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カテゴリー | 形への依存 |
配信日 | 08年6月27日 |
タイトル | ブランド信仰 |
ブランド品が好きな人は、実際に多くいるでしょう。 それこそ、プラダとかグッチとかエルメスとか・・・ あるいは、電気製品で特定のブランドに対し異常に執着している人もいますよね? あるいは、俳優のような存在も、ブランド的に考える人もいたりするでしょ? 購読者さんにも、こだわっているブランドがあったり、集めている人もいらっしゃるかも? しかし、ダメダメ家庭出身の人は、常軌を逸してブランド品収集に邁進する人もいたりするんですね。自分で使うために購入するというより、集めることそれ自体が目的になってしまっている状態。 あるいは、何事もブランド的に評価する・・・そんな人もいたりする。 商品のようなものばかりではなく、学校のようなものだってブランド的に考えている人もいますよね? ヘタをすれば宗教のようなものも、ブランド的に考えている人もいたりするでしょ? 自分が尊敬したり、崇拝している人に付いても、ブランド的に考えている人もいたりするもの。 今回は、ダメダメ家庭のブランド信仰を、総集編的にまとめてみましょう。 1. 権威主義・・・ダメダメ家庭では権威主義。やり取りをしていても「何を言っているか?」が問題ではなく、「誰が言っているのか?」が重要であるわけ。そのような権威愛好家がブランド信仰に向かうのは、実に自然でしょ? 2. 序列重視・・・ダメダメ家庭では、それぞれの価値を認めるようなことはしない。すべて序列化して物事を考えるわけ。そのような序列化する発想と、ブランド愛好は結びつきやすいんですね。「あのブランドよりも、このブランドの方が上!」なんて調子になってしまう。 本人がそのブランドを喜んでいればいいはずですが、そこに序列を導入したがるわけ。その序列化の指標としてブランドは有効でしょ? 3.モノにこだわる・・・ダメダメ家庭では使いもしないモノを購入して、「私はたくさん持っている!」なんて自慢をしたがることは、以前に書いています。それにブランド品だったら、その価値を自分の言葉で説明する必要がないでしょ? 会話のできないダメダメ家庭の人間には、ありがたい「モノ」と言えるわけ。 4.説明しなくてもいい・・・そのブランドの価値って、持っている本人が説明できることってまれですよね?まあ「みんなが、このブランドがいいって言っているから・・・」そんな程度でしょ?逆にそれで説明ができてしまう・・・それがブランド品のありがたいところ。だから、会話の能力がなく、自分自身でその価値を説明できない人間にとっては大変にありがたいものと言えるわけ。 5.会話のネタ・・・ダメダメ家庭の人間は子供の頃に会話の訓練ができない。だから会話の方法を知らない。それだけでなく、自分で考える訓練をしてこなかったので、会話のネタがないわけです。そんな会話のネタが少ないダメダメ人間にしてみれば、好きなブランドの話は格好のネタでしょ?まあ、これくらいなら、周囲の人間にしてみれば大したことではないわけ。グチを聞かされるよりもマシですからね。しかし、「これでやっと、人に話せるネタができた!」と大喜びして、そのために収集に励むことになる。そうなると、目的が違ってしまうんですね。 6.実用的な趣味・・・ダメダメ家庭では趣味はご法度。自分自身の楽しみのためにお金を使うことは抵抗があるわけ。だから往々にしてうまくいけばお金がゲットできる実用的な「趣味」を選ぼうとするわけ。まあ典型的なものはギャンブルですね。ブランド品の収集はギャンブルではありませんが、うまくいけばプレミアがついてお金をゲットできるでしょ?だからダメダメ家庭の人間にとっては心理的抵抗が少ない趣味といえるわけ。 7.苦労自慢・・・ダメダメ家庭ではグチばかり。ある種の不幸自慢,苦労自慢が頻発しているわけ。「これをやり遂げるために、ワタシはこんなに苦労をしたのよ!」そんな言葉はダメダメ家庭でのご用達ですね。 ブランド品を購入することだって、お金がある人だったら、ラクにできるでしょう。しかし、それほどお金に余裕があるわけではないダメダメ家庭の人間が「苦労して」ブランド品を購入したりする例もあるでしょ? そのようなケースでは、ブランドを「語る」だけでなく、ブランド品を購入する「苦労を語る」こともできるわけ。苦労自慢の人間にはありがたいことになるわけ。 8.生産者ではなく消費者・・・ダメダメな人は、何かを自分で達成することはない。他者が作ったものを消費しているだけ。だからこそ、その消費に価値があるものでないと、当人の価値がなくなってしまうわけ。そして、消費するものの違いが、他者との区別に、そのままなってしまっている。 逆に言うと、消費するものの区別にこだわることによって、「自分が何を成し遂げるのか?」「何を作っていくのか?」そんなことを考えることから逃避しているんですね。 似たこととして、いわゆる高級なブランドへのこだわりだけでなく、それこそアニメのキャラクターにこだわったりする人もいますよね? そのキャラクターを好きなら好きで、当人の勝手ですが、その手の人は自分以外の人間の好みを否定したりするでしょ? 「おいおい!