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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 08年6月30日 (10年7月9日,10年11月1日 記述を追加)
タイトル アジア好き
ちょっと前(08年)に、奈良県で、遷都1000年記念のキャラクターでモメましたよね?
「選ばれたキャラクターがキモチ悪い!」とか、
「選考の過程が不適切だ!」とか。

大騒ぎになったので、私もそのキャラクターを見てみましたが、まあ、確かに違和感を持たされるデザイン。
とは言え、違和感を与えること自体は、芸術作品としては、必要なもの。
違和感そのものを否定しては、創造的な作品は生まれませんよ。

違和感を受けたからと大騒ぎするのは、レヴェルが低い。それこそ、逆上メールを送りつけて喜んでいるダメダメ人間と同じですよ。水準以上の知的レヴェルを持つ人間だったら、単に「キモチ悪い!」と大騒ぎするのではなく、その違和感の正体について、考えてみてもいいのでは?

そんな感じで、そのキャラクターの作者さんのサイトを訪れてみました。
その中ではその作家さんの色々な作品が紹介されている。
色々な作品を見て、私としては違和感の正体が分かってきました。

その作品には、アジアの雰囲気が、強く、あるんですね。
何とも言えない、湿り気と言うか、粘り気というか、曖昧模糊とした感じ・・・と言いましょうか。

もちろん、その作品に、アジアの雰囲気があるからと言って、その作品の価値がない・・・そう言うものではありません。ただ、日本の多くの人は、アジア的な雰囲気には、あまり親しみを持てない・・・それが現実なのでは?

日本人は、血縁的というか、いわゆる民族的にはアジア系なんでしょうが、日本は島国ですから、アジア人と交流があったと言っても、実に限られた領域でのこと。アジアの人と同じ顔をしていると言っても、アジアに対し、特別な親しみを持っているわけではないでしょう。

それどころか、その湿り気や粘り気とか曖昧さゆえに、自分の中で消化不良を起こし、ある種の拒否反応になってしまうこともある。アジア的なものに対しては、日本人はそんな面があるでしょ?昔の日本人ならともかく、最近の日本人は特にそんな傾向が強いでしょ?
むしろアメリカ風のキャラクターの方が、すっきりと受け入れられる、別の言い方をすると消化しやすい・・・そんなところがありますよね?

その点は、この私も同じ。人からかなり拒否反応を受けることも多いこのメールマガジンですが、決してアジア的ではありませんよね?どっちかと言うと乾いた文体を使って、明晰な論理を次々と登場させる類の文章。そして、人の一番痛いところを突く文章。感覚的にはサディズムの総本山であるフランス的なフィーリングですよ。

奈良県の騒動では、アジア的なフィーリングを持つ「作品」が多くの人に拒絶されたとともに、その「選考過程」のアジア性もありましたよね?
密室的で権威主義的。

ヘンな話になりますが、たとえアジア的なフィーリングの作品でも、欧米的な選考で選ばれたら、あんなにモメなかったでしょうし、欧米的な作品が、アジア的に選ばれても、あんなにはモメなかったでしょう。

アジア的な作品が、アジア的に選ばれてしまった。
だから、言葉にできないような不快さが増幅されてしまった。
あの騒動を、そう見ると実に理解しやすいでしょ?
まあ、このような明晰な説明は、やっぱりアジア的ではありませんねぇ・・・

何もこのメールマガジンで、美術選考の問題を議論するつもりはありませんヨ。
ダメダメ家庭と、「理念としてのアジア」とは、結構つながっている・・・そんな点について考えてみたいと思っているわけ。

実は、以前に、政治家のポスターでアジアなる文字が躍っていました。たまたま通りがかったら、そんなポスターがあったわけ。
なんでも候補者の「名前」が「アジア」という名前のようです。

このメールマガジンでは、たびたび子供の名前について触れたりしております。まあ、だから逆上メールも来たりするわけですが・・・
自分の子供の名前に「アジア」かぁ・・・
いったいどんな親なんだろう?

もちろんのこと、その親はアジアを好きなんでしょうね。
ココナッツを好きな人間が、子供の名前をココナッツとするようなもの。

この場合、ココナッツが好きということなら、まだわかりやすい。食べたらおいしかったというだけじゃないの?
じゃあ、アジアを好きって・・・具体的にどんな点が好きなの?
購読者の皆さんは、アジアのどの点が好きですか?

こうなると、具体的には何も出てこないのでは?

「アジアの人と仲良くしよう!」
なんてご立派な正論を並べている人に対して、「じゃあ、どうして、そうしなきゃいけないの?」と聞いてみたら、どう答えるでしょうか?

私が、予想するに、
「近隣だから、そうすべきなんだ!」
それくらいしか言えないのでは?

