そして「アナタも見えるんだねぇ?」で、すべて解決するわけですが、現実はそうは行かない。世の中のほとんどの人は「見えない」わけですから、「あれだよ!」では理解してもらえない。
「ああ!どうしよう!どう説明しよう?!」

まあ、この「蟲師」の原作者さんも、「見える」人であることは歴然ですよ。だって、あまりにツボを押さえていますからね。
もちろん、その「蟲師」の原作者さんが「見える」人と言っても、蟲のような魑魅魍魎の類が見えるということではなく、言葉と言葉の間にある言葉が聞こえたり、表情と表情の間にある表情が見えるというだけ。これって一般の人も実際には聞こえたり、見えたりしているものなんですが、「心の目」では見えていないもの。

何もオカルト的なものを言っているのではなく、あくまで「物理的には見えるもの」で、「心の目では見えていない」ものです。たとえば、以前配信した文章に書きましたが、長崎県での小学校6年生の殺傷事件での手記に関してですが、一般の人は『私が妻を亡くした時に、娘が慰めてくれた。』という話を聞いても、「ふーん」と思うだけ。しかし、「見える」人だったら「じゃあ、母親を亡くした娘は誰が慰めたの?」と「見える」わけ。一人で困っている子供のシーンがありありと見えてくるんですよ。そのように言われれば、多くの人の「心の目」にも見えるようになるでしょ?

芸術作品のようなものだって、時代が経つにつれて、より多くの人にも見えるようになったりすることもある。その芸術家が生きていた頃は全然認められなかったけど、時代が経つにつれてその作品の意味が理解されるようになった・・・なんてこともあったりするでしょ?
そのようなケースは、より多くの人にも、その芸術家が「見ていた」ものが見えるようになったわけです。

実際に、この「蟲師」というアニメでは、軟体動物のようなカラフルな蟲が画面上で描かれています。しかし、この蟲という存在は、本来は一般の方々には見えないという設定となっています。だったら、この見えない「蟲」をどうやって、他者に説明していくのか?
ちょっと考えながら見てみると面白いと思うんですよ。
画面ではっきりと描かれているので、作品の視聴者としては、存在することに疑いは持ちようがないわけですが、多くの一般の人は実際は見えないわけだから、説明するのがタイヘン!

しかし、その「見えない」蟲が引き起こすトラブルを解決することが必要なら、その蟲を「見える」人が関わってもらわないと無理でしょ?
見えないもの同士で、「あーでもない!こーでもない!」と、顔を寄せ合って議論しても、前に進みませんよ。

まあ、現実として、この世には「蟲」なんて存在はないでしょう。
しかし、ダメダメ家庭の問題に限らず、トラブル状態になったら、「見える」人の手助けが必要になるわけです。そして、その「見える」人は、一般の人が「見えない」ものまで見た上で考えているわけですから、一般の人が100%納得するような説明にはならないものなんですね。

よく、トラブル状態になると、いかにも正論といった類の理屈で説明しようとする人がいますよね?しかし、いかにも正論な理屈って、逆に言うと、一般の人でも100%理解できる・・・そんな理屈とも言えるでしょ?
そんな既成の理屈で解決できるのなら、そもそも、そんな「にっちも、さっちも」いかない事態にはなりませんよ。

発想の転換なり、新たな視点の導入・・・そのようなことが必要になるわけです。
やっぱり「妙に」納得するような視点が、必要になるわけ。一般の人が「すんなり」納得するような発想では、限界に来ているわけ。

ただ、「見える」人に相談することは抵抗がある・・・これは確かでしょう。
それに、誰が「見える」人なのか?これは「見えない」人にはわかりにくい・・・これも実際にそうでしょうね。
こうなると、まさに「妙に」納得させてくれる人が、その候補というわけ。自分が全部納得できる説明をする人は、当人と同じで「見えない」人であることは確実です。
まあ、「この人は見える人かな?」と思ったら「アナタはモノが見えるの?」と直接的に聞いてもいいでしょう。モノが見える人は、ニヤって笑って「見えるよ!」となります。「モノが見えない」人は「目は悪くないけどね・・・」なんて答えるはずです。「視力」と「モノが見える」の区別がつかないのなら、その人は「モノが見えない」人ということになります。

あるいは、「見える」人は、「見えない」人をバカにするのでは?
そう考える人もいらっしゃるのでは?

そんなことは無いんですよ。そもそも努力して「見える」ようになったわけではないので、自慢するようなことではありませんし・・・
それに儲けになるわけでもない。まあ、明日の株式相場が見えたら、すばらしいことでしょうが、蟲が見えたり、ダメダメ家庭の問題が見えても、はっきり言ってうれしくもないし・・・むしろ、このまま行くと、あの家庭は10年後は修羅場になっているだろうなぁ・・・って、はっきり見えてしまうのは切ないもの。むしろ見たくない類のものなんですね。それに、説明しても、どうせ分かってくれないし。

まあ、「見える」人間にとって、一番腹が立つ人間は、「見えていない」のに、ご高説をぶっこく連中に対してです。「見えてないオマエが、エラそうに何を言っているんだ?事態をより悪くするだけだよ!すっこんでな!」そう言いたくなります。

「見えない」一般の人間は、「見える」人間から、上手に知恵を借りて、それで自分たちの問題を解決していけばいいだけ。
以前にも書きましたが、イエスさんも言っているじゃないですか?
「盲人が盲人を道案内しても、一緒に穴に落ちるだけだよ!」
当然のことですが、イエスも「見える」人だったのでしょう。
前にも書きましたが、「視力」と「ものが見える」は全然別物です。だから芸術作品では、盲目の人が、一番モノが見える・・・なんて設定のケースもあったりします。
たまにあったりするでしょ?そんな賢者の盲人キャラがいる作品。

まあ、「見える」からと言って、幸福な一生を送ることができるのか?というと、それは全く別問題。幸福なんて「見えない」人の方が得やすいもの。
「見える」ということは、「見たくない」ものまで「見える」ということですからね。
努力して「見えなくなる」こともできないし・・・
一般の人にしてみれば、せっかく「見えない」んだったら、「見える」人から、自分にとって必要な視点を取り出し、利用すれば言いだけ。それには、自分たちの現状なり問題点をしっかり理解し、説明できればいいだけ。
そんなことは「見えない」人だってできることでしょ?

