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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 07年12月7日 (10年7月13日,10年10月29日 記述を追加)
タイトル 感想どまり
何かに接したら、人間は誰だって感想を持ちますよ。映画とか文章とか、美術作品などに接した後で、
「わぁ!キレイだな!」とか「難しい作品だったなぁ・・・全然わからなかったヨ!」とか・・・色々とあるでしょ?
あるいは、このメールマガジンに対する感想としておなじみの「げっ!きっつぅ・・・」とか・・・
もちろん、どのような感想を持つのも、受け手のご自由でしょう。
そして、その感想を人に対して言いたいと思うこともあったりする。

人に対して伝える場合に、重要なことは、「それをどうやって伝えるのか?」ということでしょ?
もちろん、人に対して敢えて伝える必要もないものもありますよね?

キリストは言っています。
「姦淫の心を持って女性を見たら、もう、それは姦淫したことになるんだ!」

キレイな女性を見て、「おっ!いいオンナだなぁ・・・エッチしたいよ!」なんて思った時点で実際にエッチしたことになるんだよ!
だから、もっと自分を律し、厳しくしろよ!
まあ、キリストはそう言っていますし、聖者の道を進むのなら、そんな考えでないとダメでしょう。しかし、現実社会では、そこまで徹しないとダメというわけではありませんよね?

その女性に対して、実際に、どのように言うのか?
それが問題でしょ?
「エッチしたい!」と心の中で思っても、知らん振りして、何も言わなければいい話。

心の中で持つ感想なんて、それ自体が重要というわけではないでしょ?

逆に言うと、「エッチしたい!」と思ったのなら、その女性にどのように伝えるのか?
その点が重要でしょ?
「アナタきれいだなぁ・・・エッチしたいよ!」なんて端的な言葉で直接的に言っても・・・たぶん、目的は達成できませんよ。

自分が何をしたいのか?
相手に何をわかってほしいのか?

そのことを自覚して、相手にわかりやすく伝えること・・・それが重要でしょ?
つまり会話の精神が必要になってくるわけ。

ダメダメ家庭の人間は、会話が不全の人間である。
このことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。

先に挙げた言い方をすると、「自分が何を伝えたいのか?」「相手に何をわかってほしいのか?」その点の自覚から逃げている・・・そんな人が多いわけ。

そんな人の物言いには、感想どまりが多いわけ。
「面白かった!」「つまらなかった!」「わからなかった!」「ふんっ!くだらないっ!」
それどまり。

そんな感想を持つのはいいとして、そのことを本気で伝えたいの?相手には何をわかってほしいの?あるいは、誰に言っているの?逆に言うと、言われた方は、どうすればいいの?
感想に意味があるのではなく、その感想を踏まえての当人の思索なり判断に意味があるわけでしょ?感想なんて、いわば断片ですよ。断片を統合するのが人間の知的活動というものですし、そのように統合したものを、客観的にまとめ上げれば、「作品」に近いものになるでしょう。結果的に作品にならなくても、それを目指してみることによって、自分の感想の意味もよりわかってくるものなんですね。

ダメダメ人間は、感想どまりであって、意見でも反論でもない。だからその感想を聞かされた側にしてみれば途方に暮れるだけ。たとえば映画についての感想であっても「あの映画は全体的にはよくわからなかったけど、最初にあったシーンのこのセリフは面白かったよ。」というのなら、まだわかりますよ。
だって、そのようなセリフに着目できる人ということが伝わるわけですからね。あるいは、そんな言葉を受けたら、そのような面白いシーンを自分も見てみたい・・・そう思えるでしょ?いわば感想ではなく紹介に近いものになる。紹介されたのなら、対応もとりやすい。

しかし、単に「あの映画・・・全然わからなかった・・・」なんて感想で止まってしまうと、「あっ、そう?」でオシマイでしょ?もちろん、その前に会話の流れがあって、「へぇ・・・アナタは、あの映画を実際に見たの?どんな映画だった?」との質問に対し、そのような回答だったら、これはこれで意味がある。
感想と言うものはやり取りの相手方から聞かれたから言うものであって、自分から率先して切り出すものではないでしょ?
しかし、何も聞いていないのに、藪から棒に「ワタシは、あの映画を見たけど、何もわからなかった!」なんて言われたらどうすればいいの?
というか、その言葉によって何を相手に伝えたいの?
「ワタシはバッカで〜す!」と言いたいの?

