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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
配信日 07年8月7日 (10年10月27日,10年11月23日 記述を追加)
タイトル 芸術の不在
このメールマガジンでは、たびたび似て非なるものについて言及しております。
今回は、その似て非なるものとして、芸術と芸能について考えてみたいと思っています。芸術と芸能の間を無理に分ける必要はありませんが、やっぱり違うものでしょ?
芸術というと、いわゆるクラシック音楽とか西洋絵画とか・・・そんなジャンル的な問題として考えたりしますよね?そして、テレビに出て歌を歌っているような芸能人は、芸術家と違って、高尚ではない。
まあ、一般的にはそう言われたりするもの。

しかし、今回は、ジャンルではなく、創造性なり問題意識という観点から、芸術と芸能を分けて考えます。
創造性が宿っているものは、芸術と呼べるでしょうし、宿っていないものは、芸能となる。
クラシック音楽のコンサートにおいても、創造性が宿っている演奏なんて、めったにありませんよ。創造性がないクラシック音楽は、高尚かもしれませんが、所詮は「気晴らし」止まり。また、いわゆるマンガのようなものでも、創造性が宿っているものがある。
ジャンルだけの問題ではないんですね。

あるいは、別の言い方をすることも可能でしょう。
芸術というものは、受け手にとって厳しいものであり、芸能というものは、受け手にとって楽しいものである。
同じ作品に接しても、一方は「楽しかった!」とだけ受け取り、別の人は「こんな視点があったのか?」と考えることになれば、芸術と芸能の問題については、受け手のキャラクターに依存する面もあるわけです。つまり、問題意識がない人は、どんな作品も芸能の一種としてしか受け取れないわけ。

個人的なことになりますが、実は、ちょっと前から、いわゆるカルトの問題についての本を読んだりしています。
まあ、カルトというと多くの新興宗教などがその典型ですが、国としての北朝鮮も、カルトの一種でしょ?
カルトというものは、外見的には、外部との接触を少なくして、排他的な集団と言えます。中心となる人物がいて、一つの考え方で集団をまとめている。そんなスタイルですよね?そして、往々にして共通の敵も設定していたりするもの。これは宗教カルトだろうが政治カルトだろうが、同じでしょ?

外部に対して排他的なのはともかく、その手の集団って、芸能はあっても、芸術はありませんよね?
教祖様や将軍様を讃える「作品」はあっても、人間の内面に切れ込んだ内容を持つ「作品」はないでしょ?だから、その「作品」も、所詮は、「憂さ晴らし」止まり。
その手の集団の一員が作り上げた永遠の生命を持つ作品はありますか?共産党の場合は、芸術家も出現したりしていますが、その手の創造的な芸術家は、結局は共産党から破門されたりするもの。人間の内面にまなざしを向けるような作品は、カルトにはご法度なんですね。カルトは芸能人には優しくても、芸術家には冷たいもの。

「気晴らし」や「憂さ晴らし」そのものが悪いわけではありませんが、それだけだったらダメでしょ?
人間の内面の普遍的な問題まで突っ込んでいかないと、永遠の生命を持つ芸術作品にはなりませんよ。

人間の内面の普遍的な問題まで目を向けるから、永遠の生命を持つ芸術作品になる。逆に言うと、自分の内面から逃避している集団では、そんな芸術作品は生まれない。
カルトというものは外部に対して接触がないだけでなく、人間の内面に対しても、接触がない・・・そんなものでしょ?だからこそ、人間の内面に目を向ける芸術作品を歓迎しないわけ。

いわゆるカルトの集団は、精神的な領域の言葉はよく使うけど、実際に自分の内面を見てはいないでしょ?別の言い方をすると、自分の内面から逃避することによるラクさを提供するのが、その手の集団の発想であり機能でしょ?
そうやって、「ボクは悪くない!」「悪いのは全部○○のせいだ!」と他者を犯人認定し、その関係性を確定させるために誰かをつるし上げ。
まあ、当人たちの憂さは晴れるでしょうが、だからと言って、内面の充実にも尊厳にもつながらないでしょ?

そんな人たちからは、「気晴らし」や「憂さ晴らし」を提供する芸能人は輩出しても、人々の苦悩や真理を表現できる芸術家は生み出さない。クラシック音楽の分野でも、「当たり障りのない」「権威筋認定」の規格品的な表現しかしない演奏家だけを賞賛するようになるわけ。
問題意識を掘り起こしたり、問題意識を直視するような人や作品は歓迎しない。
むしろ、チャレンジ精神にあふれた創造的な芸術家を弾圧するようになる。

ちょっと話題になっている団体でも、「何を持ってカルトなのか?あるいは、一般的な宗教の変種なのか?」について考えて見る際に、法律的な面なり、宗教の教義の面からは色々と議論はあるでしょう。
しかし、その一派が、人の内面の普遍的な問題を描き出した芸術家なり作品を生み出しているのなら、カルトとまでは言えないわけ。それだけ、人間の内面にまなざしを向けていることがわかるわけ。
逆に、それなりに長い年月を経て、一般的には認知されている集団でも、その年月の中で、創造的な芸術家や作品を生み出していない一派は、法律的な面はともかく精神的なり心理的な面においてはカルトなんですね。
イスラム教社会って、芸術作品を生み出してはいないでしょ?
朝鮮半島で生まれた、歴史に残る芸術作品って、具体的には何?

