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カテゴリー | ダメダメ家庭が好きな単語 | |
配信日 | 07年7月13日 (11年1月27日 記述を追加) | |
タイトル | 派 | |
ダメダメ家庭の人間は、自分自身で考えることはしない。 カテゴリー分類をして、分かった気になっているだけ。 そんなカテゴリー大好き人間がよく使うのが「派」が付いた言葉です。 それこそ、豊富なダメダメの実例を誇るイスラム教徒の間で、「スンニ派」と「シーア派」の対立なんて、よく報道されていますよね?あるいは、その中でも色々と分派もあるんでしょう。 教義は色々とあるでしょうし、自分たちの考え方が一番と思っているでしょう。まあ、心情的に「アイツらは間違っている!」とも思うんでしょう。 しかし、宗教の問題だったら、もっとも重要なことは、自分一人一人で、神の問題を考え、祈ることじゃないの? 対立する前に、まずはやることがあるでしょ? 別の考え方を持つ人に対立するということは、つまり、人を見ているのであって、神を見ているのではないことでしょ? 「スンニ派」「シーア派」云々言われても、部外者は「何、それ?」と思うだけですよ。 「自分たちは、神の問題をこのように考え、普段はこのように行動しています。」そう言えばいいわけでしょ?「派」なんて持ち出すからややこしくなるだけじゃないの? その手の「派」がついてくると、本人たちにしてみれば、真剣なんでしょうが、部外者にしてみれば、「何、それ?」「何を熱くなっているの?」「バッカじゃないの?」「勝手にお互いで殺しあったら?」と思うだけ。 同じようなことは、それこそ左翼学生運動でもありますよね? 「中核派」と「革マル派」云々・・・って、部外者には分かりませんよ。そんなことで対立するより、困っている実際の労働者を助けることの方が先でしょ?部外者としては、本当に「勝手にお互いで殺しあったら?」と思うだけですよね? あるいは、ダメダメのメッカである韓国の報道を読んでいると、この「派」の言葉が多い。 進歩派とか、保守派とか、人権派とか・・・ しかし、その進歩派って、具体的にどんなことを考えているのか、何を進歩させたいのか、読んでいても全然わからない。自分たちが勝手に「オレたちは進歩派だ!」と言っているだけ。かと言ってその進歩派さんが言うことといえば、歴史とか民族とかについての話ばかり。いったい、どこが、どのように「進歩」なのか?部外者にはサッパリ理解できませんよ。あるいは、韓国の人権派が賞賛するのが北朝鮮。しっかし、どう考えたら、北朝鮮と人権と結びつくの? マトモな人間が、当事者意識を持って、自分たちの問題を解決していこうとする際に、やっぱり考え方が似た人間が自然と集まることはあるでしょう。ある種「派」が付くような集団も、結果的に、できてしまったりするもの。 しかし、そもそも当事者意識がないダメダメ家庭の人間は、自分自身で考えることから逃避するために、カテゴリー分類に安住したがる。カテゴリーがないと、生きてはいけない。だから自分たちのカテゴリーを守るために命を掛けてしまう。 ダメダメ人間は、カテゴリー的な集団の存在が先にあるのであって、個人の信念は主ではなく従の存在になっている。だから、人間一人一人の存在を無視して、カテゴリー間の対立に邁進してしまう。逆に言うと、「派」にこだわることによって、自己逃避できてしまう。 そんなスタイルが、精神的な怠惰さを担保してくれる。 おまけに、ダメダメ家庭の人間は対抗心が強い。何かに対抗するという段になると、普段以上の力が発揮される。各派の対立のような事態となると、盛り上がってしまう。しかし、そんな元気があるのなら、実際に困っている人をサポートすればいいんじゃないの? しかし、自分たちの視点を実際の人間に向けることなく、内向きの議論に終始するだけ。 議論が内向きなのに関わらず、自分の内面には、その視点が向かわない。 「派」が活躍するところって、テロが多いところでしょ? イスラムも韓国も、左翼学生運動も・・・ まさに「悪いのは全部○○のせいだ!」となっている。 派という言葉を使う人は、それだけ、個人の信念が不在となっている。 自分で考えずに、カテゴリー分類ばかりしているんだから、そんな人に信念なんてあるわけがありませんよ。 党派性は思考停止の便法になってしまう。 都合の悪いことを指摘されてしまったら、党派性を持ち出せば、簡単に却下できてしまう。 それこそ、北朝鮮による日本人拉致事件においても、党派的な視点で、何も考えなかった人が多かったでしょ? その中で、共産党員の方が、真剣に取り上げました。 ただ、その方は党を除名になったんだとか。 本来なら、困っている人の声をしっかり聞き届けることが最初に必要なことでしょ? 聞いた後で、その人なりに判断すればいいだけ。 しかし、判断から逃避するダメダメ人間は、最初に党派の問題を持ちだし、認識の段階から拒否してしまう。 党派性は思考停止の手段であり、それゆえに、ズボラさの大義名分となってしまう。 右翼とか左翼とかのレッテルを貼り付けて勝手に満足しても、自分なりに考えることはしない。逆に言うと、考えたくないし、考える能力がないわけです。 スグに「敵vs味方の構図」に落とし込んで、個人としての思考は無縁になってしまう。 派という言葉を使いたがる人に信念があったことがありますか? 結局は、そんな人は、個人としての尊厳がないわけです。逆に言うと、だからこそ、集団による価値をますます求めてしまう。そして、ますます「○○派」という呼称を喜ぶことになる。 