近隣だから仲良くした方がいいということに対して、特に異議はないけど、かと言って、具体的な「好きな点」は見つからない。
異議はないという二重否定にはなっても、「この点を高く評価する」という単純な肯定形にはならない・・・アジアって、そう言うところがありますよね?

取り立てて、拒否したり嫌いになる理由はないけど、取り立てて、好意を持つものもない。
多くの日本人にとっては、アジアはそんな存在なのでは?

じゃあ、アジア好きを公言する日本人は、どうしてそんなにアジアが好きなの?
「アジアの人たちとの連帯」などとやたら主張したり、アジアを好きと公言する人は、それこそ政治家などには結構いたりしますよね?
いったい、アジアの何がいいの?

往々にして、アジアに対して親近感を過剰に示す人って、欧米への対抗心があるものなんですね。そして欧米へのコンプレックスもあったりするもの。
それに対し、アジアについては、民族的親近性とか地理的な親近性を主張する。これってダメダメによく出てくる「地縁、血縁にこだわる」姿のヴァリエーションでしょ?

要は会話の不在であって、自分で考える意欲の低さ、強い被害者意識、そして説明能力の欠如の姿でしょ?

「近隣だから、仲良くすべきだ!」

アジア好きを公言するような人間は、そんなありがたい正論に盲従するような人間が多いでしょ?
だから、それを他者に対してわかりやすい形では説明できない。
「オレ様の言うことを、黙って聞け!」「文句を言うな!」と命令するだけ。

ああ!なんてアジア的なんだろう!

何もアジアが好きなのがダメダメと申し上げているわけではありませんよ。アジアという言い方はあまりに概括的でわかりにくい。せめて「アジアの○○のところの料理が好きだ!」「アジアの△△の街並みが好きだ!」と具体的に言えればそれでいいわけですが、そのようなケースは、むしろ「○○料理が好き!」と言う言い方になり、「アジアが好き」とは言わないでしょ?

あの辛いタイ料理を大好きの人を知っていますが、その人は、「タイの料理が好き!」とは言っても、「自分はアジアが好きだ!」なんて言いませんよ。
アジアが好きなら好きでいいわけですが、「アジアを好き」なんて概括的に言うのではなく、その人が肯定している具体的なものを列挙すればいいだけ。そして、その「良さ」を客観的な形で説明すればいいだけ。そんな説明なら、聞いていてもわかりやすい。
それができないのなら、アジアのいったい何が好きなの?

アジアという言葉に対になるのは、欧米という言葉であって、「アジア好き」って、「欧米嫌い」の別のスタイルの言い回しと見た方が自然でしょ?
アジア好きな人は、アジアを直接見るのではなく、欧米とは違う場所として、「アジアでないところが嫌い」と、いわば二重否定として見ているのでは?だからこそ、具体性がなく、概括的になっているのでは?

アジアって、むしろ理念というか概念の範疇に属するものであって、具体的な地域とは言えない。
そんな理念好きの人とやり取りしても、まさに一般的な理念を問答無用で上から押し付けられるだけ。しかし、ダメダメな人は、その問答無用さ、説明不要さに惹かれてしまう。そして、欧米に対抗する存在としてのアジアに惹かれてしまう。
実際に、日本の歴史の中で、「アジアの人との共栄」などと言っていた時代が、日本にとって一番ダメダメな時代だったでしょ?

やり取りをしても、アジアに関する話題は、具体的なマターにまでは進まず、最後には「べき論」でオシマイになるだけ。そして語られることも、どことなく対抗心の匂いがあったりするもの。アジアの魅力というより、反欧米の匂い。だから聞いていてもつまらない。
そんな小さな経験の積み重ねが、日本人のアジアに対する違和感を不快感に転化させてしまう・・・
奈良県の、美術選考の、騒動が教えてくれることって、そんな面もあるのでは?

アジア的・・・なんて視点を取り入れてみると、ダメダメの問題が見えてくるものなんですよ。実際に、奈良県で自宅を放火して兄弟を殺害した事件があったようですが、犯人の少年が持っていたであろう「権威主義的で、問答無用で、対抗心があって、密室的な存在に対する反感」を考慮すると、美術選考の問題も含めて、みなつながっているでしょ?

奈良県がダメダメだと申し上げるつもりはありませんが、美術選考から少年犯罪に至るまで、そんなアジアの匂いがしませんか?

