トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | 当事者意識の欠如 |
配信日 | 07年10月5日 (11年2月2日 記述を追加) |
タイトル | 余裕シャクシャク |
ダメダメ人間は、当事者意識がない。 自身で達成したい目標があるわけでもないし、自分の問題を、自分の力で解決しようなんて思ってはいない。常に他力本願でいる。 と言うか、自分自身の周囲にトラブルが起こっても、その問題を自分自身の問題とは認識しない。 このことは、このメールマガジンで何回も書いています。 だから、実に余裕シャクシャクの精神状態になることができてしまう。 そもそも、自分の目の前の問題なんて、全然考えないわけだから、どんな問題があっても、当人の心を煩わせることにはならない。 まあ、何と幸せなこと! 自分の目の前の問題を、自分で解決するためには、キレイごとだけでは済まないでしょ? その問題を、どうやって認識するのか? どうやって、少しでも改善していくのか? 過去の実例はどうだったのか? 似た事例ではどうなのか? どうしてこうなってしまったのか? その分野に詳しい人は、どのように考えているのか? どんな人がその問題に詳しいのか? そんなことを必死で調べて考えないとね。 上手く行っている家庭の人ほど、そんな必死さがあるもの。それこそ、この私にお便りされる場合でも、ちゃんとしている人は、必死さがある。 それは、家庭問題に限らず、問題に対処する際にはそんなものでしょ? だって、事態が小さいうちに対処すれば、クラッシュにはならないわけだから、早い時点で認識して、早めに対処する必要があるでしょ? 問題が小さいうちから認識するって・・・意外に難しいんですよ。悠然と構えていたら、前兆を認識することすらできませんって・・・ 逆に言うと、ダメダメな人ほど、超然としている。 「オマエの話は極端だ!」 「話の進め方が粗雑だ!」 「色眼鏡で見ている!」 言いたいことは色々とあるでしょうし、そのような意見そのものは、もちろん受け手の自由でしょう。しかし、この私が一番、疑問に思うのは、「結果として、購読者さんが、ご自身の問題を顕在化できたのか?」あるいは、「トラブルを解決できたのか?」あるいは、「ご自身の家庭がうまくいっているのか?」 そのような点なんですね。 自分自身の問題を何も見ようとしないのに、ただ、他者の文章にケチをつけてもしょうがありませんよ。 どうせ、ケチを付けるのなら、「オマエの文章だと、このように書いてあるけど、そのような観点からだと、ワタシの目の前で起こっていることが理解できない。もっと、別の視点から考えてみたらどうか?」とか、「たとえば、こんな考え方の方が、オマエの考え方よりも、もっと現状理解につながるのでは?」 そんな反論なら、私も納得しますし、大歓迎ですよ。 まあ、キリストだって言っているじゃないですか? 「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気が付かないのですか?兄弟に向かって『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか?見なさい!自分の目には梁があるではありませんか・・・」 まあ、それくらい、見るということはタイヘンなんですよ。 それこそ2千年前から全然変わっていない。 しっかし・・・イエスさんは良いこと言うねぇ・・・ホント感心するよ! 自分の目の前の問題を見ることは実に難しい。だから見るためには色々と工夫がいるもの。 たとえば、このメールマガジンでは、よく韓国の問題に触れますが、別に韓国人の問題を直接的に考えるつもりはありません。 往々にして、人間というものは、自分の目の前の問題が認識できない。 だからこそ、自分の目の前の問題を、別の場所に拡大投影しているだけです。 「韓国人のダメダメさを考えながら、自分たちの問題を認識しようよ!」って、言っているだけです。 日本にいるダメダメ人間を理解するのにも、韓国人の振る舞いを観察し、その『違和感』を元に、自分の目の前を見直してみることが、有効なんですね。 もちろん、そのような手法は、ちょっと誤解されやすい。そもそも、人間は自分たち自身の目の前の問題が見えていない・・・その「見えていない」こと自体が、多くの人には見えていない。 それこそ、ソクラテスが「無知の知」から出発しようよ!と口を酸っぱくして言わなければならないようなもの。 表現する人間が行っている、自分たちの目の前の問題を認識してもらうための努力は、まあ、理解されにくい。 まあ、それはいいとして・・・ 何回も書きますが、自分たち自身の目の前の問題を、見るのは、実にタイヘンなことなんですね。 認識するだけでもタイヘンなのに、それを改善するのは、もっとタイヘン。 とてもじゃないけど、余裕シャクシャクとは行きませんよ。 しかし、当事者意識のない人間は、自分たち自身の目の前の問題なんて、認識しないし、認識しようともしない。多少認識しても、対処に当たっては、常に他力本願で、だからこそ傍観者然としている。だから、余裕シャクシャク。 