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カテゴリー ダメダメ家庭の対抗心
配信日 07年5月15日 (10年12月14日 記述を追加)
タイトル いきなりケンカ腰
ダメダメ家庭の人間は、会話ができない。そもそも家庭内で会話をしていなかったのだから、自然な会話なんてできるわけもない。
おまけにダメダメ家庭は被害者意識が強い。ダメダメな親は、子育てというものも、親である自分が子供から被った被害だと考えている。
子供からの被害者だと自認しているからこそ、「親に迷惑を掛けるな!」と、いつも子供に対して命令することになる。

子供だって、何かトラブルがあっても、「親に迷惑を掛けてはいけない」わけですから、自分自身ですべてを解決する必要がある。トラブル対応と言っても、精神的に余裕がないので、逆に過激なものになってしまったりするわけ。それに、日頃から「親に迷惑を掛けるな!」と言っている親は、子供が実際にトラブル状況になっても、何もフォローはしない。だからこそ、トラブルが解決されることなく、より大きくなってしまう。

トラブルを上手く処理できないので、余計に、神経過敏になってしまう。
「自分の身は自分で守らないと!」
なんて、普段から切羽詰っている状態。

そんな人は、「必死で人に合わせる」ことによって、穏便に事態が運ぶように配慮して、トラブルそのものを回避しようとする・・・このようなことは以前より度々触れております。いわば自分への抑圧を強く掛けるわけ。
しかし、逆のパターンもあるわけ。
最初からケンカ腰のケースです。

そもそも、ダメダメ家庭出身者は、フランクで自然な会話なんて、やってこなかったわけですから、フランクな会話をしようと「意識」しても簡単にできるものではない。
というか、「フランクなやり取りをすることを強く意識する。」というのは、論理矛盾ですよ。だって、「強く意識」しない状態が「フランク」ということでしょ?

それにダメダメ家庭の人間は、勝ち負けにこだわることが多い。当事者意識がなく、自分自身がやりたいことが自分でも分かっていないので、やり取りに当たって、相手に分かってほしいことそれ自体が当人自身でもわかっていない。だからやり取りの成果として相互理解や相手からの合意を得ることにはならない。そんな人は、誰でも分かる評価として「勝ち負け」しか存在しなくなる。それにダメダメ家庭の人間は、序列意識が強く、勝つことによって高い序列を獲得することを考える。加えて、ダメダメ家庭の人間は減点法であり、マイナスが発生してしまうと、そのマイナスに過敏に反応することになる。だから、議論において、負けるという状況になりそうになると、そうならないように必死になってしまう。また、序列の面から見ると、負けると言うことは序列が下がることを意味する。
だから、とにもかくにも負けたくないとテンションが高い。
そして、そんなやり取りのスタイルが習慣化してしまっている。

アイツに勝ちたい!
あるいは、絶対に負けたくない!
いわゆる「おしゃべり」においても、最初からそんな感じなんですね。
だから、いきなりケンカ腰となってしまう。

それこそ一般的なやり取りだったら、時候の挨拶などの社交辞令から始まって、近況報告の雑談・・・そして自分の言いたいことを伝え、相手の言いたいことを聞く・・・そうして議論を深める・・・そうして、最後の挨拶として「じゃあ、またね!」でオシマイ。
そんなところですよね?

しかし、ダメダメな人は、最初から、「アイツに勝ちたい!」「負けるもんか!」なんてオーラがビンビン。近くに寄るだけで、ちょっと退いてしまう雰囲気を作っている。
最初の社交辞令もそこそこに、そして、その口調も、強圧的なもの。
相手の話をじっくりと聞くことも出来ず、ちょっとでも意に沿わない発言がでてきたら、スグに茶々を入れたり、あるいは、その発言を強硬に封じ込めようとする。

そんな人って、現実にいたりするでしょ?

やり取りにおいて、相互理解を積み重ねていくというやり取りではなく、とにもかくにもマイナスを発生させたくないわけです。
つまり警戒心が先に立っているわけです。

そんなことをする当人は、相手にケンカをふっかけるつもりはないし、自分がやっている物言いのスタイルが周囲の人にケンカ腰と映るとは分かっていない。自分の出身家庭の「ふつう」のスタイルだし、出身家庭を「生き抜く」ために身についてしまった会話のスタイルなんだから、どうしようもないわけ。
しかし、そんな人と実際にやりとりすると、「コイツ・・・何で最初からケンカ腰なんだ?」って思いますよね?