私はクリスチャンではありませんが、キリストは言っています。
「私はこの世に平和や幸福をもたらすために、やってきたのではない!」
「むしろ、争いを巻き起こすために、やってきたのだ!」
そんな精神は、「憂さ晴らし」の精神の対極でしょ?

「気晴らし」や「憂さ晴らし」を拒否して、狭き門より入る・・・そんな精神がないと、芸術家は誕生しないわけ。逆に言うと、創造的な芸術家が存在しているとしたら、その集団がそれなりにマトモな面も持っていることがわかるわけです。
それだけ自らの内面を直視し、自分自身に甘くはないわけ。

人間の尊厳って、自分に甘くしていては到達しないものでしょ?
どんな宗派でも、永遠の生命を持つ「作品」は、自分に対する厳しさからしか生まれないもの。自分の内面に目を向けている人は、他の人間のことなどは、構っているヒマはありませんよ。だから、周囲にしてみれば危険とは言えない。だって一人で勝手に悩んでいるだけなんですからね。放っておいても大丈夫ですよ。
自分たちの問題意識が明確になっていれば、まさに当人自身で対処していく話ですからね。
危険な存在となるのは、自分の内面から目をそらすために、他の人間の問題に首を突っ込んだり、あるいは気晴らしの芸能に逃げ込む人たち。自身の問題意識が明確ではないからこそ、他との関りが必要となってしまい、そして、それが被害者意識と結びつくと、結局は、相手を犯人認定するようになってしまう。

問題意識があれば、それが芸術に繋がることもある。
芸能は問題意識を紛らわせることができ、目をそらすことができる。
別の言い方をすると、リラックスに繋がるのが芸能で、緊張に繋がるのが芸術といえるでしょう。

たまには気晴らしもいいけど、ある程度は、自分自身に向き合ってもいいのでは?
お金がかかるわけでもないし、一人でも出来ることですしね。
まあ、未来に残る作品を生み出すことができるかどうかは別問題として、そんなことをやっていれば、カルトなどに引っかかったりはしませんよ。
しかし、自分の問題を直視し、自分なりに考えるよりも、さっさと回答を与えてもらう方がラクなのは事実。だから、人はカルトにすがってしまう。しかし、現実を見ることを否定し、問題意識を持つことを否定しているわけだから、事態は何も解決せず、ますます「悪いのは全部○○のせいだ!」という犯人認定が過激になるばかり。そんな過激な犯人認定行為は、まさにカルト団体のお約束でしょ?

人間のやることは、時代によっても、場所によっても、同じようなことをやっていたりするもの。そのような人間の普遍性への洞察に基づいた表現に到達しているのが芸術ではないの?その知見が普遍性に到達しているから、今現在の問題も的確に理解できるようになるわけ。

最近(07年)面白いなぁ・・・と、私が思っているのが、お相撲の「朝青龍さん」のトラブルです。病気なのに、母国のモンゴルに帰って、サッカーをしていた・・・とかで話題になっていますよね?

以前に、ジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」を取り上げました。その折に、規格外的に卓越した能力がある人間と、規格品の指導者との相性の悪さの問題を考えてみましたが、この朝青龍さんの問題は、まさに絵に描いたようなそのパターン。

寂しがり屋で甘えん坊のヤンチャ坊主で、かつ能力の高い人間は、規格品の優等生の下では、うまく行かないものなんですね。
そんなことは、ちょっと芸術的洞察力のある人だったら、スグにわかること。

お相撲の何とかの委員会では、確か女性の脚本家の人もいたと思いますが、その脚本家さんが洞察力のある人だったら、その朝青龍さんの問題も的確に理解できるでしょうし、対応も的確でしょう。ヘンな話ですが、その委員会にジョージ・ルーカスさんがいたら、もっと的確に処置していますって。

今回のトラブルが大きくなってしまっているということは、その脚本家さんが、人間の内面を何もわかっていないということが見えてくるわけ。まあ、所詮は「気晴らし」の芸能止まりなんですね。もちろん、芸能止まりと言っても、その脚本家が、カルトの信者ということではありませんよ。まあ、ある種の犯人認定につながる危険性は高いと言えますが・・・
芸能止まりということは、受け手にとって、厳しい視点を提示することがない・・・そんな甘い文章を書いている・・・ということ。
しかし、その程度のものを受け手の側が求めているわけですから、これはこれでしょうがない。別の言い方をすると、一般の人が愛好する商品性は高い文章ということなんでしょうからね。

たびたび言及したりしていますが、フランスにマルグリット・デュラスという作家がいました。彼女は、まさに共産党から破門された人。その彼女が「面白くない本」をこのように描写しています。
『感じがよくて、何も残らず、夜がなく、 沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供。』
芸術家デュラスには面白くない本ですが、逆に言うと、芸能って、まさにそれでしょ?

