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カテゴリー ダメダメ家庭の親のキャラクター
配信日 08年7月16日 (10年5月23日,10年11月15日 に記述を追加)
タイトル 悪態愛好家
このメールマガジンで、たびたび逆上メールに言及したりします。それ以外にも、スサムメールというスタイルのメールも取り上げたことがあります。いずれのパターンも、メールの相手先を、ののしっているだけのメールといえます。まあ、私の文章を読んで腹が立ったのでしょうね。しかし、そんなリアクションをしても、何も効果がないでしょ?受け取った私としても、「コイツ・・・バッカじゃねーの?」と思うだけですよ。

たとえ、相手の考えが気に入らなくても、それをどうやって相手に伝えるのか?その点が重要でしょ?意見の相違が問題なのではなく、自分の見解を的確に伝えることができない・・・その点において、ダメダメ人間は、そのダメダメっぷりを如何なく発揮するもの。

そもそもダメダメ人間は被害者意識が強く、その被害者意識がスグに爆発することになる。しかし、その爆発によって、自分から逃避できてしまう。
だって、我を忘れて逆上しているんだから、もう現状認識も判断もないじゃないの?
そんな忘我の境地が、ダメダメ人間には心地いいわけ。

知性を欠如させた忘我な人間が、相手に対して行うのが悪態。
感情的な言葉を相手にぶつけるわけ。
まあ、逆上メールもスサムメールも、あるいは、インターネットの掲示板における罵詈雑言も、いわば悪態の一種でしょ?

このメールマガジンの文章では、会話調のくだけた用語をあえて使っています。かと言って論理展開を無視しているわけではないでしょ?と言うか、論理的に詰まりすぎているのが欠点でしょうね。いずれにせよ、感情的に「ののしっている」わけではないことは、『大部分』の購読者さんにはお分かりでしょ?

しかし、ダメダメ人間は、まさに論理も何もなく、感情的にののしるだけになってしまうわけ。そんな感情的な文言が、口に出しての言葉なり、文章においても、連なることになる。
それこそピョンヤン放送そのまま。

あのピョンヤン放送を聞いて、思ってしまうのがコレでしょ?
「この人たち・・・で、いったい何が言いたいの?」
こぶしを利かせて、感情を込めて語るのはいいとして、論理展開が何もありませんからね。聞いていてもさっぱりわからない。

彼らは一体全体何が言いたいの?
その答えは、このメールマガジンでよく書いていますが、「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」そして「オマエたちのせいで!!オマエたちのせいで!!」そんなところなんでしょうね。
まあ、そんな気持ちなら、あんな表現になってしまいますよ。

逆に言うと、あの手の表現をしている人は、被害者意識に我を忘れる傾向が強い人間であることがわかりますよね?

この手の悪態愛好家となると、日本では田中真紀子さんがその典型でしょ?
彼女のコメントなり演説?って、結局は何が言いたいの?
ただ、誰かをののしっているだけでしょ?

誰かをののしって、事態が改善するの?
で、結局は田中さんはどうしたいの?

あるいは、悪態を言う側の人間はともかく、そんなものをわざわざ聞きたがる人もいますよね?
どうして悪態などを聞きたいの?聞いて何か役に立つの?
しかし、逆に言うと、「自分がどうしたいのか?」「何をする必要があるのか?」と言うことを考えることから逃避する人間にしてみれば、悪態どまりであることが聞いていてラクになるわけ。
だって悪態を聞いていても、「面白いなぁ・・・」とか「つまらないなぁ・・・」とかの感想次元でオシマイでしょ?あるいは、「そうだ!そうだ!ああ!ワタシたちはアイツによる被害者なんだ!みんなアイツが悪いんだ!ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなんだ?!」・・・まあ、そんなところ。

ダメダメ人間にとって一番不快な物言いは、「アナタ自身はどうしたいの?」という問い掛けです。その問い掛けを受けると、何も答えることができずに、まさに逆上することになる。
それに対して、悪態だったら、ただ聞いていればいいだけ。ラクなものですよ。おまけに被害者意識を共有できる。ダメダメ人間にとっては、まことに心休まる至福の状態であるわけ。

