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カテゴリー | 自己への抑圧 |
配信日 | 08年6月18日 (10年11月7日 記述を追加) |
タイトル | 体験の断片化 |
このメールマガジンで度々、フランスの作家マルグリット・デュラスが言う「面白くない本の定義」を取り上げたりしています。 何回も引用しておりますが、彼女が言う面白くない本とはこんなもの。 『感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・』 しかし、本というものは文章があるわけだから、作者があるのは当たり前。 「真の作者がない」って、どういうこと? 文章が何も書いてない、真っ白な本なの? それだったら、ホントに面白くないよね? しかし、デュラスが言う「真の作者がない」とは、文字なり文章がないこととは違っています。 文章の書き手の存在感がない文章と言えるでしょうか?書き手の存在感というか、実体感というか、あるいは、よく言う言い方をすると、顔が見えないなんて言い方もありますよね? そんな人の文章は、あるいは、文章でなくても口頭での発言においても、その発言の内容が相互につながっていないものです。 たとえば、「ある時にこんな本を読んだ・・・その本を読んで、こんな感想を持った・・・」 それはそれでいいでしょう。 そして、「次に別の本を読んだ・・・そうしたら、こんな感想を持った・・・」となったりする。 本を読んだり、映画を見たり、あるいは、誰かとの会話においても、感想を持ったりしますよね? ちゃんとした人間なら、それぞれの感想が、自分という存在の中で、まとまることになる。 『最初の本では、このようなことがわかったけど、今回は、こんな面がより明確になった。ただ、この面は疑問として残ったので、次にはこんな本を読んで調べて見たいと思っている。』 そのように、1つ1つの体験が、自分自身でまとまってくるでしょ?そしてその中から今後の方向性が自分にも見えてくることになる。 あるいは、何か事件があった際には、『前回の事件では、あのような問題点が見えてきたけど、今回の事件では、コッチの面のファクターが大きかった。いずれにせよ、大元としては、○○の問題が原因となっているようだ。今後はもっとその面に注意して行きたい。』 そんな感じで、多くの問題も、自分自身の中でまとまってくるでしょ? しかし、ダメダメ人間は、自分自身から逃避している。 多くの体験が、自分の内面において、蓄積されることはないわけ。だって、その自分の内面そのものから逃避しているんですからね。体験が積み重なる、その土壌としての自己がないわけ。 そんな人が語ったり、文章にしたものは、実に断片化されているんですね。 断片化と言っても1つ1つが文章になっていないという意味ではありません。1つ1つの文章が、相互につながっていない状態に陥っていることです。 過去にはあんなことを言っていたけど、今回は、以前に言っていたことをまったく無視して、こんなことを言っている・・・ そんな状態になってしまうわけ。 たまにあったりするでしょ?色々と文章が並んでいるけど、どうも、相互の文章がつながっていない・・・1つの文章の中での流れができていないというより、一つ一つの文章が書き手の精神を土壌としてのつながりを持っていない・・・そんなパターンって、あったりしますよね? 過去の体験が、自分の身になっていないわけ。だからこそ、1つ1つの体験がそれぞれ、また1から味わうことになってしまう。まさにデュラスが言う「何も残らず」そのもの。 過去や現在の体験を踏まえて、次の体験を考えることはしないんですね。 多くの体験が、自分の身になる前に、肝心の自分自身は、サッサと逃避してしまう。これでは、まさに『真の作者がない』状態になってしまうでしょ? そんな人は、体験が自分の内面に降りてくる前に、「て・き・と・う」に感想をまとめて、文章化してしまうわけ。まさに、デュラスが言う「沈黙がなく」という状態。じっくりと自分なりに考えることが怖いわけ。 このようなパターンに近いケースは、以前には、「連続発信のメール」とか「クイック・レスポンス」というお題の文章で配信しております。ダメダメな人とのメールのやり取りでは、厳しいことを言われた場合には、断片というか些細な細部に反応して、そんな些細な面については、即座に返事を書くわけですが、「相手はこの文章全体で何を言っているのか?」