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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 |
配信日 | 08年8月11日 (10年10月11日,11年1月17日 記述を追加) |
タイトル | 好奇心 |
子供がよく言うのが、こんな言葉。 「ねぇ!ねぇ!あの○○って、どうして△△なの?」 「ねぇ!どうして、あの☆☆って、どうして、あのようなことをするの?」 誰だって子供時代に言ったことがあるでしょうし、親となったら、自分の子供から言われたことがあるでしょう。 子供がいて、子供から言われないとすれば、その家庭はもう終わっていますよね? 子供と言うものは、基本的には好奇心を持っているもの。 いや!子供だけでなく大人だって持っているでしょ? 好奇心がなくなったら、もうその時点で、枯れちゃっていますよ。それは、お肌の問題より大問題。だって、そんな枯れた人間なんて、顔の表情も枯れちゃうでしょ? しかし、ダメダメ家庭は被害者意識が強い。 だから、ダメダメ家庭の親は、子育てだって、親である自分が被った被害と考えている。 このことは、このメールマガジンで枯れることなく頻繁に書いています。 子育てを自分が被った被害と考えているんだから、子供からの質問に答えるわけがない。 「ねぇ!ねぇ!お母さん!どうして□□なの?」 『うるさいっ!アッチへ行け!だいたい・・・誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!』 そんな回答?だったら、子供だって、親に質問しなくなってしまいますよ。 子供からの質問に一つ一つ回答するのが、面倒だったら、たとえば、百科事典でも部屋に置いて、子供が自分で調べられるようにしておく・・・なんて方法も取れないわけではないでしょ? しかし、子育てを被害と考えているダメダメな親はそんなこともしない。 「コイツのせいで・・・」と子供を恨んでいるだけ。 しかたがなく、子供がインターネットで調べていると、まあ、親にとって不都合な情報にもアクセスできてしまう。ダメダメな周囲はそんな事態に大騒ぎ! 「ああ!子供が悪の道に!」 「ああ!なんてヒドイ時代なんだ?!」 「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」 子供がインターネットにアクセスするのを避けたいのなら、子供の質問に答えたり、一緒に調べたり、せめて百科事典でも置けばいいじゃないの?そんな手段もないと子供も自分で調べようがないでしょ? 結局は、子供は自分の好奇心そのものを抑制するようになってしまう。 だって、好奇心を持って質問しても、親は答えてくれないし、調べる手段もないわけでしょ?こうなると、「知りたいのに、分らない。」というストレスになるだけ。 だから、好奇心そのものを抑制するしかない。 好奇心があれば、知識も増える。 だから、人と話をしていても、ネタがいっぱいある。 だから会話は弾むし、会話の技術も発達することになる。 そんな会話の積み重ねにより、もっと好奇心が刺激され、親に聞いたり、自分で調べたり・・・とスパイラル進行していく。 好奇心は、知識を得るというメリットばかりではありません。子供っぽい好奇心からの行動は、それがたとえ失敗に終わっても、愛嬌があって、聞いていても楽しいものでしょ?だから会話も弾みますよ。 それこそ以前に埼玉県の女子高生が、高校の生物の授業で解剖したニワトリを、後で唐揚げにして食べて、お腹を壊して入院なんて事件がありました。 「コレを食べたら、どんな味がするんだろう?」という疑問は、人間にとって代表的で根源的な好奇心と言えます。それこそ「何でも口に入れる」精神をそのまま持っているんだから、なんとも清清しい。 その疑問を自分の身体を張って実践するんだから、たいしたものですよ。 まあ、結果的に玉砕することになっても、そんな失敗談は聞いていて楽しいでしょ? その女の子が大人になって、将来ビールでも飲みながら、おつまみのから揚げを見ながら、「ワタシも昔はバカをやって・・・」なんて、その話をしたら、周囲も盛り上がりますよ。あるいは、会社の就職試験の面接で、「ワタシはチャレンジ精神が旺盛で、高校時代はこんな失敗を・・・」なんて言おうものなら、合格間違いなしですよ。その手の失敗は、将来につながるんですね。 子供っぽい好奇心は、たとえ失敗した事例でも楽しいもの。しかし、子供時代に好奇心を抑圧し、大人になってからの好奇心となると、それこそ他人のウワサとかの話になってしまう。他人のウワサへの関心は自分の切実な感情ではなくて、単なる自己逃避の感情から来ている。 その手の「大人っぽい好奇心」って、聞いていても、何か不快な気分になるでしょ? それこそ学問の分野で業績を上げる人の好奇心なんて、実に子供っぽい好奇心ですよ。 好奇心を抑圧しているダメダメ家庭の人間は、むしろ詮索好きになるもの。 「これって、面白いなぁ・・・」という素朴な感情ではなく、「何か失敗しているヤツはいないかな?」とか、「こんな自分でも笑い飛ばせることはないかな?」とか、「アイツにも欠点があるんじゃないかな?」と周囲をうかがうことになる。 よく、「周囲の人に対しても関心を持ちなさない。」と言われたりするものですが、詮索というスタイルを持った上での人への関心は、自身への無関心や、自分を見つめることへの恐怖の裏返しなんですね。 詮索というものは、心から面白いと思えるものではないでしょ? 好奇心と詮索は大きく違いますよ。 「わあ!これって、なんて面白いんだ!」と思うのが好奇心の結果であって、 「フンっ!ザマーミロ!」と思うのが詮索の成果。 そんな詮索を積み重ねても楽しいの? しかし、感情そのものを抑圧し、達成感とか充実感とは縁がないのがダメダメ人間というもの。だから、他者に関心を持っても、詮索どまりになってしまう。 