このメールマガジンにおいては、ヨーロッパの芸術家に言及することが多くあります。
そもそも、この私は、ダメダメからの脱却を考えるにあたって、芸術の果たす役割を重視しています。だって、芸術創作の出発点は自分自身を見つめることであり、それはダメダメからの脱却においても必要なこと。そして、芸術家となると、現実的にはヨーロッパが多い。これは歴史的に言うと、キリスト教における懺悔という行為が、自分自身を見つめることにつながっている・・・なんて考えがあるようです。

だからと言って、この私が、盲目的なヨーロッパ賛美とか、あるいは、ヨーロッパ・コンプレックスがあるわけではありませんよ。
言及する芸術家がたまたまヨーロッパ人だったというだけ。
アジア嫌いとか、ヨーロッパに対するコンプレックスとか・・・そんなカテゴリー分類的なものではなく、言及する際には、できる限り客観的な説明が必要だし、そのような説明ができるものを、私としては取り上げているというだけです。

アジア好きの方は、じゃあ、アジアのどこが、どのように好きなのか?
それを客観的な形で説明できないとしたら、それは「好き」とは言えないのでは?
アジアという視点を使うと、その人の持つ「説明能力」が見えてきたりするもの。
アジアとなると、好きか、嫌いか、の二者択一となったり、
信じるか、信じないか、の二者択一になることが多いでしょ?
説明を聞いて、自分なりに判断していくというスタイルではありませんよね?

ヨーロッパが好きで、説明能力が低い人はいても、
アジアが好きで、説明能力の高い人はいないでしょ?

説明能力が低い人とのやり取りが楽しいわけがないじゃないの?

アジアが嫌いという人は、その心理として、アジアそのものよりも、むしろ、「アジアが好きと言う人が嫌いだ。」という面もあるのでは?
そのものではなく、その周辺の人が嫌いであるパターンも実際にあるものでしょ?

それこそ、キリスト本人は尊敬していても、クリスチャンは嫌いとか、
阪神タイガースはそれなりに好きだけど、阪神ファンは大嫌いとか、
女性蔑視はしていなくても、女性運動は嫌いとか、
平和の価値はすばらしいと思っていても、平和運動は嫌いとか、
文学そのものの価値はわかるけど、文学青年は嫌いとか、
あるいは、韓国ドラマそのものは、どうでもいいけど、韓国ドラマのファンの狂態は不気味とか・・・
そんなパターンの嫌いという感情はあるでしょ?

それこそ、韓国の問題でも、「焼肉の○○が好きだ。」とかの具体的な話をされたら、会話もできますが、「隣の国である韓国と仲良くなるべきだ!」と概括的で問答無用に要求されたら、イヤでしょ?

しかし、逆に言うと、「アジアを好きになるべきだ!」とか、とか、「アジアを嫌いになってはならない!」という問答無用なスタイルの方が好き・・・それが世の中のアジア好きなのでは?
そして、会話の能力もなく、説明能力もないダメダメ人間は、そんな問答無用のスタイルを求めてしまう。
アジアが好きなら好きで、それを具体的に、そして客観的に説明することが必要でしょ?
しかし、そんな「相手に配慮した」コミュニケーションができない・・・それがアジアを好きな人。
アジア好きの人については、問答無用という点に着目すれば、別の分野でも、実に共通性の高いものでしょ?

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、芸術表現にアジア的特性があるということだったら、それはそれでその芸術家のスタイルですよ。
私個人は、湿り気や粘り気や曖昧模糊な雰囲気が苦手ですが。

明晰となるとフランスの芸術家の特徴とされています。
たとえば、クラシック音楽において、演奏家がフランス人だとやっぱりその曲の明晰さが出てきたりするもの。特に、その演奏家が作曲家を兼ねているような場合には、実に明晰な演奏になったりするものです。

その手の作曲家兼業の演奏家は、楽譜を見ると、その作曲家の心理が直接見えるんでしょうね。その見えた心理を元に自分でも作曲をアタマの中でやることになる。
だから演奏家専業の人が見えてこないようなロジックも見えるんでしょう。
フランス人の作曲家兼業の演奏家は、実に明晰ですよ。

聞いていると、「ああ!この曲にはこんな面もあったのか?!」と驚いたりすることに。
「今までは、なんとなく聞いていた曲だけど、いとも明晰に解読されちゃったなぁ・・・」なんて聴衆から言われたりするもの。
音楽の綾が、いささかの曖昧さもなく、完璧に解き明かされる・・・そんな演奏を、好きな人もいるでしょうし、苦手な人もいるでしょう。

ただ、フランスの芸術は、そのような明晰さだけでなく、ある種の自虐もあって、明晰に自分自身を追い詰めるので、実に厄介な面もあったりするもの。

それに対して、アジア的な芸術は、曖昧な雰囲気なんだから、受け手にとっては本来はラクであるはず。
それが色々と不評を買うということは、日本において、それだけアジア的な感性に対する無意識的な反感が蓄積されているのでは?
何回も書きますが、アジア的なものは好きになるものもありませんが、嫌いになるものもないものでしょ?そんなアジア的なものが、不評を買うことが多いということは、権威主義的で問答無用の・・・つまりアジア的な存在に対する不満が充満しているのでは?
R.10/11/1