まあ、お相撲の役員をやっている、女性の脚本家の文章がどんな文章なのか?
その文章を読まなくても、わかるというもの。

自分に優しい作品しか受け付けない「受け手」と、自分の内面から逃避する「作り手」が、甘〜い「作品」を通じて、「まあ!ワタシって、いい人!」と盛り上がる。
それはそれでいいのですが、そのツケって、結局は、どこかに集まってしまうわけ。
だからこそ、ドッカーンとなっちゃうわけです。

ちょっと話題になっている集団があって、「あの人たちは、芸能人はたくさんいるけど、その人たちの『作品』って、あまり印象に残っていないなぁ・・・」なんて思わされるようだったら、その集団はダメダメ集団なんですね。

単にダメダメならともかく、外部の人間を犯人認定して、集団で攻撃するような可能性も高いわけ。しかし、外部に目を向けるのではなく、人間の内面に目を向けるのが宗教の本来のあり方じゃないの?しかし、それをしないタイプの宗教が、まさにカルトのカルトたるゆえんなんですね。

これについては宗教的なカルトだけでなく、政治的なカルトの一種である『市民運動』や『女性運動』でも、まったく同じでしょ?その手の団体って、芸術家はいませんよね?賞味期限切れの『元』芸術家はいたりすることもありますが、『現役』はそんなことはしていませんよ。それに『元』芸術家も、じゃあ、現役時代の「作品」はそんなにすばらしかったのか?というと、後になって読んでみると、「な〜んだ!全然たいしたことないじゃん?!」と思うような「作品」でしょ?程度のいい「気晴らし」や「憂さ晴らし」や「自己弁護」止まり。そもそも政治を改善するにせよ、人の心に踏み込んでいかないと、改善なんてできませんよ。

しかし、人の心の奥底まで踏み込んでいくが故に、芸術家は一般市民には受け入れられない。どんな組織でも、あるいはどんな時代でも、「芸術家を援助する。」ことはしているもの。しかし、援助された芸術家が、後世に残る作品を残すというものではないわけ。
だって、同時代の一般人に「芸術家」と認められても、それは、その人の作品が、商品性の高いものであることの証明のようなものでしょ?

基本的には、どんな組織でも、どんな時代でも、創造的な活動をした芸術家は受け入れられないものなんですね。だって、創造的な芸術家は、政治とか国家に反抗するのではなく、一般の良識ある市民に反抗するもの。ある意味において、実にタチが悪い存在なんですよ。
一般市民の規格品的な安寧の「あやうさ」を指摘するんだから、その作品が創造的であるがゆえに、市民には受け入れられないわけ。

どんな組織でも、どんな時代でも、創造的な芸術家が受け入れられないことは変わらない。
しかし、マトモな精神的な土壌を持っているところなら、時代を経れば、かつての創造的な活動も、ある程度は受け入れられることになる。
創造的な芸術家が直面していた問題意識が、後になってより一般的になる場合もあったりする。そうなってくると、「ああ!あの人が必死で表現しようとしていたことは、こういうことだったのね!」とそれなりに納得することになる。
創作当時は認められなくても、後世では認められるケースが発生することになる。

しかし、ダメダメな地域だと、創造的な活動そのものがなされないわけ。
自己逃避の発想が、もはや標準となってしまって、荒野で呼ばわる人が誰もいなくなってしまう。そうして、ある程度まで洞察力がある人でも、一般のダメダメ人間と一緒になって、「悪いのは全部○○のせいだ!」と共鳴しているだけ。
そんなところでは、後世に残る作品は生まれていないでしょ?
時代が経って、やっとのことでその価値が分かってきたというパターンすらもなくなっているわけ。それだけ、地の塩も生まれないほどに心理的な土壌自体が腐ってしまっているわけです。

宗教でも、政治でも、その集団のメンバーの「内面」がどのように表現されているのか?
あるいは、直面している問題意識がどのようなものなのか?
そのようなことが表現されている作品の一つくらいは、持っていないとね。
そんな作品がないのなら、そんな集団のことなど無理に理解する必要はないわけ。むしろ距離を置くのが、自分自身のためなんですね。

(終了)
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発信後記

今回のような、ちょっと抽象的な文章は、読み手にとってはわかりにくいでしょう。
別に無理に理解する必要はありませんよ。

ただ、たまには、こんな抽象的な文章も必要と思うんですよ。
もちろん、この種の文章が続かないようには、配慮いたします。

いわゆる「文化的」とされるものでも、高尚な「気晴らし」レヴェルのものも多い。そんな「作品」は、後になって思い出そうとしても、あまり思い出せないでしょ?
私としては、気晴らしや憂さ晴らしの文章を目指しているわけではありません。むしろ、人の心に波紋を巻き起こすことが目的です。

そんな文章なんだから、「読んで腹がたった!」と感想を持つこと自体は、私が望んだところ。腹も立たないような文章ということは、それだけ「受け手」の知見が広がらなかったということでしょ?まあ、巷にある、ほとんどの文章って、腹が立つ文章というより、呆れる文章の方が多いものですが・・・
せっかく、腹が立ったのだったら、重要なことは「それから」というわけ。それは各々が自分で考えていくしかないんですね。
R.10/11/23