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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
配信日 07年6月5日 (10年10月25日,11年2月5日 記述を追加)
タイトル 加減
「アンタ・・・ちょっとは加減というものを考えなさいよ!」
そんな言い方がありますよね?
人にチョッカイを出すにも、ちょっとしたイタズラにせよ、あるいはものの言い方でも、加減を考えてやれば笑えるのに、その加減をオーバーしてしまうから、笑うに笑えない。

『こんな文章を書いているアンタがよく言うよ!』って・・・まあ、そうですが、私の場合は意識してやっていることですし、別に笑いを取ろうと思っているわけではありませんからね。それに、どうしてもイヤなら購読解除すればいいだけ。
しかし、ちょっとしたやり取りにおいても、「あの人・・・加減というものが分かっていないなぁ・・・」と思わされる人って実際にいるでしょ?

ダメダメ家庭出身者は、そんな「加減を知らない」人になるケースがあったりします。
だって、そもそもダメダメ家庭出身者は、「人の気持ちが分からない」ケースが多い。被害者意識の強い親によって育てられてきたので、子供は自分自身を抑圧するようになってしまう。だから自分自身の気持ちも分からないし、他人の気持ちも分からない。
人の気持ちが分からないんだから、当然のこととして、人に「受け入れられる」加減なんて分かりませんよ。

それに親に被害者意識があるので、子供のトラブルにおいても、親は何もサポートはしない。そんな環境なので、子供としては「自分の身は自分で守らないと!」と切羽詰った心情となっている。子供が自分の身を自分で守るんだから、常に余裕もなく、加減どころではありませんよ。

それに、ダメダメ家庭の人間は、一般常識とは無縁になりがち。そもそも親自身が、そんな常識を持っていないんだから、子供としてはどうやってその常識とやらを習得するの?
そもそもダメダメ家庭では家族が一緒に何かをすることもない。だから、そんな共同作業を通じて、社会的な「加減」を習得する機会もない。それに、やっぱりダメダメな親自身が「加減」を知らない。

それに、ダメダメ家庭の人間は、対抗心が強い。「アイツに勝ちたい!」「負けたくない!」なんて常に思っている。そんな習性があるので、相手とのやり取りでも、つい勝ち負けにこだわって、過激なことをしてしまう。
言葉でのやり取りにおいても、相互理解を目的としたものではなく、「勝ったか?」「負けたか?」のディベートにしてしまい、何とかして相手に勝とうと、加減とは無縁の極端な物言いを繰り出すことになる。議論においても、加減があれば、お互いの相互理解が深まるわけですが、加減がないので、勝つことで自分の存在を示そうと焦ってしまう。また、ダメダメ家庭の人間は減点法であり、マイナスの面へのセンシビリティが高い。だからこそ、相手に負けたというマイナスに対して過剰に反応し、そして、そのマイナスをどのように受け入れるのかでパニックになってしまう。だからこそ、やりとりにおいて、相手に負けるようなことにならないように、相手に対して加減なく攻撃することになる。
そして、相手に勝ったはいいけど、周囲からは白い目で見られてしまう。

マトモ家庭であれば、加減の中にいれば、親が守ってくれる。
しかし、ダメダメ家庭では、子供が自分自身ですべてを解決する必要がある。

重要なことは、そんな自分自身を自覚すること。
しかし、そんな自覚は、自分の親がダメダメな親であることを認識することにつながってしまい、「親に迷惑を掛ける」ことになり却下。と言うことで、加減を知らないまま、社会で突っ走ることになる。
そうして、「加減の範囲」といえる「軽い」チョッカイなら、笑って済む話でも、加減を超えてしまうので、周囲から呆れられてしまう。
あるいは、「加減の範囲」といえる「軽い」失敗なら、謝れば済む話なのに、大げさに考えてしまって、まさに「加減」を知らない対応をとって、より大きなトラブルを呼び込んでしまう。

加減ということが大きなファクターとなることと言えば、たとえばエッチなものはそんな観点になるでしょ?
エッチなものについては、「そのようなものが、どの程度まで許されるのか?」という点において明確な基準なんて作れないでしょう。
それこそ、「なあ、なあ」での雰囲気的なものになってしまいますよ。
逆に言うと、そんなものまで明確な基準で対処しようとしているのなら、そんな集団は別の面で問題があるということになります。お互いの間の信頼感というか、相互理解が完全に崩壊していることを示しているわけです。