そんな人は、それだけ自分自身から目をそむけているわけです。だから、人がやっていることに対して、断片的な感想を言うことはできても、自分の希望なり見解を統合的にまとめることはできない。 好奇心だったら、その好奇心で得られた知識によって、さらなる好奇心が生まれ・・・と、どんどんと知識欲が広がって、成果につながるわけですが、詮索だったら、自分なりの成果を出せなくても済む理由が得られるわけです。 詮索どまりの人は、それに相応する情報を求めることになる。 それこそ、情報の提供となると、マスコミがあるわけですが、その報道内容も、 子供っぽい好奇心なのか? 思索や判断のための情報提供なのか? それとも、たんなる詮索のネタなのか? ・・・色々なパターンがあるでしょ? そして、自分が求める情報に同類たちも群がることになる。 だから、好奇心を持っている人間と、人のことを詮索しているだけの人間も二極化することになる。そして、子供っぽい好奇心がない人間は、詮索によってゲットした人の欠点を公表して大喜び。そんな人たちはインターネットの掲示板にいっぱいいるでしょ? そんな詮索好きの人に、「アンタもさっきから色々と得意気に語っているけど、アンタはそれがそんなに面白いの?」と聞いてごらんなさいな。それこそ、『なんだと!オレはオマエのために言ってやっているじゃないか!』と怒り出したりするものでしょ? 「オマエのために・・・」という枕詞はあっても、他人についての詮索なんて聞きたくもありませんよ。まだ当人自身が心の底から面白く思っているのならともかく、「オマエのために、わざわざ・・・」と恩を着せられても、対応ができませんよ。 それこそ、詮索好きの人の話は、「白鳥は水面の上はきれいなものだけど、水面の下は足をバタバタしているものだ。」ということにおいて、水面の下の足のバタバタばかりに注目し、水面の上の優雅な姿はまるで見ようともしない。 そうして、「あの白鳥も、要は○○なんだよな・・・」と、訳知り顔で周囲に語ることになる。 しかし、それを知って、そんなにおもしろかったの? それをそんなにも知ってほしいの? と言うか、そんなことを訳知り顔で人に教えて、何が楽しいの? 他人の詮索を語られるよりも、解剖したニワトリをから揚げして食べて玉砕する方が、自分で完結しているでしょ?自分で完結しているがゆえに、逆に言うと、聞いていて楽しく思えることになる。 詮索での情報を訳知り顔で語られても、そんなことを言い出す人については、「教えてもらった情報」に感謝するどころか軽蔑するだけですよ。 解剖したニワトリを唐揚げにして食べて玉砕しても、笑うだけで、軽蔑したりはしないでしょ? 本来なら、他人の悪口しか言えないような人とは、やり取りをしていても、ツマラナイでしょ?あるいは、自分の被害話しか言えないような人のグチを延々と聞かされても、周囲も不快になるだけですよ。好奇心を抑制していたり、他人のウワサくらいの中身しか持っていない人とは話が発展しないもの。なんとなく気まずい雰囲気になるだけ。 結局は、子供っぽい好奇心を持っていない人は、心が弾むような思いもなく、当たり障りのないやり取りに終始して、そんな会話を、「ふ・つ・う」と呼ぶ。 そんな「ふ・つ・う」の会話しかしないので、ますます好奇心とは無縁になる。だから、顔の表情ばかりではなく、精神的に「枯れて」しまう。 自分では何もしない人間が、唯一できることと言ったら、子供を作ること。まあ、精神的には枯れても、そっちだけは枯れなかったりする。だから子供が出来てしまう。 そんな家庭の子供も、当初は好奇心を持っている。 「ねぇ!ねぇ!お母さん!どうして□□なの?」 そんな子供からの当たり前の質問に対して、精神的に枯れた親はどう答えるのか? ダメダメ家庭の問題は、当人の自覚が最重要であると、このメールマガジンでは頻繁に書いています。 そして、その自覚が難しいことも、いつも書いています。 その無自覚の結果が、好奇心のない「枯れた」子供と、表情も枯れ果ててしまった親の家族。 そんな「生気が枯れてしまった」家庭を、ダメダメな親は、「ウチの家庭はふつうの家庭だ!」なんて言ったりするんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 自分自身が切実に「知りたい!」と思うから、自分で調べようと思う・・・ そんな感情によって得た知識は、自分の身になっているわけだから、後で色々と活用できる。それに対し、与えられた知識を効率よく吸収したものは、所詮は知識どまりであって、後で活用することはできないわけ。 このメールマガジンでは、以前に「思考力と学力は違う」と書きましたが、思考力は、「自分が知りたい!」という気持ちを持っているから、付いてくるわけ。 「自分が知りたい!」という気持ちがない状態だったら、そんな知識は何も活用できませんよ。自分で知るためのスキルは後で役にたっても、上手に吸収するだけのスキルなんて、役に立てませんよ。 なんでも、とある有名大学の学生が、「こんな一流大学の出身であっても、企業の内定が取れないのは社会が悪いせいだ!」とか何とかの文章をブログに書いてモメたそうですが・・・ 色々とお約束満載のその意見はともかくとして、その学生さんは、学力と思考力の違いがわかっていない状態なんでしょうね。そこそこの思考力があれば、「そんなに悪い社会に存在する会社に内定をもらっても後々モメるだけ。」ということくらいは、小学生でもわかること。学力はそれなりにあっても、思考力がゼロのパターンの代表でしょう。 知の基本も、あるいは幸福になるための基本も、実は同じで、それは「汝自身を知れ!」ということ。別の言い方をすると「で、結局、自分はどうしたいのか?」という問いに自分で答えること。その答えは人それぞれでしょうが、ダメダメというものは、答えることそれ自体から逃避してしまう・・・そんなものなんですね。 |
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R.11/1/17 |