そんなキャラクターが好きなのか?ダメだなぁ・・・」 そんな調子の人もいるようです。 前にも書いておりますが、人の作ったものを消費するだけの状態だと、その消費対象の違いこそが、その人のアイデンティティになってしまう。同じものを消費していたら、人間の側も同じキャラクターとなってしまうわけ。 しかし、人間というものは、何を消費するかが問題なのではなく、何を生み出すかが問題でしょ? しかし、自己逃避で抑圧的であるがゆえに、自分が生み出したいものについて考えることができず、だからこそ、消費対象の差別化によって、自分を差別化しようとする。 しかし、そんな程度の差別化なんて、人間の本質からは外れていますよ。 消費するのだって、自分が何かを生み出すための方法論だったらいいわけですが、それそのものが目的となってしまったら、不毛でしょ? 自分が消費しているものの価値を一生懸命に語るよりも、自分が作り上げたものの価値を語った方が建設的で、聞いていても面白いのでは? 逆に言うと、ブランドに過剰にこだわる人は、それができない人というわけ。消費するしか能がない人たちなんですね。 よくブランド品のバーゲンに朝早くから並んでいる人もいたりするようですが、あんなシーンは、ちょっとシュールな光景でしょ? 高級なブランドなんて、本来はお店の店長に電話を掛けて、見繕って自宅に持って来させるのがスジでしょ?並んで買うものじゃあありませんよ。 若い頃の「お遊び」とすれば、楽しい経験なんでしょうが、いい歳をしてあんなことをしていてもねぇ。 特定のブランドを好きなら好きで、それはその人の勝手。だったら、「どこがいいのか?」人に説明できればいいわけでしょ? それがなくて、盲目的に「いいわぁ!」じゃ、何ともしようがない。 しかし、説明が苦手という人にとって、ブランドはありがたい・・・これも現実。 ブランドから入るにせよ、その価値を説明できるためには、それなりのバックグランドの教養も必要になってくるもの。バックやスカーフのデザインについての美醜がわかって、西洋美術の美醜がわからない・・・そんな状態は、本来はヘンでしょ? 人との会話とか、教養を付けることとか、自分なりに考えることとか調べることとか・・・それにつながる端緒として、好きなブランドを利用すればいいのでしょうが、ダメダメな人は、収集止まりなんですね。 ブランドというものは、手短で、かつ遠い存在と言えるような矛盾した存在。 手が届くけど、日常的ではない・・・それくらいの距離感。 それに対し、芸術作品だと、ちょっと手が届かないケースが多い。 金銭的な問題以上に、芸術作品だと別の面で手が届かないのかも? 芸術作品は作り手の思いを受け止める必要がある・・・それが鬱陶しいのかも? 作品と、まるで会話でもするように「作り手さん!アンタはどんなことを考えて、こんな作品を作ったの?」なんて作品に語りかけてもいいのでは?それが芸術を楽しむ醍醐味でしょ?そして、それが出来ない人はブラントの価値も本当にわかるの? 芸術作品とブランド品に対する関心の組み合わせを考えてみると、色々と見えてくるもの。 芸術作品にも関心があって、ブランド品にも関心がある・・・このケースだとわかりやすい。 あるいは、まったく逆で、芸術作品に関心がなくて、ブランド品にも関心がない・・・このケースも、簡単に理解できる。 また、芸術作品には関心があって、ブランド品には関心がない・・・これも、その人のキャラクターが見えてくる。ちなみに、私個人はこのパターン。 しかし、芸術作品には関心がなくて、ブランド品には強い関心がある・・・このケースの人が「何を考えているのか?」どうも私にはわからないんですよ。 ブランドに関心があるのなら、そして美醜がわかるのなら、どうして多くの芸術作品に関心を持たないのか? と言うか、そんな人は、本当にブランドの美醜をわかっているの? しかし、美醜と言うよりも、ブランド品が持っている、「お手軽さと、手の届かない遠さの兼ね合い具合」が丁度いい・・・そんなものなんでしょうね。 それこそ学校をブランド的に考える人も、そんな傾向があるでしょ? 知的なものと日常的に身近に接している人は、学校をブランド的には考えない。 知性と距離がある人ほど、学校をブランド的に語りますよね? 話は変わりますが、海外旅行の際に、「ツレ」が、そのようなブランド好きだと、色々と厄介なもの。 それこそ、多くのお店のブランド品を見て大喜びしている。 喜んでいるのはいいとして、お店の横には美術館があって、ホンモノの芸術作品が多数あるのに、どうしてそのホンモノの方は無視するの? ブランド品と言っても、所詮は工芸品ですよ。 「いいわぁ!」と喜ぶのはいいとして、プライオリティが違うのでは? 少なくとも、現地のヨーロッパの人は、ホンモノの芸術作品を放っておいて、工芸品に大喜びする旅行者の姿を見て、奇妙に思うのでは? ブランド品を見つけて大喜びしている人に対して、「このブランドのどこがいいの?」と聞いても、明確な回答がないもの。 逆に言うと、考えたくない人には、ブランド品収集がちょうどいいというわけでしょうね。 日常的にそのブランドを使っていて、その人にとって、なじみや実績があるから集めているというのなら、これは実にまっとうな発想でしょう。