だから悪態愛好家の周囲には、同じような悪態愛好家が寄って来ることになる。
そうして、いつもの盛り上がり。
「まあ!アナタって、なんてかわいそうなの?!」
「ホント!あの○○って、イヤよねぇ・・・」
それを、まさに感情を込めて語り合う。

そんな悪態で盛り上がることが出来たので、それ以降も、ますます悪態に精を出す。
ピョンヤン放送も、田中真紀子さんも、そうやって、ますます悪態が進化してしまう。

そして、この手の悪態愛好家は、悪態と反論の区別ができないもの。
だから、ヘタをすると「ワタシはあの人に対して、こんなにもちゃんと反論しているのに・・・どうして無視するのよ?!」と怒ったりして、ますます過激な悪態になってしまうもの。
相手や相手の見解に対して「否定的な」印象を抱いたとして、相手に対し「反論」ということだったら、その反論の言葉は客観的なものにしないといけないでしょ?
そして、それなりの論理構築が必要となる。
それに対して、悪態だったら、主観的な言葉だけでいいし、その言葉も断片的なものでいい。
別のところで書いていますが、ダメダメ家庭の人間は、主観と客観の区別が出来ない。
だから、悪態という主観どまりと、客観性を持った反論の区別もできないわけ。

あるいは、反論と悪態では、もともとの心理的が違っているでしょ?
悪態は、その背景が被害者意識だけ。
しかし、反論だったら、たとえ、否定的な印象から始まったにせよ、ある種の当事者意識がもとになっている。
「自分としてはこのように考えている。」
そんな発想を基本的に持っているわけ。
それに対して、悪態は、「キーっ、アイツが気に入らないわ!キーっ!」というだけでしょ?
当事者意識がなく、被害者意識しかない面からも、悪態と反論の区別ができなくなってしまう。

しかし、悪態という主観どまりの言葉を聞かされても、それこそピョンヤン放送を聞いた人間のように、失笑してしまうだけですよ。

相手に強烈な一撃を食らわすためには、悪態の言葉を続けても効果はないんですよ。
だって、悪態を聞かされる相手の側だって、予想できるわけですからね。
必死の形相で悪態を並べている姿をボンヤリと見ながら、「あ〜あ、この人・・・まだ悪態を続けているよ・・・ゲンキだねぇ・・・いったい何が楽しいんだか?」そうなっちゃいますよ。悪態の言葉なんて、所詮は主観どまりなんだから、いちいち聞いていませんよ。
そんなものでしょ?

相手に打撃を与えるためには、それなりの工夫が必要なもの。
19世紀末から20世紀にかけて活躍した作曲家のグスタフ・マーラーの交響曲第6番の最後の部分は、悪態ではないんですが、聞き手に強烈な一撃を残します。
最終楽章の第4楽章で荒れ場で荒れて、やっと表情が収束してくる。そして音が静かに消え行く。
「ここで終わりかなぁ・・・」と、消え行く音に耳を澄ましていると、突然に「ガーン!」と大音響で終わるわけ。その衝撃に、聞き手は心を揺さぶられることになる。
まあ、強烈な一撃を見舞うためには、そのための下準備もいるものなんですよ。音を静かにして、聞き手の注意を引き付けておくからこその、最後のインパクトになるわけ。
ただ「荒れた」表現を並べればいいというものではないわけ。

本当に伝えたいものがあるのなら、それなりの表現をしないと、お笑いにしかならないもの。大げさな言葉を並べればいいというものではないんですね。ホントにピョンヤン放送状態になるだけ。

当人にしてみれば、「こんな悪態をつかなければならないオレたちって、なんてかわいそうなんだ?!」「まったく・・・アイツのせいでオレたちは・・・」なんて被害者意識でいっぱいなんでしょうが、それを『伝える』ためには、ちょっと引いたスタンスでの表現の構築も必要なんですよ。

しかし、被害者意識だけがあり、会話の精神がないダメダメ人間は、悪態を並べるだけ。その悪態が飽きられると、さらに悪態の表現レヴェルが上がってしまうだけ。
しかし、悪態のレヴェルが上がっても、「それで何が伝わるのか?」と言うとまったく別問題でしょ?

