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カテゴリー | ダメダメ家庭と「いい人」 | |
配信日 | 07年7月31日 (10年4月28日,11年2月7日 記述を追加 ) | |
タイトル | いい人でしょ?オーラ | |
ダメダメ家庭の問題を考えるに当たって、「似て非なるもの」に注意すること・・・このことについて、以前より書いています。 「考える」ことと、「学ぶ」ことは違っていますし、「会話」と「おしゃべり」は違いますし、「同情」と「配慮」も違う。そんな違いからダメダメの問題が見えてくるわけ。 と言うことで、今回も「似て非なるもの」を取り上げましょう。 ダメダメ家庭を作る人、あるいは、ダメダメ家庭出身者には、ある種の「いい人でしょ?オーラ」があったりするものなんですね。 この「いい人でしょ?オーラ」は、「いい人オーラ」とは違っています。その違いこそが、まさにダメダメ家庭を考える視点に対応しているといえます。 ダメダメ家庭の人間は、「いい人」志向があるものです。そもそも発想が減点法なので、「マズイことをしてはいけない。」と日頃から注意している。当事者意識がなく、自分でやり遂げたいものがないので、減点部分ばかりに目が行ってしまう。そして、その減点を必死に除去しようとする。減点がないから、結果的に、周囲の人からは「いい人」に見えるようになる。 それに、その手の人は、被害者意識の強い親に育てられたので、「親に迷惑をかけてはいけない!」と常に切羽詰っている。「いい子でいなさい!」と親から言われ続けたことが、いわばトラウマになっている。だから常に余裕がない状態。心に余裕がないので、自分のフィールドでのやり取りが怖い。自分の親に迷惑がかかってしまうことを警戒してしまう。だから、自分から積極的に外に打って出て、「ボクって、いい子だよ!」と先制的に主張するようになる。 それこそ「いい子」風の文章を書いて、「ボクって、いい子でしょ?」と主張したり、ボランティア活動などをやって、「ワタシって、いい人でしょ!」と言外に主張する。 あるいは、「困ったことがあったら、ワタシに言ってね!」と、頼りがいのある雰囲気を「作る」けど、実際に相談をされたら、権威筋認定の正論を言うばかり。 そして、正論を滔々と語る自分を確認して、「ねぇ!ねぇ!ワタシって、いい人でしょ?」と相談を持ちかけてきた人に圧力をかける。 そんな人って、実際にいたりするでしょ? やり取りをしている時に、なんとなく「ボクって、いい人でしょ?」と言った押し付けがましい雰囲気が感じられるタイプの人。結局は、それを認めてもらいたくて、色々な行動をやっている感じ。 しかし、本当に「いい人」は、そんな「いい人でしょ?オーラ」なんてありませんよ。むしろ、安心できる、リラックスできる、信頼できる、頼りがいがある・・・そんな感じがするでしょ? 本当に「いい人」というものは、自分から積極的に「自分はいい人だ!」なんて主張しませんよ。 この「いい人」の問題は、このメールマガジンにおいて、以前より触れております。その手の「ボクって、いい人でしょ?オーラ」の人は、自分が「いい人」で あることを証明するために、アクションを起こしているので、「自分の手を汚しても、協力する。」なんてこととは無縁。事態がマズくなったら、さっさとトンズラしてしまう。 まあ、ボランティアの連中ではおなじみの光景でしょ? あるいは、相談などの場において、相談してくる人が、現実的な話をしようとしても、そのような話をされる前に、正論でお説教して、そんな話が出てこない雰囲気を作ってしまう。 そうして、「相手の相談に、真摯に対応してやった。」と上からの目線で自画自賛。 「ああ!立派なことを語るボクって、なんていい人なの?みんなもそう思うでしょ?」と周囲に語ることになる。 しかし、相談してきた人の問題は、結果として解決したの? 本来なら、マトモな人は、そんな「いい人でしょ?オーラ」を出しているダメダメ人間の近くには、寄っていかないものです。「あの人・・・言っていること自体は、ごもっともなことなんだけど・・・なんか、薄っぺらいんだよねぇ・・・地に足がついていないというか・・・何だかなぁ・・・と言う感じ。」 そんな言葉もあったりするでしょ? しかし、なぜか吸い寄せられる人もいたりする。 