そんな余裕シャクシャクの他力本願な親が、子育てをすると・・・ 子供としては、そんな傍観者然とした親を頼りにできるわけもなく、子供は「自分の身は自分で守らないと!」と常に切羽詰った心情になってしまう。 だからこそ、事件も起こることになる。しかし、余裕シャクシャクのダメダメな親は、事件が起こった後になって初めて、「どうして、こんなことに?!」と大慌て。 その時になって、余裕をなくしても、遅いんですよ。 しかし、ダメダメな親は、そんな事態になっても、「まあ!なんてお気の毒なの?!」「アナタは何も悪くないわよ!」なんて言ってくれる人を周囲に侍らせて、『ここにいるミンナも言っているように、ワタシは悪くない。』んだから・・・と、やっぱり悠然と構えている。 そもそも、こんな余裕シャクシャクの人は、自分自身の問題を認識しないのだから皮肉も通じない。 あるいは、直面している問題に真剣に向き合っている人は、相談する際には、余裕シャクシャクの人には相談も持ちかけない。やっぱり事態に真剣に向き合っている人に相談を持ちかけますよ。 「あの人には余裕があるように見えるから、ワタシの話にじっくりと対応してくれるだろう。だから、相談を持ちかけよう!」・・・そんな感じで、相談相手を選択する人は、解決する気がもともとない人と言えます。そんな人は、ただ、相談というアリバイがほしいだけ。本気になって解決するつもりなら、もっと必死で活動している人に相談しますよ。 それこそ、余裕シャクシャクの宗教関係者に相談しても、返ってくる答えなんて予想できるでしょ? ただ、権威スジ認定の教科書通りのことを、さも「教えてやる!」と言った雰囲気で説教するだけ。 余裕がありそうな人に相談を持ちかけた側も、「相談した」というアリバイができたわけだから、事態が何も改善しなくても、追加して質問することもなく、それでOKとしてしまう。だから、余裕シャクシャクの人は、自身として真剣な相談を持ちかけることをしないだけでなく、真剣な相談を寄せられることもなく、シビアーな現実とは無縁でいられ、ますます余裕シャクシャクになる。 ちなみに・・・ この余裕シャクシャクの表情を最近ニュ−スで見ることができましたよね? 若いお相撲さんがお亡くなりになって、相撲協会の親方とか理事長とかがニュースに登場していました。 その方々の表情が、ビックリするくらいの余裕シャクシャク。 「へぇ・・・なんか騒ぎが起こっているだねぇ・・・何かあったのかな?」そんな表情でしょ? 「明日は土曜日だから、月曜日にでも、まあ、とりあえず話でも聞こうかなぁ・・・」 って、なんともまあ! しかし、当事者意識がないと、どんなトラブルも我関せずになってしまう。 ある意味、幸福なんでしょうが、その幸福って尊厳とは無縁でしょ? 尊厳とは無縁な状態が、まさにダメダメということじゃないの? そんな余裕は、自分で何かを作り出すという発想がないがゆえに持つ、いわば傍観者としての余裕でしょ?「自分がこのような立場だったらどうなんだろうか?」とか、「自分がこんなことを表現するのだったら、どのように表現するのか?」なんて微塵も考えない。 そんな人は、傍観者然として、あるいは評価者然としたコメントを上から目線で出して大喜びしていられる。 そんな人は、インターネットの掲示板にいっぱいいるでしょ? 傍観者然とした余裕を持つ人は、当然のこととして、自身では何も達成できない。 だからこそ、内心ではコンプレックスが大きくなっていく。 だからこそ、ますます真剣さが怖い。そして、逃げ場が近くにないと安心できない。 ダメダメ人間の余裕とは、「達成したものがある。」という自信に裏付けられた形で、自分を肯定したものではなく、「自分はミスをしていない。」という二重否定的なものにすぎない。 そして、そんな否定的な心理はますます加速していく。 自分を肯定していないが故に持つ余裕、逃げ場が近くにあることが確認できるが故に持つ余裕・・・ダメダメ人間の持つ余裕はそのような観点で見ると理解しやすいでしょ? つまり、本質的に見て否定的な精神から来ているわけです。 だから、そんな余裕からは何も達成できないんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 お相撲さんがリンチでお亡くなりになった事件ですが・・・ ホントにビックリするくらいの余裕シャクシャク状態ですよね? そうして「アナタたちは悪くないんだ!」なんて言ってくれる人の話をウットリと聞くだけ。 ・ ・・けど・・・ そんな状態だったら、当然のこととして、マトモな人は新たに入門はしませんよ。 本人にその気があっても、周囲の人、特に親は止めますよ。 だって、その親は「自分の息子を相撲部屋に放り込んだ親」というレッテルが貼られるわけでしょ? 秋田県のあの事件の母親と同じ扱いになってしまいますよ。 昔流の言い方をすると、「娘の縁談に響く」ことになる。 何か事件が起こったら、それこそ、まなじりを決して取り組まないとね。 まあ、あんな余裕ある態度を、ダメダメな親もやっているもの。だからこそ、子供が事件に巻き込まれることになってしまう・・・ 考えてみれば当然のことでしょ? |
|
R.11/2/2 |