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カテゴリー | ダメダメ家庭が好きな言い回し | |
配信日 | 07年6月19日 (10年7月20日,10年8月23日 記述を追加) | |
タイトル | 満足できない | |
茶道の言葉で「知足」なる言葉があるそう。 「足らない」「充分ではない」状態の価値を「知り」、それに満足する・・・「強欲になることなく、あまり欲をかいていてもダメですよ!」そんな意味なのかな?それとも、仏教的な「空」とか「無」に関することなのかな? ムダ話が多いメールマガジンで申し訳ありませんねぇ。 さて、何も100%のものでないと満足しないということでは次に進めないし、精神的によくないでしょ?いつも不満ばかりじゃねぇ。 「まっ!完璧ではないけど、とりあえず、今回はここで満足!」 そんな感じで判断してもいいじゃないの?それを踏まえて、次の改善点にしていけばいいわけでしょ? 満足するしないの問題ではなく、次に取るアクションが明確になることが重要なんでしょ? もちろん、いつもいつも満足ばかりしていては、何も改善しないことになる、って言うか、いつもいつも満足って、よっぽどの阿呆か、それとも悟りの境地ですよ。まあ、どっちにせよ凡人には無理なこと。 ある時は、結果に満足し、ある時は、良しとせずに、問題点を洗い出す。 人間が出来ることと言ったら、そんなことくらい。 しかし、これは、当事者意識を持って、自分自身の現状を改善していくマトモな人間の発想。 実は、当事者意識がないダメダメ人間とやり取りをすると、この「満足する」「満足しない」とは、似て非なる言葉が登場するものなんですね。 それは「満足できない」という言葉。 あの音楽は、ワタシには満足できない。 あの映画は、ワタシには満足できない。 あの哲学は、ワタシには満足できない。 あの政治家は、ワタシには満足できない。 あのドラマは、ワタシには満足できない。 そんな感じで「あの○○は、ワタシには満足できない。」なんて物言いをするわけ。 その「あの○○」の「○○」には、様々な文言を入れることができますが、この手の言葉に接したことがある人も多いのでは? まあ、この手の言葉に接すると「じゃあ、アンタが満足するって、どういう状態なの?」「アナタ自身はどんな状態を求めているの?」って、思ってしまう。 そうなるでしょ? と言うか、「で、そんなことを、わざわざ、このワタシに言っても、いったいワタシはどうすればいいのよ?!」となるものですよね? まあ、そんなことをコッチが言ったりしたら、やっぱり「なんでそんなことを聞くのよ?!キーっ!」と逆上されるのがオチ。 ダメダメ人間は、自分自身から逃避している。だから自分が求めているものが自分でもわかっていない。だから、「そうじゃない!」「これじゃない!」「違いますっ!」と常に否定形。 「満足できない」という言葉も、まさに否定形でしょ? それに、そのような言い方だと、自分が判断した結果として満足するのか?しないのか?という問題ではなくなってしますよね? 「あの○○が、このワタシを満足させられないのだ!」 「ワタシはこんなに期待していたのに!」 「どうして、あの人たちは、このワタシを満足させてくれないのっ?!」 「ワタシを満足させられない、あの○○には困ったものだ!」 「ああ!ワタシって、何てかわいそうなの?!」 この流れは、ダメダメにお約束のもの。このメールマガジンではレギュラーの文章ですよね? ダメダメの問題って、実にわかりやすいものなんですね。 それこそ、「自分自身に満足しない。」と言うのか?それとも「あの○○に、満足できない。」と言うのか? その違いだけで、わかったりするもの。 当事者意識があれば「自分の現状に満足していない。」となるわけですし、被害者意識しかなければ、「あの○○には、満足できない。」となるわけ。 もちろん、他者の言葉や行動のすべてに納得することなんてありえないでしょう。しかし、だったら、「じゃあ、自分はどう考えるのか?」「どうすればいいと思うのか?」「そもそも何を求めていたのか?」、その点について自問自答する必要があるでしょ? たとえば、テレビドラマのようなものだったら、「満足できない」なんて言い方ではなくて、「好みではない」で、いいんじゃないの?そんなものは、好き嫌いの範疇ですよ。どうして「満足できない」なんて言い方をするの? 満足できないも何も、自分でやりたいことを自覚して、そのために、自分でやれることをやればいいじゃないの?そのようなことをしている人は「満足できない」なんて言葉は使わないもの。 たとえば、文章をまとめるために本を調べたりすることもありますよね? 手にとった本に、求める記述がなくても、「この本に、満足できない。」