しかし、そんなギャグのような事態は、ピョンヤン放送や田中真紀子さんだけでなく、ダメダメ人間の周囲には、結構ポピュラーなものなんですよ。

そして、こんな悪態愛好家には、それなりの共通点があります。
往々にして、その手の人は、「ウチはいい家庭だ!」なんて、率先して主張するものなんですね。まあ、田中真紀子さんの「血族志向」は知られているでしょ?北朝鮮の場合は、民族愛になるのかな?「オレたちは、すばらしい民族だ!」なんて、率先して言っているでしょ?
そして、わざわざ「将軍様のおかげで、天国にいるように幸せ!」と自分たちから主張しているでしょ?

そんな「つながりのよさ」を、自らが主張するわけ。あるいは、「ウチはすばらしい家庭だ!」と見せ付けるような行動をしたりするもの。
日頃から悪態ばかり言っている人ほど、「ウチはうまく行っているんだ。」と言いたがるわけ。

これって、要は、家族以外には相手にされない・・・ということなんですね。
それに自分自身の現実を見たくないわけ。見たくないがゆえに、そして自分を騙すために、相手から言われないように、「ウチはいい家庭なんだ!」と先制的に言い出す。
北朝鮮がまさにそうでしょ?

まあ、マトモな人は、そんな悪態愛好家などとは、一緒にいたいとは思いませんよ。
だから、ダメダメ人間にしてみれば、なおのこと、家族のつながりにこだわらなくてはならないし、その「つながり」がダメだったら、何もつながりがないことになってしまう。ダメダメな人間にしてみれば、それを認めることが怖い。だから「聞かれてもいない」のに、「ウチはうまく行っているのよぉ〜」とやるわけ。

そもそも、日頃から悪態ばかり言っている人は、結婚前も似たようなものでしょ?そんな人と結婚するような人はどんな人なの?

まあ、悪態を黙って聞いているような「人に合わせる」「影の薄い」人のパターンか、いっしょに悪態で盛り上がるパターンかのどっちかでしょ?

このうち、いっしょに悪態で盛り上がって意気投合して結婚するパターンは、スグに離婚となります。だって、その悪態がお互いに向き合うようになるのは、自明でしょ?
スグに修羅場になって、離婚ですよ。

悪態主導者と、聞き役という組み合わせは、それなりに長く続くことになります。そもそも主導者と聞き役という明確な役割分担ができているので、その面では「うまくいく」ことになる。
しかし、聞き役だって、面白くはないでしょ?だから、そのうちに逃げ出してしまうわけ。そうしてその悪態の聞き役は、子供の役割となってしまう。
日頃から親が語る悪態を聞いていたら、子供が考えることは、「こんな悪態が自分に向けられないようにしよう!」ということ。だから親に気を使ってオドオドするような子供になってしまう。

親の悪態を聞き続けた子供は、そのストレスを周囲の子供に発散するようになり、結局は子供同士のトラブルが発生。
自分の子供がトラブル状態にあるのを見た悪態愛好家は、その本領を発揮して、トラブルの相手方の親や子供への悪態に精を出す。

影の薄い配偶者は、その悪態を制御できる能力も意欲もなく、結果的に、悪態愛好家の悪態がどんどんとヒートアップするだけ。日常を超えたレヴェルの罵詈雑言は、自分が被害者であることの自己確認の儀式となり、それが、被害者意識が強いダメダメ人間にとっては、ますます心地いい。