しかし、お手軽さと遠さ・・・つまり日常と非日常の兼ね合いの発想からブランド品が好きな人は、どうも、芸術作品が要求する、「作り手の思いを受け止める」感性が欠けているような・・・気がするんですよ。 なんでも、イタリアのフィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」のドゥオーモに落書きをした日本人がいたそうで、インターネットのニュースサイトに載っていまし たよね? 「作り手の思いを受け止める」感性を持っている人なら、そんなことは絶対にしませんよ。 それに、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」は純然たる観光スポットではなく、現役の教会で、実際に祈っている人もいる。祈っている人の思いにも配慮しないとね。そんな場所で、はしゃぐにも限度があるでしょ? そんな人が、そもそもフィレンツェに何しに行ったのか?私にはさっぱりわからない。 そのような行為は、バカ学校のバカ生徒とかの偏差値的な問題というよりも、人の思いに対するセンシビリティがない・・・そう見えちゃうんですよ。まあ、油性のマジックを持って行ったんだから、計画的な犯行ですよ。日本にいた頃から、ヤル気マンマンでないとマジックなんて持って行きませんよ。当然のこととして、別の場所にも書いていますよ。カテドラルの隣のジオットの鐘塔にも書いてあるのでは? そんな生徒は、きっとフィレンツェでは美術品には目もくれず、ブランド品を喜んで買っていたんだろうなぁ・・・ そんな姿が目に浮かびますよ。 まあ、この私が、その建物への落書きの報に接して、どれだけ呆れ果てたかは、それは私が二年前から使っているメールマガジン用のメールアドレスを見ればスグにわかること。 人の思いを受け取る感性がないと、芸術作品が理解できない。それくらいなら、笑って済む話。しかし、それは会話の不全とか、自分で考えることからの逃避なり、説明能力の低さにつながりやすいわけ。 そうなると、まさにダメダメ家庭が出来上がってしまうものなんですね。 何事もブランドという視点でものを見る人って、ダメダメ家庭を実際に作っているものでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 フィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」は直訳すると「花の聖母マリア」大聖堂になります。聖母マリアだから、キリストのお母さんのマリア。 マリアという名前は、キリスト教関係では色々なマリアさんが登場してきます。 まあ、今回の粗相をしでかした学生たちも、40年間砂漠で懺悔したり、あるいは髪の毛を香油で塗らして、それで人様の足を拭くようなことをすれば、贖罪としては、それなりにレヴェルが高いのでしょうが。日本の学校側も、それくらいの贖罪が思い浮かばないのだったら、名実ともにバカ学校ですよ。 若い頃のバカと言っても、酒を飲みすぎてゲロゲロするくらいなら、あるいは相手との合意の上での放蕩なら、当人の勝手ですが、人の思いを踏みにじるような所業は、単なる若い頃のオバカとは言えないでしょう。 ヨーロッパの美術は、その作品のテーマについて、ある程度のバックグランドの知識が必要になる作品が多いので、その点が敬遠されたりするのかな? 逆に言うと、美術作品からバックグランドについての教養が深まることにもなります。 最近では、日本でも美術館はどこにもありますし、その中にはヨーロッパの美術作品も収蔵されていたりしますから、お時間があったら、そんな身近な美術館に行かれてはどうでしょうか?あと、海外に旅行に行かれた際には、ブランドあさりに精を出すだけでなく、美術館にも行ってみては? 作品を見て、単に「わぁ!キレイ!」とかで済ますのではなく、「この作家はどんなことを考えて、このような作品にしたのかな?」と問題意識を持ちながら見てみる・・・ そんな経験は、別の面でも役に立つと思うんですよ。 もちろん「この作家はどんなことを考えて、このような作品にしたのかな?」という問題意識は、「この親はどんなことを考えて、このような名前を子供に付けたのかな?」という問題意識ともつながります。 今回の犯行声明?で記された名前は、「まな、ちい、ゆい、あやな、りか、みき」という名前とのことで・・・ なんともまあ!それにどんな漢字なんだろう? この犯人たちの名前を見て、「おいおい!私の名前をそんなところに書き込んでいるじゃないよ!この腐れ外道め!マリアさまが許しても、このワタシが許さないぞ!」と怒りに震えている人もいらっしゃるかも? 全部が全部と言うわけではありませんが、その手の名前の集団がやりそうな行動であることは確かでしょう。 この犯人リストの中には比較的コンサバな名前もあるようですが、そのコンサバな名前の人が、別のコンサバな名前の人と付き合っていれば、こんな事件を起こすことはなかったでしょうね。友人を選ぶ際には、ブランドではなく、個人の名前から入るのも現実的というわけ。 作品から作者の意図を読み解くこと・・・ それは、まさに自分の身を守ることにもなるわけ。 |
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R.10/12/12 |