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カテゴリー | ダメダメ家庭の認定行動 |
配信日 | 08年8月6日 |
タイトル | 崇拝者認定 |
前回のこのメールマガジンで、「規範認定」というお題で配信しております。 「自分とはどんな人間なのか?」 「何をしたいのか?」 そんなことを考えることから逃避するダメダメ人間は、「うまく行っている」ように見える誰かを、「自分の規範」と認定して、その規範認定した人物の行動に、自分の行動を盲目的に「合わせよう」とするわけ。 しかし、「うまく行っている」人というものは、自分で自分の問題点を自覚して、その解決法を自分で考えて行動しているから、結果的にうまく行くわけでしょ? まさに、自分自身を見て、周囲をよく見ているから、うまく行っているわけ。別の言い方をすると、「敵を知り、己を知って」行動しているがゆえに、それなりの成果となっている。その「うまく行っている」人だけを見ても、自分自身や周囲の状態を見なかったらどうなるの? うまく行っている人の行動を、単に真似たとしても、うまくは行きませんよ。 孫子の兵法の文章を暗記しても、自分自身や周囲の状況を見かなったら、コケるに決まっていますよ。 しかし、ダメダメ家庭の人間は自己逃避であり、自分で考えることから逃避するために、あるいは、眼前の現実を認識することから逃避するために、誰かを規範として認定するようなことをするわけ。 この規範認定に近い心理として「崇拝者認定」があります。 「あの○○さんを、このワタシは崇拝している!」 「あの○○さんこそ、ワタシの目標とするべき人物だ!」 そんな感じで、周囲に主張するような人がいたりしますよね? あるいは「ワタシは、自分の父親が目標とする人物だ!」 そんな物言いもあります。 そのようなことを書くと、 『目標とする人物を設定することに何の問題があるんだ?』 そのように怪訝に思われることは当然でしょう。 しかし、ダメダメ人間は、自分から逃避している。自分がどんな人間で、何を目標としているのか?そんなことを考えることから逃避しているわけ。 「自分の目標は何なのか?」 そのことを自分自身で考えないのに、「目標とすべき人物」だけが一人歩きしてしまう。規範なり崇拝者が先にあって、自分の目標がない状態なんですね。 これではうまく行くわけもありませんし、そもそも目標がないのだから、目標達成も何もありませんよ。 それに、自分自身から逃避している人間なので、崇拝している人物についても、しっかりとは考えることができない。ただ、盲目的に行動を真似しているだけ。実質上は規範認定と同じ状態。 規範認定は、往々にして、周囲に対し規範としている人物について語られることはないし、自分自身でも「あの○○さんを規範として認定している。」と強い自覚がないケースが多いのに対し、崇拝者認定は、周囲に語られる傾向があります。 あるいは、別の言い方もできるでしょう。 規範認定や崇拝者認定「する」側は別として、「される」側の問題があります。 規範認定されてしまった人物は、まあ、マトモな人が多い。 しかし、崇拝者認定された側の人は、むしろダメダメのケースが多いもの。 たとえば、かなり以前に話題になった、お相撲の二代目貴の花さんを考えてみましょう。 彼は「ワタシは父親を尊敬しています!」なんて、最初は言っていましたよね? しかし、そのような父親への尊敬って、声を大にして語るって、不自然じゃないの? 自分の親への尊敬って、声を大にして言うと不自然でしょ? 言うとしたら、 「育ててくれてありがたい。」という感謝の言葉だったり、 「このようなことをしてくれて、楽しかった。」といった思い出だったり、 「いざという時には、助けてくれる。」と言った信頼の言葉だったり・・・ 「いやぁ・・・オヤジにはかなわないなぁ・・・」と言った、憧れの感情だったりするもの。 うまく行っている家庭の子供なんて、そんなものでしょ? 何も、「自分の両親が目標です!」「自分は両親を崇拝しています!」なんて声を大にして言うものなの? しかし、逆に言うと、「自分は両親を崇拝しています!」なんて掲げることによって、神聖不可侵の存在に祭り上げてしまって、考えることから逃避するわけです。 崇拝者認定というものは、「自分が困った時には、オヤジのやり方を参考にしよう・・・」なんて認定ではないんですね。 「毎日、手を合わせてお祈りしなきゃ!」 むしろそっちに近いわけ。 いわばアンタッチャブルな存在にしてしまう。 逆に言うと、その崇拝した対象について「できるだけ考えたくない」という心理であるわけです。 その手の人は、自分の崇拝者について話題を振られると、極端な反応を示すもの。まあ、いわゆる逆上というヤツです。 二代目貴の花さんだけでなく、世の中にはそんな人がいっぱいいるでしょ? 往々にして、その崇拝者は、自分の親だったりするもの。 しかし、崇拝の対象であるその親が、どんな人だったの? 子供の考えを伸ばすような家庭を作ったの? 会話の能力をつけるために、一緒に会話したの? 子供に楽しい思い出を作ってあげたの? そんなマトモな親でないからこそ、崇拝の対象とされてしまう。 具体がないが故に、一般論化してしまうわけです。 お相撲の二代目貴の花さんも・・・父親がお亡くなりになって、深層心理的には、喜んでいるわけ。実際に、彼も、父親がいなくなってからは「落ちついて」いるでしょ? 崇拝者認定は、まさに、心の不安定さと直結しているものなんですね。 崇拝者を掲げることによって、自分の認識や思考を縛るわけ。縛ることによって、精神の安定を得ようとするマゾヒズム的な心理と言える。しかし、その安定は、認識や思考の逃避に根ざしたものであるがゆえに、本当の安定には至らない。 そもそも好意を持っている相手を崇拝することはないでしょ? 親近感を持っている相手を崇拝することはないでしょ? 崇拝しているということは、「好意」も「親近感」もないということ。 だからこそ「崇拝」という神棚に祭り上げることによって、アンタッチャブル領域に押し込んでしまう。 「○○を崇拝しなければならない。」という感情が、心理的な圧迫となってしまう。だから、ますますうまくいくわけもなく、だからこそ、崇拝行動が熱くなってしまい・・・とスパイラル進行となる。 崇拝という言葉は、一般的には宗教の分野で使われる言葉です。 それも、どちらかというと、新興宗教と称される団体でなじみのものでしょ? あるいは、宗教以外の分野だと、オーナー会社の社長さんが、崇拝の対象になったりしますよね? つまり、崇拝の対象は、まさに不可侵で犯すべからざる存在であり、別の言い方をすると、認識や思考の対象外であり、現実的には独裁者に近い存在と言える。 崇拝の感情って、身近な感情ではないでしょ?だからこそ、身近な人間に向けているとしたら、何かがあるわけ。身近な人を表現するには、身近な言葉を使うもの。崇拝って、身近な言葉じゃないでしょ?そのギャップから、そんな状況におけるダメダメも見えてくるわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 親が死んで、自分も精神的に安定してきた・・・そのことを認めるのは、心情的に難しいところもあるわけですが、実際問題として、そのようなことはありますよね? 本文中でも言及したしましたが、二代目貴乃花さんなんて、その典型でしょ? スグには自覚することは難しいかもわかりませんが、いずれかは自覚しないと、崇拝していた自分の父親と同じことをやるようになるわけ。 「崇拝している存在と同じことをするからいいじゃないか?」ともいえるわけですが、それをよく考えた上で選択しているのならともかく、考えたくないがゆえに結果的に同じ状態に陥ってしまう・・・そんな事例が多いものなんですよ。 |
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R.10/12/12 |