マラソン競技において、走っていると脳の酸素が欠乏して、ある種の恍惚感を得るという「ランナーズ・ハイ」になることがあるそうですが、悪態をつき続けて「悪態ハイ」になってしまう。あるいは、最近の映画のタイトルをもじると「クレーマーズ・ハイ」状態。
クレームの言葉を並べる自分自身に興奮して、ハイになってしまう。ギャグのように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際に悪態愛好家をご存知の方は、このような「クレーマーズ・ハイ」状態をご覧になったのでは?
前にも書きましたが、居酒屋さんで「オレは酔っていないぞぉ〜」と言い出すお人と似た状態。もうこうなると、引き返すことはできずに、ドッカーンとなってしまう。

だから、ちょっとした悪態に接した段階で、そんな人から意識して距離を取らないと、危ないんですね。
「面白いこと言うなぁ・・・」と喜んで聞いている場合ではないわけ。

しかし、前にも書きましたが、悪態というのは、外から見ているとおもしろいところもある。それこそ北朝鮮も、直接的に関わりがなければ、実におもしろい人たちですよ。
だから、ちょっと近寄りたくなる。

しかし、やっぱり危険な存在なんですね。
悪態は、その心理の基本として、被害者意識がある。
「ワタシはこんなにかわいそうなのよ!」・・・要はそれが言いたいだけ。

そんな人は、自分の被害は、まさに悪態として声高に主張するわけですが、逆に言うと、当人以外の人への迷惑などは何も考えない。
「ワタシこそが一番かわいそうなんだ!」「だから、自分以外の人間には何をやってもいいんだ!」と確信している。

悪態を投げつける対象に対して「ワタシはアンタによる被害者なんだ!」という感情を持っている。
「被害者は加害者から補償を受ける権利がある。」あるいは、「被害者は、加害者から『構ってもらう』権利がある。」・・・そのように考えているわけ。

そんな人は、悪態を投げつけた相手に対して、後になって、平気でコンタクトを取ってきたりするもの。

一般の人にしてみれば、自分が悪態をついた相手とは、もう二度とコンタクトを取らないということは、あまりに自明のことでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては違っているわけ。
「このワタシが悪態をつかなければならないほどに、ワタシはアンタから被害を受けたんだから、アンタはワタシの要望に対処する義務があるんだ。」・・・そんな理屈なんですね。

つまり、悪態の言葉が粗暴であればあるほど、何回もコンタクトを取ろうとするわけ。
相手に悪態をつくことで、相手から構ってもらおうとするわけ。
北朝鮮なんて、実際に、まさにソレでしょ?
相手にされないと、被害者意識が刺激され、ますます悪態をつくことになる。
悪態をつくことによって、相手から構ってもらうと、その成功体験から、次からも、悪態をつくことで成果を得ようとする。
どう転んでも、悪態街道まっしぐら。

悪態というものは、それを聞いた時点で早めに避難しないと、実に危険なんですね。
ある人から悪態をつかれたんだから、その相手からは、もう2度とコンタクトを取ってこない・・・そんな常識すら通用しない人・・・だからこその、悪態愛好家なんですよ。

(終了)
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発信後記

ちなみに、本文中で言及した作曲家のグスタフ・マーラーは、「亡く子をしのぶ歌」なる曲があります。歌詞はドイツの詩人のリュッケルト。
リュッケルトが自分の娘を亡くした悲しみを詠った詩に、マーラーが音楽を付けたわけ。ちなみに、その頃マーラーは自分の娘が生まれたばかりの頃でした。
マーラーの奥さんは、「そんな縁起でもないことは止めてよ!」と言っていたそうですが、マーラーはかまわず作曲を続けました。

数年後に、ちゃんと彼の娘がお亡くなりになって、その曲は役に立ったわけです。
天才というものは、因果律とは別のロジックがあったりするものなんですね。
もちろん、当人が見たくて見ているわけではないので、なおのこと厄介なものなんですが。

ちなみに、上記のマーラーの交響曲第6番と「亡く子をしのぶ歌」はカップリングされているCDもありますから、図書館などで借りて、お聞きになってくださいな。
交響曲第6番が、80分くらい、「亡く子をしのぶ歌」は25分くらいの長さの曲です。
R.10/11/15