芸術における古典派とかロマン派とか印象派とかの用語は、他者が勝手にレッテルを貼っただけ。本人たち自身は、そんな集団名を率先して名乗ってはいないものです。しかし、自分たち自らが「派」と名乗る集団は、ダメダメなんですね。それだけ、視点が現実を向いていない。自分自身の内面や、その本来の目的とするものよりも、お互いを見て、敵認定し合っているだけ。 あるいは、そんな人は「味方よりも、敵が必要になってくる。」もの。 その敵の存在を規定するために、お互いが「派」を作って、お互いを敵認定している。 そんな「派」の連中には近寄らないのが一番ですよ。 実は、最近面白い「派」を見つけました。 「無党派」です。 無党派は、党派では無い・・・という意味なんだから、それは、むしろ「派」とは言えない集団じゃないの? そう思うでしょ? まあ、もともとはそう意味でしょうし、現在でも多くの人がそう考えているでしょう。 しかし、違った考えもあるようです。 先日(07年)の東京都知事選挙で、面白い主張がありました。 「無党派を結集して、○○を実現させよう!」・・・そんな感じの主張です。 前にも書きましたが、無党派って、本来は特定の支持政党なり、政治信念は持っていないが、政治について、色々と関心を持って考えている・・・そんな人たちのことでしょ? だから選挙のたびに、投票する政党が変わることになる。それこそ小泉さんはよかったけど、安倍さんはダメなんてことになったりする。だから特定の集団と一緒に行動することはない。しかし、その選挙キャンペーンで書かれている、「継続的に特定の政治活動をする無党派」って・・・どういうこと? 読んでいて、ちょっと途方に暮れる。 しかし、発想が柔軟な私は、やがて理解できました。 その手の人が考える無党派って、「無・党派」ではなく「無党・派」なんですね。むしろ、特定の政党に属することを拒否する信念を持ち、かつ組織的に行動する一派・・・そのような認識なんでしょう。 その手の人がよく使う「市民」なんて言葉もありますが、それに近い存在なんでしょうね。 しかし、そんな確固たるポリシーをもって、集団で継続的に活動する無党派と言われてもねぇ・・・ 以前にこのメールマガジンで書いたことがありますが、政府に参加して、自分たちの主張を実現させようとするアナーキスト(無政府主義者)とか、世界のグローバル化に反対する反グローバル主義者が、自分たちの目的を達成するために世界規模で連携するとか・・・現実にその主張を聞いたりすると、途方に暮れる類のものと同じでしょ? 「派」がつく言葉が頻発する人って、結局は、独りよがりの理屈を言っているだけ。 独りよがりの人間が集まっているから、内輪もめが盛んになってしまう。 一つの「派」が、やがて2つや3つに分裂し・・・って、そんなことばかりやっているでしょ? そんな人たちの主張を聞かされた我々は、遠い目をして「ハぁ・・・」。 (終了) *************************************************** 発信後記 「派」の付く言葉として、「分離派」という言葉があります。 美術に詳しい人なら、この「分離派」というと、19世紀のウィーンの分離派(ゼセッシオン)を思い出すでしょう。有名なクリムトとかシーレとかココシュカですね。 主流のアカデミックな芸術から分離して、もっと新しい芸術を志向したわけ。いわば前衛グループくらいのニュアンス。まあ、今となっては、主流のアカデミックな画家の作品の方が残っていませんが。 あるいは、宗教の分野では、世俗化したロシア正教の主流から分離して活動した「分離派」があります。宗教本来の精神的な面を重視した活動を行いました。 だから、このロシア正教の分離派は、今で言うと、宗教原理主義者となります。 以前にも書きましたが、このロシア正教の分離派教徒はラスコリーニキといいました。ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公の名前がラスコリーニコフですので、まさに彼は宗教原理主義者のメタファーといえるわけ。 だから、「罪と罰」の冒頭においてラスコリーニコフが質屋のばあさんを惨殺するシーンは、宗教原理主義者が、金の亡者を惨殺するシーンと言えるわけです。 19世紀の小説そのままに、今の21世紀が始まったわけですが、天才の洞察力って時代を超えているものなんですね。 さて、分離派がロシア語でラスコリーニキということを、私が知ったのは、とあるオペラによります。19世紀のロシアの作曲家ムソルグスキーの「ホヴァンシティーナ」というオペラです。台本も彼によるものです。 この「ホヴァンシティーナ」は、分離派(=宗教原理主義者)の一団が、貴族のホヴァンシティ公の指導の元、西欧的に世俗化した皇帝に対し反乱を起こし、集団で立てこもるが、結局は武力で鎮圧される騒動を描いています。 この19世紀のオペラそのままに、パキスタンで騒動があったようですね。 実際の騒動の150年前に、その事件を題材にしたオペラ作品が出来上がっていたわけです。 常々思いますが、ロシアの芸術家が見せる途方もない洞察力には、恐怖するほど。 多くの人は、「変わるもの」には目が行きますが、「変わらないもの」には、目が行かない。しかし、人間の本質は、その変わらないところにある・・・のでは? 変わらないところほど、つまり本質的なところほど、多くの人には見えないものなんですよ。 まあ、だからミシェル・フーコーが「哲学の役割は、見えているものを、見えるようにすることだ!」と言うんでしょうね。 |
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R.11/1/27 |