「見える」人間は、「見えない」人間との間で永続的な関係を築きにくい。
そもそも見えている世界が違っているんですからね。やり取りにおいて齟齬が発生するのも当然のこと。
だから、この「蟲師」という作品の主人公のギンコさんは、旅をし続けている人です。

一般人にとって困った事態が発生したら、その蟲師に来てもらうことになる。
逆に言うと、蟲師は、平時においては、ジャマになる存在なんですね。
蟲師のような「見える」側にしてみれば、余計なものが見えてしまうんだから、「見えない」人とのやり取りも色々と面倒になるわけです。
たまに会って話をするだけで、「一を聞いて、十を分かる。」んだから、逆に言うと、いつも顔を合わせていると面倒なことになってしまう。

この「蟲師」という作品において、蟲師という存在は、芸術家という存在のメタファーと言えるわけですが、芸術家は「旅に生き、旅に死ぬ」ことが多いもの。それこそ、そのような行動は芭蕉だけではないでしょ?
洞察力がありすぎると、一般社会の中では、落ち着いた場所がない。
もし、落ち着いた居場所がこの現実社会あるとしたら、その人は、一般人と同じものしか見えていないということ。つまり、洞察力が一般人並ということ。
それは、ある意味において、幸福なことですよ。

この「蟲師」という作品を、「蟲」と「人」との共存を模索・・・なんてキャッチコピーがあったようですが、全然違うんですね。「見える」人と「見えない」人との共存の話と言えるわけ。別の言い方をすると、芸術家と一般人の共存の話とも言えるでしょう。
しかし、それって、自分たちに見えていることを、自分たちなりの言葉で表現すれば済む話。それぞれが、それぞれのできることをやれば、いいわけです。
たぶん、作者さんも、そう思っているんだろうなぁ・・・

無料のメールマガジンの文章ですが、まがりなりにも文章を書いている私にしてみれば、作者さんが作ったそれぞれのエピソードの意味も、実によくわかる。それに、相互のエピソードなりセリフの関連も、実によくわかる。まあ、身につまされすぎて笑っちゃうほど。

この作者さんが何を見ているのか?あるいは、何をやっているのか?

レンタルできるDVDの第7巻に、蟲の記録を書いている淡幽という名の女性が登場してきます。なんでも「蟲に身体を侵食され、蟲を愛でつつ、蟲を封じている」人らしい・・・
苦痛にあぶら汗を流しながら、蟲の記録を書いている。
世の中にはそんな人もいるんだねぇ・・・
じゃあ、「ダメダメに侵食され、ダメダメを愛でつつ、ダメダメを封じている」人も、この世のどこかにはいるんだろうなぁ・・・

(終了)
***************************************************
発信後記

記念回なので趣を変えようと思ったのですが、結局は、いつものとおりになっちゃて・・・相変わらず文章も長いし・・・どうもすいません。まあ、いつものようなダメダメ家庭そのものについてというより、問題解決のための一般論・・・そんな感じです。

ちなみに、この「蟲師」という作品には「光脈」というものが出てきます。
光る蟲が集まって光の流れを作る・・・ような映像表現になっています。
生物と無生物の中間的なものが集まって流れを作る・・・となると、「ああ!あれねっ?」とピンと来る人もいるでしょう。

この「蟲師」という作品における「光脈」は、以前に言及した分析心理学の創始者であるカール・グスタフ・ユングの言う『元型』というものに相応しているんでしょうね。
ユングは集団的無意識というものを言い出しました。人間も無生物だった頃からの記憶の集積を無意識のうちに持っている、それを元型と言ったわけ。
その元型が、芸術作品の創造に当たっての原動力になる・・・そんな考えでした。何度も書きますが、私は素人ですので、詳細はご自分でお調べくださいな。

無生物だった頃からの記憶と言っても、「1年前の晩御飯の献立」とか「アメーバの頃に魚に食べられた記憶」とかの問題ではありませんよ。無意識の集積なんですからね。
無意識の集積から、抑えようが無く湧き上がってくる「何か」。
その元型が想像力の源泉になり、生命の源泉になる・・・

この「蟲師」の作者さんが、どの程度までユングを意識しているのかはわかりませんが、まあ、そんな「何か」を実感として感じる人間ということなんでしょう。
「見える」もの同士って、相互理解がメチャクチャ早いわけ。
「蟲師」の作者さんも、もしこのメールマガジンを読んだら、多くの記述の中で「ああ!あのことねっ?」って、スグにわかるんでしょうね。

「見える」もの同士は、理解が早いわけですが、見えない人は、自分の問題をわかりやすく伝えて、見える人の知恵を上手に使えば済む話。
「見えない」ことがダメダメというわけでなく、自分の問題を自覚できなかったり、それを客観的に記述できないのが、ダメダメというものなんですよ。
R.10/12/10