それは、「いい人でしょ?オーラ」を出しているダメダメ人間の同類。 何と言っても、「いい人でしょ?オーラ」を出している人は、自分から逃避している。だから同じように自分から逃避している人間には、都合がいい。 お互いが、肝心なことを指摘せず、「ボクって、いい人でしょ?」『そうね!ワタシもいい人でしょ?』と楽しく盛り上がる。 この手の「いい人でしょ?オーラ」は、別の言い方をすると「このボクに面倒な問題を持ち込むな!」というオーラでもある。現実の面倒な問題から逃避して、「ああ!我々はうまく行っている!ボクたちって、いい人でしょ?」と、同類同士で共鳴。 そんな雰囲気は、ボランティアだけでなく宗教関係者などでもおなじみでしょ? そんな「いい人でしょ?オーラ」の文章などを読むと、何とも言えない不快感があったりするものですよね? 自分の目の前の問題を放置している人間が、現実無視のありがたい正論を得意顔して語っても鬱陶しいだけですよ。 しかし、そこそこアタマが回るダメダメ人間は、そんな「いい人でしょ?オーラ」を出している人も多い・・・ そんな観点で、人の文章を読んでみると面白いですよ。 実際にインターネットの世界では、メールマガジンとか、ブログなどで、こんな「いい人でしょ?オーラ」の文章って多いでしょ? やたら、正論連呼して、悦に浸っているような人。 それこそ、以前に取り上げた「人は生きているだけで、すばらしい存在なんだ!」とか、「自分の子供を愛さない親はいない!」という権威筋認定の正論を連呼する人。 あるいは、映画とか小説でも、あるいは、マンガやアニメのような分野でも、そんな「いい人でしょ?オーラ」を出している作品もあったりしますよね? まあ、そんな作者さんは、自己主張ではなく、結局は自己弁護をしているだけ。だから、作者さん自身も、その人の作品も「長持ち」しないでしょ? もちろん、「いい人でしょ?オーラ」が全然ないからと言って、長持ちするというものではありませんよ。 「いい人でしょ?オーラ」の対極にある、私のこの文章なり、書いている私が長持ちするか、なんて私自身にも分かりませんよ。 それに・・・本当は、こんな文章が不要になることの方が望ましいことですしね。 この手の「いい人でしょ?オーラ」の人は、減点法であって、逆に言うと、自分の減点箇所への反応は素早いものがある。別の言い方をすると、スグに逆上する可能性も高い。 「オレはこんなにいい人なのに・・・アイツのせいで・・・」なんて他者を犯人認定したりする。 ホント、まったく、いい人ですよ。 不自然なまでに「いい人」は、その種の「犯人認定行為」と結びつきやすい。 うまく行ったことは、自分のおかげ。→「だからボクはいい人でしょ?」 うまく行かなかったことは、○○のせい。→「だからボクはいい人でしょ?」 そんな行動や習慣の積み重ねが「いい人」と言うもの。 ちょっと前に、長崎県で、自分の息子に保険金を掛けて殺してしまった74歳の父親が逮捕されていました。その父親は地域から「名士」として認定されていたそう。 「あんな『いい人』がどうして?」との周囲の人の声が報道されていました。 その父親は、まさに「いい人でしょ?オーラ」を出していたんでしょうね。 まあ、長崎の純朴な人が、「いい人オーラ」と「いい人でしょ?オーラ」の違いがわからないのも、しょうがない。それとも、長崎県ならではの風土の問題で分からなかったのかな? その70歳を過ぎた父親も、そんなリスクを掛けて多額の保険金をゲットしてもねぇ・・・ 本来なら、老いた父親に小遣いでも上げるような人間に、子供を育てるのが、「いい父親」じゃないの? しかし、犯人認定の心理があると、そんな行動をしてしまう。 その父親は、お金がほしいというより、誰かを犯人認定したい・・・そっちの心理の方が強いのでは? 犯人認定するのなら、ある意味において、自分と関わりのある人間でないとダメと言える。自分に関わりがある人物だから、自分の不都合な事態の理由を、その人に「押し付ける」ことができるわけでしょ? まあ、そんな父親だからこそ、子供だってうまく育ちませんよ。そうなると、まさに「子供のせいで・・・」なんて被害者意識を募らせることになる。 「オレはこんな『いい人』なのに・・・子供のせいで!子供のせいで!」 そして、その「子供のせい」ということを、自分自身に確定させる行為をすることになる。 