ということについては考えないわけ。他者の表現なり意見に接した際に、実に手早く「自分はこう思う。」と感想を出し、それ以上考えることから逃避してしまうわけ。 自分で考えることから逃避しているんだから、その体験は、「その文章を読んだ。」という物理的な体験になっても、精神的な体験にはならない。だから、どうしても体験の相互のつながりはない状態。 様々な事件なり様々な本についての感想はあっても、統一した「まなざし」は存在しない。考えることから逃避しているので、考える時間をつぶすためにも、まさに沈黙を消すために、次々と新しい本なり、事件に言及するようになってしまう。 そんな人は、それぞれの見解はその言葉の上では筋道が通っていても、多くの文章の間をつなぐような精神的な筋道はないわけ。 多くの体験が断片化されている状態。それは、結局のところ、その人本人が空白ということなんですね。 逆に言うと、断片化された対象には、喜んで食いつくことになる。 それこそ、インターネットのニュースサイトで、さも得意気にコメントしている御仁がいらっしゃいますよね?断片的なニュースに対して、断片的にコメントするのは勝手ですが、じゃあ、その人としては、いったい何をしたいの?ニュースに感想を持つことはいいとして、その人自身の問題として、伝えたいこと、わかってほしいことはないの? 人様の行動にコメントするのではなく、自分なりの考えを自分でまとめてみたら? しかし、別のところで書いていますが、この手の人は、「一つの案件を、一つの文章」にまとめることすらできないんですね。文章力の問題でできないというよりも、「で、自分としては、結局は何がしたいのか?」という点から逃避しているんだから、自分なりにまとめることはできませんよ。 だから、人の断片的な行動に対して、断片的にコメントするだけになってしまう。 そして、この手の人はよく、「ボクは感性で生きているんだ!」と豪語するもの。 「感性で生きているんだから、しっかりした形で文章をまとめることはできないんだ!」 と、言っているわけです。 まあ、現実的に言うと、「ボクは感性で生きている。」と自称する人の感性が鋭敏だったことはありませんよ。断片だけで生きている人にしてみれば、その瞬間の感情だけが存在し、それが、自分の精神に根付くことはない。だから、その人なりには、それなりの事件だったのでしょう。しかし、自分の精神に根付くことのない印象なり感情なんて、些細なものでしょ?そんな貧弱な精神の人がいう感性が、鋭敏なわけがないじゃないの? つまり、「感性で生きている」と自称する人は、何かから強い印象を受けることはないわけ。 印象の土台となる、自己がないわけですからね。 自分の精神に根付いてはいないがゆえに、1分後にはその感想も忘れてしまっている。 だからこそ、そんな人の文章の間には、相互の関連性がないわけ。まさに断片の集積のままであって、自分の心の中で一つの流れになることはない。 だからこそ、この手の「感性で生きている。」と自称している人は、権威主義的。 まさに権威者が正論と認めた言説をやたら主張したがる。 その瞬間の感性だけで生きていて、自分でじっくりと考えることをしないので、人様の見解を盲目的に信奉するしか能がない。だからこそ、盲目的に信奉できる人の言葉をありがたがる。 そして、それをコピー&ペーストして示すことになる。 何と言っても、自分で文章をまとめることができないんだから、どうしてもコピー&ペーストになってしまいますよ。コピー&ペーストって、まさに断片の集積そのものでしょ?だからと言って、その言葉が本当に自分の心からのものではないんだから、表現を過激にすることはできても、客観的でわかりやすい形で表現することはできない。だって、引用した人の考えもわかっていなくて、断片的にコピーしただけ。 その人の文章の間で相互に関連が取れていない状態も、単にアタマが悪いということや、記憶力がないと言うことなら笑って済む話。 しかし、自己逃避に由来する体験の断片化は、自己逃避のために、スグに逆上するような傾向を持つもの。だから大変に危険な存在と言えます。 もともと自己逃避というか「我を捨てている」んだから、その行動としての「我を忘れる」という逆上状態になりやすい。 そんな逆上人間の相手をすることになったら、厄介ですよ。 