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カテゴリー ダメダメ人間の自己逃避
配信日 07年10月16日 (10年6月12日 記述を追加)
タイトル 考えないために考える
ダメダメ人間は、当事者意識がないので、自分で考えることをしない。
と言っても、曲がりなりにも考えることもある。ダメダメ人間が考える目的は、「自分が考えないようにする」ため・・・

『オイオイ!何わけわからないことを言っているんだ?』
そう言いたくなるでしょ?

「自分で考えないために、考える。」って、訳わからないよ。

まあ、わからないのは当然。
と言うことで、別の言い方をしましょう。

自分が考えなくても済むシチュエーションを獲得するために、自分で考えるわけ。
あるいは、自分で責任を取らなくても済むシチュエーションを得るために、考えたりする。

一般論だとやっぱりわかりにくいので、具体的な事例を考えてみましょう。
被害者意識が強いダメダメ人間が周囲に要求するのが、コレ。
「ワタシが可哀想な被害者であることをわかってほしい!」
自分が被害者であることを説明するためには、自分でもそれなりに考えるわけです。
「あのとき、アナタがこんなことをしたじゃないの?」
「こんな時代でなかったら、ワタシたちは・・・」
そうやって、自分の被害を周囲の人間に対して、どのように伝えるのか、その点については考えたりする。

しかし、じゃあ、被害者であると認めてもらったら?
そうなると、このように主張することになる。
「ワタシはかわいそうな被害者なんだから、その問題の解決は、加害者であるアンタたちが考えてよ!」

この流れは実にポピュラーでしょ?
『 自分はこのようなことを達成したい。→ しかし、このような点が障害になっている。 → だから、その障害の除去に協力してほしい。 → その障害がなくなったら、あとは自分のやりたいことを思う存分できる! 』

そのような流れにはならないわけ。

自分自身がやりたいことが何もないダメダメ人間は、自分が考えなくてもいい立場を獲得するためには、色々と考えるわけです。

それこそ、フェミニズム運動なんて、その典型でしょ?「ワタシたちはオトコたちによる被害者なんだ。」ということを説明するためには、その人たちなりに考えるけど、じゃあ、『その手』の女性たち自身がやりたいことって、いったい何?

本来は、当人自身が「やりたいこと」を実現するために考えるのがスジでしょ?そのための障害を除去するために、色々と考えたり、運動を展開することもあるでしょう。

同じようなことは、韓国人にも言えますよね?韓国人は日本に絡んできますが、じゃあ、その韓国人自身がやりたいことって何?
それを本人たちもわかっているの?
本人たちがわかっているのなら、その実現のために考えればいいじゃないの?必要に応じ、周囲の人に協力してもらえば済む話。

しかし、ダメダメ人間は、自分たちが実現したいもの、それ自体がないわけ。
まさにエーリッヒ・フロムが、その著書「自由からの逃走」の中で論じている「○○からの自由」は持とうとするけど、「○○をする自由」からは逃げ回る・・・そんな姿そのもの。

割と似たパターンだとボランティアの人たちもそうですよね?
自分自身で何をしたいのか?何を達成したいのか?
それを自分で考えることから、逃避するために、「他人のこと」を考えるわけ。
「困っているあの人たちのことを、真剣に考えましょう!」
「ワタシたちだけが、幸せになっていいのか?」
まさに「考えないために、考える」典型でしょ?

あるいは、子供が好きでもないのに、子供を作ったりするダメダメな人も多くいますよね?
「アンタ・・・どうして、好きでもないのに子供を作ったの?」
そんな質問に対しては色々と考え回答する。
それこそ、少子化対策の必要性だったり、周囲から言われたとか、あるいは「だって、それがフツウじゃないの?」等々。
そんな理由は色々と考えるわけですが、子供を作ることによって、自分の老後を考えたくない・・・そんな理由もあるわけ。
「あとは、全部子供に押し付ければいいや!」
「後のことは、全部子供が考えてくれるわ!」
もちろん、子供を作らない理由について考えるのがイヤとか、ヘタをすれば、離婚しないための理由がほしいという理由もあるわけ。