とは言わないでしょ?言うとしたら「この本には、書いてなかった。」それでおしまいですよ。 「ああ!この本に書いてあると期待していたのに、書いていなかったわ!ああ!ワタシはこの本に満足できない!」 そんな言い方をしたら、バカでしょ? しかし、それと似たことを、ダメダメ人間は、実際にやっていたりするもの。 そもそもダメダメ人間は、自分に自信がない。だから必要以上に自分を大きく見せようとするわけ。「自分がいかに立派な判断基準を持っているのか?」そんなことを主張することで、自分の立派さをアピールしようとするわけ。 「自分はこんなに立派な価値観なり審美眼を持っているから・・・だから、○○のレヴェルには満足できないんだ!」 それって、要は自慢しいでしょ? まあ、自分を自慢したいのはいいとして、どうせ自慢するのなら「ワタシはこんなスゴイことをやった!」と自分の成果を示せばいいじゃないの?人の成果に満足する、しないなんて、当人の価値を高めることになるの? しかし、ダメダメ人間は、自分が達成したものなんて、そもそもない。だから自慢したくても、自分自身では誇ることができるものがないわけ。せめて「人並み外れた審美眼があるんだ・・・」「はるか高みのところを目指している、高邁な人間なんだ!」とでも言うしかない。 しかし、そんな自慢を聞かされても、やっぱり途方に暮れて、「言いたきゃ、勝手に言っていたら?」と思うだけですよね? 人の成果を否定するよりも、肯定に足る自分の成果を示すのがスジですよ。 逆に言うと、肯定に足る自分の成果を示すためには、人の成果を否定しているヒマなんてありませんよ。しかし、ダメダメ人間は、傍観者感覚。 離れたところや高いところに自分を置いて、人の業績を論評しているだけ。 そんな人間が集まってしまうので、傍観者感覚がますます進行してしまう。 ダメダメ人間は、他者の成果について「○○には満足できない。」なんて言っても、自分自身では何も努力しないもの。 「このワタシを満足させられない、アイツが悪いんだ!」 そうやって恨んでいるだけ。 当人にしてみれば、ラクなことこの上ありませんよ。 あるいは、この「満足できない」という言い回しと似た使われ方をする言葉として、「気になる点があった」という物言いがあります。 人の成果を「それなりに」認めても、まだ「完全に気に入ったわけではない」んだ、「完全には満足できない」んだ・・・そんな不満の表明ですよね? まあ、この私宛のメールの中には、その「気になる点があった」という文言が、実際に多いんですよ。 何も、他者の見解に対して、完全に合意する必要もないでしょう。人の考えはそれぞれですよ。 共感も、同意も、無理には必要ありませんよ。 しかし、「気になる点があった」というは、じゃあ、その人なりに、よく考えて、合意しなかったということなの?フィーリング的に共感しなかったということなの? あるいは、じゃあ、当人自身はどのように考えるの? その当人自身の考えを、「気になる点があった」文章を作った人に対して、合意してほしいの?理解してほしいの?あるいは、考えを改めて欲しいの?その文章を修正してほしいの? そんな問題になるでしょ? 「気になる点があった」という文言は、前にも書いておりますが、「完全には満足できない」くらいのニュアンスでしょ? 相手に対して、自分の見解を理解し、そして、できれば合意して欲しいのなら、「気になる点があった」なんて傍観者然でコメントしているよりも、相手に対して、自分の考えをわかりやすい形で説明するのがスジというもの。 もちろん、その相手がもうこの世にいないような場合もあるでしょう。 そんな場合でも、「気になる点があった」なる逃げ場を意識した傍観者然としたコメントを発するよりも、その問題点を客観的な形でまとめ上げ、第3者にもわかりやすい形で説明した方がいいでしょ?まさに、その「気になる点があった」という文章を作成した人が行ったように。 どうして、客観的な文章にしないの? そうなんですね! 「気になる点があった」というのは、離れた位置からの傍観者然とした立ち居地であり、逃げ場を意識しているわけ。気になる点がある見解に対して、完全に合意しているわけでもないし、完全に否定しているわけでもない。自分自身に確たる見解があるわけでもないし、だから、それを分かってほしいともいえない・・・と、なんとも否定形の積み重ね。 だから、相手から追加で説明されると、スグにトンズラしてしまう。 実際に、「アナタの文章には気になる点がある。」とかのお便りを頂戴した際に、その指摘された「気になる点」の背景や意図について、この私なりの考えを説明すると、絶対に返事が返ってこないものなんですよ。 