そもそも自己逃避人間は、他者を犯人認定する傾向も持っているもの。 だって、判断から逃避している人間なんだから、そんな人自身は「ワタシは何も間違った判断をしていない。」と自分を認識している。その「間違った判断をしていない。」という認識は、実際に間違ってはいないわけですしね。だからこそ、「悪いのは全部アイツのせいだ!」というようになってしまい、そして、それを確定させるために、犯人確定の儀式を行うことになる。 しかし、そんな人は、逆上する前にも、自己逃避に基づく、多くの習性を見せているもの。 まさに「ボクは感性で生きているんだ!」なんて自らを語る言葉は、自己逃避の典型的な症状ですよ。 何かから強い印象を受け、魂が鳴動するような感動をしたら、ヘタクソな表現であっても、それなりにまとまった表現で、その思いをまとめるものでしょ?それができないということは、その魂そのものが不在となっているわけ。 感性で生きている人は、感情も断片的であり、そんな人がする表現も、断片的。 実際に「ボクは感性で生きているんだ!」という言葉を、「ボクは『断片』で生きているんだ!」と読み替えると、その手の人の行動もよく見えてくるでしょ? それこそ、何かに腹が立つようなこともあるでしょう。 怒るのはいいとして、その手の人は逆上メールを出して終了してしまう。 その人が本気で怒りに震えたのなら、それはその人の中心となすものと言えるでしょう。 その怒りの正体について、自分なりに考えてもいいんじゃないの? 自分の怒りによって、自分自身を知ることもできますよ、 しかし、逆上メールを出してオシマイというお軽い怒りなどは、その人の尊厳に関わるものではないでしょ? だったら、逆上メールなんて出さない方がその人の尊厳に繋がりますよ。 何回も書きますが、怒りを持つこと自体は結構なこと、 その人の尊厳に直結するような怒りであればいいだけだし、尊厳に繋がる怒りだったら、その怒りについても、もっと大切に扱わないとね。 様々な物事に対して、それぞれ感想を持つことは当然でしょう。 重要なことは、それを自分の精神の中で統合することでしょ? しかし、自分の精神が不在であれば、統合の場がないことになってしまう。 だからこそ、統合できずに、断片化のままで、放り出す。 逆に言うと、語る内容が、相互につながっていなくて、断片化されている・・・そんな面があれば、自己逃避であるものなんですよ。 心の病気の面での統合性の失調も、自己逃避からくる統合性の失調も、その症状はほとんど同じ。だからこそ、やり取りをする側は、病気なのか?それとも単なる自己逃避なのかについて考えても意味はない。 だって、どうせ、やり取りをして面白い人ではないし、結局は、離れるしかないわけですからね。 (終了) *************************************************** 発信後記 この手の話は、チョット難しいかも知れませんネ。 ちなみに、本文において最初に言及したフランスの作家のマルグリット・デュラスですが、以前に話題になった映画「ラ・マン(愛人)」の原作者だというと、「ああ!あの人か?!」と思い出す人もいらっしゃるでしょう。 あの「ラ・マン(愛人)」という作品は、何も援助交際の話ではないんですが、一般人がそんな感じで理解してしまうのも、まあ、しょうがない。つぅーかぁ・・・デュラス『研究者』による「解説」においても、それに毛が生えた程度のようでしたし・・・ だからこそ研究者どまりであって、真の作者にはなれないんですよ。 あと、以前にも書きましたが、他者の文章を読んでいて、自分が書いた文章と同じ表現が出てくると、「あれれ?!」と思ってしまいます。今回の文章で書いた「自己逃避のダメダメ人間は、自分の体験が積み重らない。」ということは、同じことが、今読んでいる本にも書いてありました。ということで、今回の配信となった次第です。このメールマガジンの文章そのものは、もっと以前の半年前には出来上がっていたんですが、まあ、同じようなことを見ている人はいるわけです。 結局、理解というものは、同じものが見えているもの同士でないと、不可能なもの。 今回の文章だって、皆さんが、そんな事態に直面したら、思い出していただければ結構です。 |
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R.10/11/7 |