それこそ、「エッチなものは、まったくダメ。」となると、逆にヘンでしょ?
エッチなものほど、「オール オア ナッシング」で対処することが不適なものはありませんよ。微妙な加減で対処するしかありませんよ。
逆に言うと、加減が分からない人は、「なあなあの加減」での対処が要求されるエッチなものを過剰に敵視することになる。まさに、「判断を迫られた」という心理的な恐怖を持って、その種のものを認識するわけです。

あるいは、「なあ、なあ」の加減がなくなってしまと、いったん決めたことを限度もなしに、いわば強迫的に完遂しようとする。
それこそ、ダイエットにおいても、加減もなく、完璧を目指してしまい、それが拒食症になってしまって、結局は死に至ることに。

「なあ、なあ」の加減ということは、相互理解の積み重ねによって達成された信頼感があるからできるのであって、会話による相互理解がなく、そして一時的な好意は理解できても、信頼というものを理解できないダメダメ家庭の人間には、実に敷居が高いものなんですね。

そんな加減を知らない人は、加減を知らなくても大丈夫なものに依存しようとする。
たとえば、法律とか公的機関のような、制度に類するものに頼ることになる。
法律だったら、加減という曖昧模糊としたものに依存していないでしょ?
しかし、そんなことだから周囲の人とのちょっとしたやり取りとか、それこそ家庭内でのやり取りも法律に基づいた発想になってしまう。
それこそ、「自分の子供が、大人になって、実家を出て、親であるワタシに会いに来ないのは、法律上そのような制度になっていないからだ!」と真顔で主張することになる。
そんな主張をする人が、育児の本を書いて出版しているんだから・・・シュールですよねぇ・・・

私は何もギャグを書いているのではありませんよ。現実の例です。
加減がわからないがゆえに、法律に詳しくなってしまって、結果的に詳しくなった法律を語れるから、周囲から「その分野に知識がある人」と認められる。
まあ、確かに知識は増えるでしょうが、それってダメダメスパイラルでしょ?

まあ、会いに来ないことを親からグチられている子供が、なぜ会いに来ないのか?
その親のグチが雄弁に物語っているでしょ?
まあ、そんな人の書いた育児の本って、逆に読んでみたい気がしますが・・・

あるいは、加減を知らないから、身近な人ではなく、法律とか公的機関に頼る別の例となると、以前にあった「島田紳助氏の暴行事件」での「被害者」の女性の方もその典型でしょ?
あの女性には加減がありませんでしたよね?もちろん、「加害者」の島田紳助氏にもありませんが、彼の場合は、それがウリなんだし、それにいざというときは、自分で責任が取れる。

あるいは、11年に発覚した大相撲の八百長事件ですが、あのような八百長も、現実的には加減の問題でしょ?お互いが合意の元で、まあ、やましさを持ちながら、コソっとやっているのなら、それほど問題視する話でもありませんよ。
それは、まさにエッチな問題についての関わり方と同じ。
しかし、加減がなくなってしまうと、微妙な「やましさ」もなくなってしまって、いわばシステマティックに処理されてしまう。
それこそ、やましさを持ちながらやっているのなら、メールでのやり取りはしませんよ。
八百長そのものの問題以上に、メールでそんなことをやっていることの問題もあるでしょ?
やましさから逃避するために、システマティックに処理となると、それこそナチのアウシュビッツ収容所のスタッフがその手を使ったそうですが、いわば、一番危険な方法ともいえます。それだけ人間的な思考や良心がなくなってしまっているわけですからね。

人間的な「やましさ」がなくなってしまうと、その代替として登場してくるのが、第3者的な倫理です。まさに理念的な「べき論」が跋扈するようになってしまう。
そして、加減もなく「こうすべきだ!」とべき論で説教することになる。