「気になる点があった」という文言は、自分自身として「合意していない」「共感していない」というよりも、「合意できない」「共感できない」という受身の形の、別の言い方をすると被害者意識を伴った感覚を表現しているわけ。 まさに「満足できない」と心理的には同じなんですね。 「満足できない」も「気になる点があった」という文言も、どの程度まで肯定するのかという点においては違っていても、傍観者然とした立ち居地という点においては共通しているわけ。 人の見解に合意しないならそれでいいわけですが、じゃあ、自分自身はどのように考えるのか?自分の考えを誰にわかって欲しいのか?それをどのように伝えるのか? そんな点にまで思考が進まず、傍観者というか評価者の状態で留まっているわけ。 上の立場から論評して、さも自分が偉くなった気分でいるわけ。 何もすべての面において、合意する必要はないでしょう。 他者の見解に対して、ある種の違和感を持つことも実際問題としてありますよ。 だからこそ、「気になる点がある」という逃げ場を意識した立ち居地ではなく、「このことをアナタに絶対にわかってもらいたい!」という強い気持ちを持ってやり取りをする必要があるでしょ? その相手とのやり取りにおいて、結果的に合意してもらえなくても、自分の考えを理解してもらうために、あるいは、合意してもらうために最善を尽くす努力にこそ価値があるのでは? しかし、「気になる点がある」くらいだと、自分からの疑問点の提示に対して、相手が同意しなくても、それでOKとなってしまう。いわば腰が入っていないわけ。 しかし、最初からそんなスタンスだったら、何も伝わりませんよ。 意見なり見解の相違が問題なのではなく、自分の考えを相手に分かりやすく伝え、相手の意向を真摯に聞く精神が重要なのでは? 別の言い方をすると、「気になる点がある」という物言いよりも、「ワタシとしては、アナタとは違って、このように考えている。それをアナタにもわかってほしいし、できれば合意してほしい。」そんな物言いの文章の方が、たとえ合意に至らなくても、信頼につながりますよ。それだけ、信念というか、確たる自己を持っているわけですからね。 しかし、当事者意識がなく、何事も傍観者感覚なので、人の見解を「満足できない」「気になる点がある」と上の立場から論評するだけになってしまう。 人の業績にケチをつけるくらいならまだしも、それを子育てにおいてもやる始末。 「この子は、どうして、こんなことをしてしまうの?」 「ああ!いつも気になってしまう!」 「ワタシは、自分の子供に満足できない!」 ・・・なんて、言い出す親も実際にいるでしょ? しかし、そんな子供に「育て上げた」のは誰なのかについては、まったく考えない。 常に傍観者であり、だからこそ不都合な事態になると、自分を純然たる被害者の立場においてしまう。 それこそ、子供がトラブルを起こしたりすると、 「自分の子供を許すことができない。」なる、被害者目線のコメントになるわけ。 まさに、岡山駅での突き落とし事件の親が典型的にそのパターンだったでしょ? そんな人は、何をやらせても、結果的に上手く行くわけもなく、結局はお約束のグチにいたる。 そんなグチを言える状況を、深層心理的には『満足』しているものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 スペインのサッカーでマドリッドのチームが優勝したそうで、胴上げの写真が載っていました。 胴上げって、スペインでもあるんだねぇ・・・ アメリカの優勝シーンでは見たことありませんよ。 スペインでは昔からやっているのかな? ちなみに、個人的なことですが、昔マドリッドに旅行に行ったときに、のどが渇いたので、キオスクのようなお店の人に「Beer、Please!」とビールを注文しました。まあ、海外では迂闊に水は飲まないほうがいい。アルコールの方が安全ですからね。 しかし、お店のオッチャンは「beer」という言葉がわからないようで、何回言ってもダメでした。しょうがないので、ヤケになって、日本語で「ビール」と言ったら、やっとわかってくれて缶ビールが出てきました。 もちろん、そのお店のオッチャンが日本語をわかるわけもないのですが、スペイン語は、日本語と同じように、母音が5つしかないので、日本語発音の方がわかりやすいのでしょう。 まあ、スペイン人も、「アイツらは、母音が5つしか聞き取れない!」なんて、それこそ16の母音を持つフランス人から、コケにされているのかな? しかし、そういう言葉なんだから、しょうがない。逆に言うと、母音が5つしかないもの同士で、分かり合えることもあるんでしょうね。 足りないものを知る・・・と、見えてくるものがあるわけ。 |
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R.10/9/17 |