そんな人の言葉にちょっとでも質問したり、反論すると、その人の被害者意識が刺激され、逆上気味に反論されたりするもの。
マイナスへの過剰反応があるので、ちょっとでも自分に不利な話になると、過激にくいつくことになる。
そんな過激な反応は、「自分の身は自分で守るしかない。」という状況を背景にした恐怖心から来ているのであって、何も相手をやっつけようと思っているわけではない。
しかし、恐怖心から来ているが故に、過激な物言いになるわけですし、当人にしてみても、抑えが効かない。
そんな人とのやり取りが楽しいわけがなく・・・マトモな人はそんな人から離れていってしまって、周囲の人のレヴェルがどんどんと落ちて行ってしまうことになる。

自分で達成したいものがなく、話の内容が自分に降りかかって来るのが怖いので、逆に言うと、自分から遠くのものに首を突っ込むようになる。それこそ、ボランティアとか市民運動に入れ込んでしまう。そんな活動だったら、自分にとってのマイナス面が発生することはないでしょ?だって、どのみち、他人のことなんですからね。

しかし、他人事に首を突っ込んでばかりだからこそ、自分で達成したものが何もなく、自信もつかず、コンプレックスが大きくなるばかり。だからこそ、ますます自分の問題に話が移らないように必死になってしまい、やり取りをケンカ腰で仕切ろうとする。
仕切るのはいいとして、その根底に相手の話を聞くのが怖いという恐怖心がある。だから、相手の見解を引き出すようなことはできず、むしろ、抑えつけるような強圧的な、まさにケンカ腰の仕切りになる。
ボランティアとか市民運動の活動家は、いきなりケンカ腰の人が多いでしょ?
あるいは、何も対面でのやり取りばかりではなく、インターネットの掲示板にはその手の人は一杯いるでしょ?

当人自身が出身家庭の問題に目を向ければ、改善の余地があるわけですが、出身家庭の問題を考えることは「親に迷惑を掛ける」ことになり却下。
結局は、ケンカ腰のやり取りが改善されるわけもなく、事態はどんどんと悪くなる。周囲の人のレヴェルが落ちてしまうので、その周囲の人も、最初からケンカ腰の同類同士。だからやり取りもますますケンカ腰にならざるを得ない。やり取りの相手からして「勝ち負け」にこだわるような連中ばかりになってしまう。そうやって、やり取りでも熱くなる。

せっかく周囲から、「アンタ・・・もうちょっと穏やかな言い方をした方がいいんじゃないの!」「まずは、相手方の話をちゃんと聞いたら?」なんてアドヴァイスがあったとしても・・・どう反応してしまうのか?
これって、自明のことですよね?

(終了)
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発信後記

海外に旅行したりすると、私は美術館に寄ったりします。
まあ、美術館自体は、お金も掛かりませんし・・・
海外の美術館でも、特定の画家の特集などの企画展をやっていることもあります。それを見ていると、見たことがある絵があったりする。
日本の美術館で常設されている絵だったりするわけ。

わざわざ、こんなところ来たら、アナタも来ていたんだねぇ・・・
ちょっと苦笑い。
常設されている絵だと、いつもはお客も少ない中で展示されているのに、企画展だとお客もいっぱい。
アンタも出世したもんだよ!

まあ、私は日本でも見ていたりするので、ちょっと苦笑いで済みますが、海外旅行をしたときだけ、そんな場所に行ったりする人もいるようです。

今アメリカの野球でメジャーリーグで日本人同士の対決を見に行く・・・とかの人もいますが、もちろん、アメリカに見に行くのもいいのですが、もっとカンタンに見ることができる、常設のものを見て基本を押さえておく・・・それも重要だと思うんですよ。
それにお金も掛からないし。日本人同士の対決なんて、日本で見ればいいじゃないの?

スポーツ観戦でも、芸術でも、身近に接することができるものを、たまには見てみるのもいいのでは?ゴールデンウィークは終わってしまいましたが、今度の休みにでもどうでしょうか?
R.10/12/14