過剰なまでに「いい人」というものは、その「自分は、いい人」という前提条件が崩れないように、日頃から行動しているもの。ボランティア活動をするくらいならともかく、他者を犯人認定する行為も、やっていたりする。 逆に言うと、ボランティア活動に熱心な人は、犯人認定の可能性もあったりする。 「いかにもな」いい人による雰囲気と、一緒にいると、なんとなくリラックスできる人の雰囲気って、結構違っていたりするものでしょ? その違いに早めに気がつかないと、後々になって面倒なことになってしまいますよ。 実は、この手の「ボクって、いい子でしょ?」という「押し付けがましい」善意の人は、たとえば、「ボクは差別なんかするような、悪い子じゃないんだ!」と過剰に主張したりするもの。 たとえば、「ワタシは韓国ドラマを大好きよ!」などと先制的に言い出したりするんですね。 その人が韓国ドラマを好きなのは、その人の勝手でしょう。 しかし、そのようなことは、他者に対して先制的に言う話ではないでしょ? 聞かされた方はどうすればいいの? 逆に言うと「ワタシはフランス映画が好き!」という言葉は、先制的には言われないもの。 本来なら、「フランス映画が好き」という言葉の方が、現実的には、格が上でしょ? しかし、フランス映画が好きということは、やり取りの相手から聞かれたら答えとして言うことはあっても、自分から率先してそのようなことは語らないでしょ? だって、語ってもしょうがありませんしね。 しかし、往々にして、「韓国ドラマを好き!」ということについては、先制的に語られたりする。 まあ、その言葉を聞かされた側も、韓国ドラマを好きなら、それで話が弾むでしょう。 しかし、そんな映画やドラマについてのやり取りを期待して切り出したのなら「ワタシは韓国ドラマを好きなんだけど、アナタはどうなの?」という疑問形で聞くでしょ? 「ワタシは韓国ドラマを好きだ!」と、先制的に主張するなんて、ヘンですよ。 しかし、「ワタシは韓国ドラマを好きだ!」という言葉が、「ワタシは韓国人を差別するような悪い子じゃないんだよ!」「ワタシは被害者に配慮する『いい子』なんだよ!」と言う心理的なメッセージを持っているとすると、そのような先制的な主張も理解しやすい。 このように、「ワタシって、いい人でしょ?オーラ」を出している人は、往々にして、「差別」が発生しているような状況に首を突っ込んだりする。 韓国ドラマだけでなく、それこそ問題のあるような学校にわざわざ自分の子供を入学させたりする。 そして「ワタシはこの学校を差別するような、偏見を持っているような悪い人間ではないんだよ!」と無言で主張することになる。 しかし、親の「いい人」主張のネタにされてしまう子供はどうなるの? あるいは、ヘンテコな名前を自分の子供につける親もいますよね? そんなヘンテコな名前や、そんな名前をつける親を必死で弁護したりする。 そうして「ああ!色眼鏡で見ないワタシって、なんていい人なの?!」と勝手に歓喜する。 しかし、ヘンテコな名前を差別しないのはいいとして、自分の子供にそんなヘンテコな名前を付ける親は、それ以外のダメダメなことを自分の子供にしていますよ。 それを指摘してあげることこそが、子供のためじゃないの? その手の人は、差別をしないとか、偏見を持たないとかにはこだわったりする。 しかし、差別をしないとか、偏見を持たないとかは、二重否定であって、対象となる人物の価値を認め肯定したものではないでしょ? 差別とか偏見が、実質的に発生している状況にわざわざ飛び込んでいき、そして「ワタシはそんな差別はしないわ!」と主張する。 逆に言うと、そんな状況がなければ、その人にしてみれば「ワタシって、いい人!」という主張ができなくなってしまう。 だから、本質的には、事態を解決する発想は持っていない。 市民運動とかボランティアなんて、まさにそんな行動スタイルでしょ? その手の活動は、自分たちが「ああ!ワタシたちって、いい人!」と思いたいがために、そして周囲に主張したいがための活動とみると実に理解しやすいでしょ? 事態の解決のためには、厳しい現状認識なり、洞察力や行動力も必要になってくる。 まさに、黙示録のヨハネが言うような「冷たくもあり、熱くもある」必要がありますよ。 しかし、「いい人でしょ?