子供を作ることによって、まさに「考えない状態」に到達できるわけ。
しかし、考えないための方法論や成果として子育てをやっているんだから、いずれはトラブルになりますよ。

そもそも自分で考えることから逃避しているので、トラブルになっても自分自身では何も判断しない。だからこそ「ワタシのせいじゃないわ!」「ワタシは悪くない!」なんて言うことになる。
まあ、確かに、その人が考えた上での失敗ではないんですから、その人のせいではない・・・とも言えるでしょう。
しかし、逆に言うと、そんな人は、普段から何も考えていないということでしょ?
そんな人は、普段はいったい、何を考えているの?
そんな点を質問すると、「どうして、そんなイジワルなことを聞くのよ?!」と逆上されるだけ。

逆上状態に到達して、まさに「考えない」境地に到達できる。
そうして、やっぱり「政治が悪いのよ!」とか「ワタシの親が悪いのよ!」とかの説明が始まってしまう。
そんな説明を受けると、
「何が原因なのかは別にいいとして、じゃあ、アンタ自身はどうしたいの?」と聞くことになる。
しかし、そんな問いかけには答えられずに、やっぱり逆上するだけ。

「自分自身が目標とする○○を達成するため。」に、考えるのか?
「考えないために、考える。」のか?
同じ考えるにせよ、マトモ人間とダメダメ人間は、方向性が違っているわけ。

しかし、考えないためにという心理にせよ、曲がりなりにも「考えている」わけだから、そんな人は、やがてこのように考えるようになる。
「こんなに一所懸命に考えているワタシがうまく行かないのは、どうしてだろうか?」
「いったい誰が悪いのか?」
そうやって誰かを犯人認定するようになるわけ。

誰かを犯人認定すれば、自分がうまく行かなくても何も考えなくてもいいでしょ?ただ、その犯人を恨んでいればいいだけ。
「考えないために、考える。」ダメダメ人間は、そうやって、死ぬまで同じことをやっているものなんですね。

トラブル発生時においては、このような犯人認定によって、考えることから逃避するわけですが、平時においては、いわば「規範認定」のことをやったりするもの。
「あの○○さんは、ワタシの規範だ!」
そのような人を設定して、後は盲目的にその人の行動を真似ることになる。
ただ真似るだけなので、自分では考えなくてもよくなる。
だから「どの人を規範とするのか?」という点については考えたりしても、その人の行動を参考にすることによって、自分がどんな目標を達成したいのかという点について考えることから逃避するわけ。

それに、誰かを規範認定をしておけば、たとえうまく行かないことになっても、「ワタシはあの人に従っただけだわ!ワタシは悪くないわ!」と言えるでしょ?
「悪くない」んだから、それ以上は、自分で考えなくてもいいことになる。

逆に言うと、「ワタシは悪くない。」と言えるようなシチェーションを作ってあげると、自己逃避で、思考を恐怖しているダメダメ人間が喜んで寄ってくることになる。

それこそ、カルト宗教などは、規範とするような人物なり、法典を作ったりするでしょ?
そして、信者を問答無用な形で支配することになる。
そして、その手の団体の殺し文句は「アナタは何も悪くないわ!」という言葉でしょ?
悪くないからと言って、じゃあ、何が達成できるのかというと何もない。
しかし、達成したいものを持っていないダメダメ人間は、「悪くない」と認定してもらえれば、それで満足を得ることになる。

規範が問答無用であるがゆえに、自分自身について、あるいは、現状について、何も考えなくてもいいわけ。そのような言葉や状況を求める人間は、実は支配されることを望んでいるわけ。抑圧的な人間は、そのような自己否定的なマゾヒズムを持っていて、自己逃避の人間にしてみれば、支配されることは、実に甘美なことなんですね。
そのような流れは、まさにエーリッヒ・フロムが中心テーマとしたナチスがその典型でしょ?