それこそ、11年の大相撲の八百長事件でも、あまり関係のない人間がしゃしゃり出てきて「ケシカラン!」という雰囲気で語っていたりするでしょ?
そのような「べき論」的な説教も、逆に言うと、「加減」という観点がなくなってしまっているとも見ることができるわけです。加減で対応することへの恐怖心があるがゆえに、ここぞとばかりに倫理が暴走することになってしまう。
本来なら、大相撲の世界に八百長があろうがなかろうが、どうでもいいことですよ。
外部の人間には関係ありませんからね。
しかし、外部の人間であるがゆえに、第3者的な倫理を持ち出すことができ、誰かを執拗に追求し、それが暴走してしまう。
こうなると、まさにモラルハラスメント状態。
モラルハラスメントも、加減の不在という観点でみることができるでしょ?
そんな人は、甘える体験をしてきていないわけです。

このようなことは、以前にご活躍された落語家の林屋三平さんの次女さんの行動パターンとそっくりでしょ?
倫理を前面に押しだし、ひたすら相手を糾弾することが、そのままアイデンティティとなってしまてっている。そして、加減なく突っ走ってしまう。

規範とか基準はドキュメントから習得することができますが、「なあ、なあ」の加減は、ドキュメントで学ぶものではなく、親から子供に対し家庭内の雰囲気で伝えるものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、子供は甘える体験をしてきていない。
「これくらいなら、親も許してくれるだろう・・・」そんな「なあ、なあ」の加減とは無縁の状態で育ってきている。

だからこそ、頼れるものは、客観的な文章による規範しかなくなってしまう。
「この文章に書いてあるから、我々はこうすべきなんだ!」
「権威あるこの書物には、このように書いてあるじゃないか!」
そんなスタイルの主張だったら、「なあ、なあ」の加減がわからなくても対応できるでしょ?
そんなスタイルに逃げ込んだのが、まさに宗教改革のマルティン・ルターであり、「聖書に書いてあるから輸血はダメ!」と主張する宗教団体だったり、「憲法に書いてあるから反撃はダメ!」と主張する政治団体となる。
そのような人は、「なあ、なあ」の加減が分からないから、そうせざるを得ない。

「なあ、なあ」の加減が分からない人は、「人の気持ちがわからない」人ともいえる。
それはそれでしょうがないわけですから、それを自覚しないと、島田紳助氏のような事件に巻き込まれてしまう。
あるいは、周囲の人で、「あの人は・・・加減を知らないなぁ・・・」と思わされる人は、ダメダメ家庭の出身者である可能性が高いといえます。
単に加減を知らないぐらいならまだしも、強い被害者意識があることが考えられますから、ちょっとしたことで逆上する可能性も高い。その逆上だって、当然のこととして、加減とは無縁。

あの「島田紳助氏の暴行事件」での「被害者」の女性の方も、あるいは、林家三平さんの次女さんも、まさに、そんな感じだったでしょ?

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭の人間が、お約束のように言うのが「ワタシは悪くない」という言葉であることは、このメールマガジンで頻繁に書いています。
最近この言葉をよく使っているのが、中国政府ですよね?
毒入りペットフードとか、毒入り風邪薬とか、毒入りハミガキとか・・・
指摘されると、「ワタシは悪くない!」「使った方が悪いんじゃないか?!」

そんな弁明を受けて、「そうなのかぁ・・・中国は何も非がないんだな!よくわかったよ!」と思う人がいるでしょうか?
せめて、「今回の不始末は、こんな原因で発生した。今後はこんな対策を取る。」と言えば、まだしも「ボクは悪くないもん!」だけだったらねぇ・・・

まあ、最近はものを買うときには原産国をチェックして買う人も多いしょう。
「使った方が悪いんだ!」って言っているものを、無理に使う必要なんてありませんよ。

まあ、中国はいまさらなんですが、あれと似たようなことを、日本のダメダメ家庭の人間もやっているもの。
何か不都合なことがあると、「ワタシは悪くない!」「アンタが悪い!」と言うだけ。
周囲の人が、その弁明に反論しないからといって、その人が、信頼されたのか?というと全く逆でしょ?

マトモな人は「ワタシは悪くない!」という人からは、距離を置くもの。中国製のものを買わなくなった人もいらっしゃるでしょうが、そんな人は、「ワタシは悪くない!」と自分では言わないように、常々自戒しないとね。
R.11/2/5