何度も書いていますが、ダメダメ家庭の人間は会話が不全の状態。会話が不全と言っても言葉は飛び交っていたりする。相手にわかってほしいことが自分でもわかっていないのに、言葉が飛び交っているので、より厄介。
まさに「不思議の国のアリス」状態。

そんなやり取りは、おしゃべり止まりであって、会話にならない。
だから、感想どまりであって、意見にならないわけ。あるいは、新たな視点を提示するとかの解説とか紹介になるわけでもない。ただ単なる、個人的な感想どまりなんですね。

そんな感想どまりの言葉なんて、いわゆるブログではおなじみでしょ?
そんな場では、映画なり文章なりに対する感想が書いてあったりしますが、「で、結局は、何を言いたいの?」「この感想の文章を読んだ人間は何をわかればいいの?」と思わされることがほとんど。そんなものでしょ?まあ、そんな場にある文章は、もともと独り言の一種なんでしょうから、これはこれでしょうがない。ただ、状況や目的に応じて、断片を統合したものを作成する必要があるというだけです。

顔を合わせたおしゃべりで、そんな他愛のない内容になるのは、どうということありませが、わざわざブログの文章にしたり、それこそメールマガジンにしたりして、「全然わかりませんでした。」なんて書かれても・・・顔の見えない人からの、そんな感想なんて、どう受け取ればいいの?
「ワタシはバカです!」なんて大々的に言われても、途方に暮れるだけですよ。
知っている人とのおしゃべりには、意味があっても、顔の見えない人に対しては、無意味でしょ?
感想を語るといっても、小学生の読書感想文なら、まあ、読解力と、文章表現力の向上のために、やるわけでしょ?しかし、大の大人がそのようなスタンスをされてもねぇ・・・

何も難しいことを申し上げているわけではありませんよ。
感想を持つのは自由ですが、それを相手に伝える際には、「わかってほしいこと」を意識して、「相手にわかりやすい形で」伝える・・・
それが必要じゃないか?と申し上げているだけです。
「ワタシはバッカで〜す!」ということを伝えたいという信念を持っているのなら、それはそれで結構なこと。

別の言い方をすると、断片で許される領域と、統合が必要な領域は違うということ。
感想はあくまで断片であって、それゆえに、断片が許される領域以外で語ってしまうと、その人の統合能力の失調が見えてくるだけ。

しかし、現実では、「自分がどうしても相手にわかってほしいことは何なのか?」ということを考えることから逃避しているダメダメ人間が、「感想」という断片の状態に安住し、「自分の考えをまとめる」こと・・・つまり自分自身の「意見」なり「判断」を統合する行為から逃避しようとするわけ。思考に発展しないようにするために、感想で止めておく・・・そんな状態が多いわけ。いわば自分に対する抑圧の結果としての感想になってしまっているんですね。しかし、そんな抑圧の成果を聞かされても、どうしようもないでしょ?

そんな感想文に対する「感想」は、やっぱり「で、アンタ・・・いったい何が言いたいの?」
そうなっちゃうでしょ?
感想から出発するにせよ、「じゃあ、自分だったらどのようにするのか?」あるいは、「どのような人に、どのように紹介するのか?」せめてその地点までは考えて行かないとね。
感想どまりということは、結局は「独り言」でしょ?
そんなものをブツブツ書かれても、ヘンですよ。しかし、現実では、その地点どまりという人も多いわけ。そして、そんな感想どまりの人同士が集まって、盛り上がる。

本人たちは、それでいいんでしょうが、独り言は所詮は独り言。会話には、つながっていかないもの。それだったら、もっと自分自身を見つめて、自分自身との対話を行い、中身を「詰めて」行って、思索を積み重ね、そして客観的なものにするようにすればいいのに、それもしない。会話からの逃避と、自己からの逃避が合わさって、トホホな状態。
逆に言うと、そのような人たちによる感想文は、私のようなダメダメについて考えている人間には参考になるわけです。