カルト宗教に韓国由来が多いのは、同じようなダメダメの土壌を背景としているからなのでは?
その手の宗教を組織した人は、自己逃避のダメダメ人間が何を求めているのかを実際にわかっているんでしょうね。

支配されることは、自己逃避としては、実に有効な方法。
本来は、自己否定を要求されても、腹が立つだけ。
しかし、自分で考えることから逃避したい人間は、自己否定を肯定するための理屈を求めてしまう。

自分自身の問題を、自分が主体となって解決するために考えるのであれば、「どうやって問題点そのものを認識するのか?」そんな方向で考える必要があるでしょ?

よく事件が起こったりすると、その事件に関わりがありそうなテレビ番組が放送中止になったりしますよね?最近では斧で父親を殺した女の子の関係であったようですが・・・
あれって、逆じゃないの?
そんな事件が起こったのなら、類似の事件を扱った番組を見て、視聴者も考えることができるでしょ?
折角、類似点があるのなら、自分がそうならないために参考になるじゃないの?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、何も考えなくない。むしろ、問題を「見ないようにする」ために、考えたりするわけ。
まあ、だから、そんな事件が多発するわけでしょ?

(終了)
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発信後記

私個人は、美術というと、いわゆる西洋絵画だと、ある程度は、わかっています。
絵を見れば、作者くらいはわかったりします。あと彫刻も少々はわかります。
しかし、建築はサッパリわからない。まあ、関心もないし、おいそれと見に行くわけにもいかないし。

ということで、建築家の黒川さんがお亡くなりになったとの報道を聞いても、「ふーん・・・」でした。奥さんで女優の若尾さんと言っても、世代が違うし・・・

なんでも奥さんの若尾さんが「ワタシって、いい奥さんじゃなかったわね?」と聞いて、ご主人が「そんなことはない。ボクはキミが大好きだった。」とか答えたとのこと。
この会話が最後の会話になるなんて・・・ロマンだねぇ・・・

このやり取りを読むと、黒川さんの一連の行動の意味もよくわかります。
まあ、芸能界の女優が「いい奥さんではなかった」って、家事とかの問題ではないでしょう。もっと艶っぽい「よくないこと」でしょうね。しかし、「それでも好きだ!」なんだから、ホントウに好きだったのでしょう。

黒川さんが選挙に立候補しましたが、あれも、政治的な意図というより、ただ、奥さんと一緒にワイワイやりたかっただけ・・・と見ると、すべてつじつまが合う。

命を懸けた茶番によって、妻からの愛を蘇らせる、あるいは再確認する・・・そんな夫という設定は、映画などにはあったりします。私が見た映画ではジャン・ポワレさんが監督した「妻への恋文」という映画がそんな設定でした。

選挙に立候補することが茶番と言ったら怒る方もいらっしゃるでしょうが、当選する見込みのないのに立候補するんだから茶番ですよ。
「そんな茶番に命を懸けるのではなく、もっとゆっくりと奥さんと話をしたら?」と思われるのは当然でしょうが、芸術家というものは、自ら作り出した茶番に命を張るもの。それこそ女優だって、そんなものでしょ?

奥さんと一緒にワイワイすること、それ自体が目的という、彼の心理を理解すると、彼の政党の名称「共生新党」の意味も、よりわかってくる。
まあ、芸術家の発想は、素で素っ頓狂なんだから、なかなか理解できないわけですが、視点をちょっと変えると、少なくとも、その筋道は理解できたりするものなんですね。

このメールマガジンで扱っているダメダメの問題も、ちょっと視点を変えたりすると、意外にも理解しやすかったりするものです。
ただ、視点を変えることは、非常に難しい。
いつもと違った視点を用いて、筋道たてて説明すると、お約束のように言われる言葉がコレ。
『妙に納得した。』
まあ、説明の筋道は納得したけど、実感としてピンと来ない・・・というわけでしょう。
別に無理に理解する必要はありませんヨ。
しかし、物事は意外にもシンプルなもの。
的確な視点を見出せれば、その視点で、ほとんどが理解できることが多いものなんですよ。
逆にいうと、シンプルではない、複雑すぎる説明は、現実の問題点を説明できていないものなんですね。
R.10/6/12