オーラ」の人は、「ワタシは差別なんてしないわ!」と言っていれば「ワタシはいい人だ。」と言えるわけだから、トラブルを発生させる状況が温存されているのがうれしいわけです。 しかし、だからこそ、そんな状況に首を突っ込んだあげく、事態が悪化して、ニッチもサッチも行かなくなると、その手の「いい人」は、トンズラしてしまう。 その手の人は、自分の手を汚してまで、何かを達成する人ではない。 何も達成したものがないからこそ、過剰なまでに「ワタシって、いい人なのよ!」と、ますます先制的に主張せざるをえなくなってしまう。 「いい人でしょ?オーラ」の人は、人から嫌われないように必死になっている。 逆に言うと、人から嫌われてもやり通す強い信念を持っているわけではない。だから、物事を最後までやり通すことをしないで、ちょっとでも不都合な事態になると、プイっと放り投げてトンズラしてしまう。 よく男女間で「あの人は、いい人とは言えるんだけど・・・何というか・・・いい人どまりというか・・・」なんて言われたりする人もいるでしょ? そんな「いい人どまり」の人を理解するには、「いい人でしょ?オーラ」と、「信頼できる人」の違いに目を向ければ、容易に理解できるようになるわけです。 いい人どまりの人は、ちょっとでも事態が悪くなると、スグにトンズラしてしまう人。 「富める時も、貧しい時も・・・」と、生涯を供にする人とは言えませんよ。 実際に、その手の「いい人どまり」の人とやり取りをしていると、段々とイライラしてきてしまうでしょ? 嫌われたくないと、周囲に合わせている人は、最後には一番嫌われるもの。 逆に言うと、そんな人に引っかかってしまう人は、やっぱり同類であり、確たる信念なり、自分なりのディシプリンもなく、周囲に合わせているだけの人。そして、そんなライフタイルを「ふつう」と言ってありがたがる人。 そんな人には最期まで付き合ったら面倒なことになるだけ。 どうせ、その手の人は、何かを達成できる人ではないんだから、なんとなくではなく、明確な意識を持って距離を取る必要があるわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 もともとは、「いい人」だったのに、今現在は「いい人でしょ?」の側に堕ちていってしまったのが、安倍さんかな? まあ、選挙では見事なくらいの負けっぷりでしたが、何もポストにしがみついていないで、能力をつけてから、それこそ再チャレンジすればいいじゃないの? と言っても、自分自身に自信がない人は、ポストがないと、人が自分のことを聞いてくれないと思っているもの。会話の能力がないので、命令を下すことしかできないわけ。安倍さんもそんなコンプレックスの強く、序列意識が強い人なんでしょうね。 安倍さんによる印象に残っている言葉って思いつかないでしょ? 小泉さんだったら、まだ色々と思い浮かびますが、安倍さんの言葉って何か思い浮かびますか? ドンピシャ!という表現だったら、それこそ、その言葉自体が勝手に仕事をしてくれるもの。それこそ岡山では「姫の虎退治」なるキャッチコピーで、民主党が勝ったようですが、その勝利には、印象的なキャッチコピーの効果もあるわけ。言葉自体がイメージを作っていくこともあるんですね。 まあ、印象的な言葉を発する必要はなくても、自分自身の考えを、自分の言葉で語る・・・それが基本でしょ? 安倍さんは、その自分自身の考えがそもそもないし、だから自分の言葉になっていない。これは主義主張の問題ではないんですね。 自分自身の考えを、自分の言葉で語らないから、聞いていても、「なんだかなぁ・・・」となってしまう。 あの年金問題だって、「今の段階では、このように認識しており、今後は、このような対策を取る予定です。」とか言えば済む話。「オレのせいじゃないんだ・・・」なんて弁解に終始するから、信頼されなくなるんでしょ? この点は、ダメダメ家庭の周辺では、むしろお約束の状況といえるでしょ? あるいは、グッドルーザーでないことも、ダメダメのお約束なんですが・・・ まあ、グッドルーザーでないから、誰かを犯人認定する・・・ 「ボクって、いい人でしょ?」の人は、そんな風に、周囲をメチャクチャにしちゃうんですね。 |
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R.11/2/7 |