そんな文章の中では、何かと言うと、「○○と思う」「△△だと思う」と、「思うという言葉」が頻発し、「認識している」とか「考えている」とか「危惧している」とかの文言を使わない、というか、使えない。
個人的な感想ばかりだから、他者への説明能力も向上しない。
逆に言うと、説明能力の低い人は、感想どまりであることが多いもの。

まあ、映画や文章などの作品に対して、感想どまりになっているくらいなら、実害はないでしょう。
しかし、あらゆる面で、客観的な紹介も解説も説明もできないとなると、実に困ってしまうのが、相談というシチュエーション。
「ああ!困った!困った!」
「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
と、主観的な感想を連呼している。

しかし、事態を改善するためには、相談相手に対して、その事態を客観的な形で説明しないとダメでしょ?しかし、日頃から感想どまりの人は、そのようなことができないわけ。
そして、そんな人と一緒になるような人も、結局は、感想どまりの同類の人間。
事態を客観的に説明できないもの同士なんだから、一緒にいればトラブルにもなりますよ。

何度も書きますが、個人的なレヴェルではどのような感想を持ってもいいでしょう。
しかし、それを伝えるためには、ある種の客観性が要求されるというだけです。
紹介という形であっても、解説という形であっても、説明という形であっても、あるいは歴史的な視点を踏まえた批評という形であっても、あるいは、強い印象を受けた作品を元にパロディ作品を作ってみる場合であっても、あるいは、作品を学術的な方法論で分析する場合であっても、そこには客観性が要求されるもの。

しかし、心理的な意味で他者というものを理解できず、よって客観というものを理解できていないダメダメ家庭の人間は、いつまで経っても、主観的な感想で止まってしまうものなんですね。
逆に言うと、主観的な感想を、さも得意気に公表する人間は、「自者と他者の区別」「主観と客観の区別」が心理的についていないわけ。

そんな人は、意見とか見解というお題目を使っても、内容的には所詮は主観的な感想どまり。
本来は、意見とか見解だったら、その見解を、他者に対して、客観的なスタイルで説明できるくらいでないとダメでしょ?

何回も書きますが、感想というものは、一時的な、そして断片的な心理状態だから、そんな感想を客観的に説明できなくても、そもそもがそんなもの。
しかし、意見とか見解だったら、ある種の統合された知見でしょ?
だから、本来は、その意見とやらは、客観的なスタイルで説明できるはずですよ。

たとえば、このメールマガジンの文章を読んで、否定的な感想を持つこと自体は、その人の自由でしょう。
そこからどうするのか?それが問題でしょ?

書き手であるこの私に反論を出すのもいいでしょう。
しかし、反論と否定的な感想はまったく別物でしょ?
反論は、客観性が必要だし、否定的な感想は、単に「がなりたてる」だけでいい。
しかし、がなりたてられても、『アホか?』との感想になってしまうだけですよ。

否定ではなく、肯定方向のコメントだったら、その肯定の対象が客観的な説明をしていたのなら、その見解を肯定すれば、コメントを発した人自身は、それ以上は説明する必要もないとはいえるでしょう。「ワタシもこの人と同じ考えだ。この人がやっている説明以上の説明は、ワタシにはできない。」と言ってオシマイとなる。

しかし、否定的な感想の場合は、否定の対象の人がやっている説明以上の内容を持つ説明を出来ないとダメでしょ?
否定的な感想を持つのはいいとして、じゃあ、どんな現状認識なり、思考でそんな感想に至ったのか?自分自身で考えてみたら?そして、公表するのは、その考えた後にした方がいいのでは?

感想どまりのコメントを得意気に公表できてしまう・・・そこから見えてくるものも多いわけ。それだけ、「客観」というものを心理的に認識できず、というか、「自者と他者の区別」もできず、断片的な感想を統合する能力が失調していることも見えてくるわけ。

独り言を大々的に語ったら、ヘンな人どころか、危ない人でしょ?
しかし、ダメダメ家庭の人間は、そんなことを本気でやっているものなんですね。

(終了)
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発信後記

当然のことですが、感想を持つこと自体がダメダメということではなく、その感想どまりなのがダメダメというだけです。
感想は出発点であって、到達点ではないわけ。
違和感を持つこと自体は、結構なこと。
ただ違和感を指摘して、「いい気」になっているだけでは、自分自身が豊かにならないでしょ?
R.10/10/29