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カテゴリー | レポート・手記等に描かれたダメダメ家庭 | |
配信日 | 08年8月28日 | |
取り上げた作品 | 自由からの逃走 (1941年) | |
作者 | エーリッヒ・フロム | |
タイトル | サディズム (支配欲) | |
追記 | 発行者による補足文章があります。(10年11月7日 文章追加) | |
さて、前回配信の文章において、マゾヒズムについて取り上げました。 取り上げたと言っても、フロムの「自由からの逃走」において記述されているマゾヒズムの心理を紹介し、ダメダメ家庭を考える視点としたわけです。 特殊な趣味の方のための実践的な知識の紹介を目的としたものではありませんよ。 そもそも、私はそっちの趣味はよくわからないし・・・ さて、マゾヒズムを紹介したのだから、次には、マゾヒズムと対になる趣向と言えるサディズムを取り上げましょう。フロムの「自由からの逃走」においては、マゾヒズムと同じように、サディズムについて、その心理的な意味が解説されております。 さて、前回のマゾヒズムが、自分自身の無力感の自覚・・・何も行動できない自分、何も判断できない自分・・・そんな無力感を味わうものでした。逆に言うと、そんな無力であるがゆえに、何もしなくてもいい安寧を感じることができるわけ。 自我を否定し、捨て去ることによる、自我の桎梏からの解放のようなもの・・・それがマゾヒズムの真髄のようです。 それに対し、フロムによると、サディズムの本質は、「支配欲」であるそう。 サディズムというと、「その手のプレイ」においては、縄で縛って、ムチでバシバシ「する側」の方の心理になるわけですが、相手に痛みを与える悦び・・・が、あるんでしょうね。 しかし、フロムは、相手に与える痛みは副次的なものである・・・むしろ、サディズムの本質は「相手を支配しようとする欲求である。」と書いております。 相手を支配するために、一番効率的なものは、痛みを持って支配すること。 「痛み」と「支配」が直結しているなんて、誰でもわかること。かと言って、本質なのは「支配欲」の方であって、「与える痛み」は、その手段に過ぎないわけ。支配する手段は痛みばかりとは限らない。 それこそ、世の中には「アメとムチ」なる言葉もありますよね? 相手を意のままに操縦するためには、ムチを使って操縦する方法もあるけど、アメを使う方法もある。 アメを使った操縦となると、このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアの連中が、その典型と言えるでしょう。 フロムによるサディズムの考えを取り入れると、ボランティアはサディストの集団ということになります。このように書くと極端な考えと思われる方も多いでしょうが、ボランティアの人たちの行動なりサポートは、決して「相手の自立」・・・別の言い方をすると「相手の尊厳」に向けたものではないでしょ? 自分たちが支配しやすい「弱い立場」や「弱い判断力」の人間に寄って行って、アメによって手なずける・・・ そうして、援助している先の人間が、自分で考え、精神的に自立しようとすると、「アナタたちは悪くないわ!」「みんな○○が悪いのよ!」と弁護してやる。だから自立できない状態が温存されることになる。あるいは、自分たちが支配できる人間の数を増やそうとする。それこそ後進国に出かけて行って、「子供を沢山つくれよ!」なんてやるわけ。そうなると、後進国の人々も、経済的な依存関係がより強くなり、まさに支配から脱却できなくなる。軍事によるムチの支配ばかりではなく、「暖かい言葉や援助」のようなアメを使った支配も現実としてあるわけ。 アメとムチは、外見的には大きな違いはあっても、心理的にはほとんど同じ。だから、アメを使った「優しい」支配においても、ちょっとした場面においては、ムチを使った攻撃性が発現することになってしまう。 ボランティアや市民団体は、何かと言うと「つるし上げ」をやりたがるでしょ? 個人レヴェルにおいても、色々と「くれたがる」人は、ちょっとのことで逆上したりするものでしょ? まさに「こんなに色々としてやったんだから、文句を言わずに、オレの言うことを聞け!」となったりするもの。 それこそドメスティック・ヴァイオレンスのボランティア団体なんて、「加害者」の男性をつるし上げることによって、事態を解決させようとしたりしますが、これって、まさにアメとムチを使うサディズムそのものですよ。 「人を見る眼」のない女性を、自分たちの支配下に置くとともに、加害者の男性をつるし上げることによって、その男性も支配しようとするわけ。 極端な見方と思われる方もいらっしゃるでしょうが、そのように思われる方は、現実のボランティアの行動をよく観察したり、その手の団体の人と実際に話をしてみて御覧なさいな。 ボランティアの連中は、フロムの言う「○○からの自由」とまり。だから、そのための運動には熱心。しかし、「○○をする自由」は持とうとしない。だから他者の問題に首を突っ込んで、自分自身の「○○をする自由」から逃避するわけ。 本来なら、他者を支配しても、だからと言って、自分のやりたいことが達成できるというものではないでしょ? しかし、「○○からの自由」を持っていても、「○○をする自由」から逃避してしまっている人間にしてみれば、まさに「○○からの自由」の一環として、他者を犯人認定して、つるし上げをするくらいしか能がないわけ。 そして、その自分の支配欲を合理化することになる。フロムが言うように、本質となる支配欲を、「他人に対する過度の善意や過度の配慮の結果として覆い隠されることになる。」わけ。 フロムが書いている合理化の具体例としては、「私がオマエを支配するのは、お前にとって何が重要なのか、私が知っているからだ。お前の利益のために、オマエは私に従うべきだ!」あるいは、「私は人から傷つけられた。人を傷つけようとする私の願いは復讐にほかならぬ。」「最初に殴りつけたのは、私や私の友人が傷つけられる危険を防ぐためだったのだ。」 まあ、そんなセリフは実際によく見聞きするでしょ? あるいは、このメールマガジンでも頻繁に取り上げております。 そのような合理化によって、自分が目指している支配を合理化するわけ。 まさに、ダメダメ家庭においても、親の側は「オマエのために、言ってやっているんだぞ!」などと「善意」を強調したりするでしょ?善意が前面に出てくる状況においては、その深層に支配欲があるわけ。善意を強調することで、「だから、オマエはワタシの言うことに従うべきなんだ!」という理屈にしてしまう。 それこそボランティアの連中がそうですし、まさにナチの連中も、典型的にそのパターンでしょ?ユダヤ人をつるし上げても、だからと言って、何が達成できるの? 他者を支配することに留まってしまうと、まさに「他者を支配する」という関係性に自分が支配されることになってしまうわけ。 結局は、個人としての自分自身の精神的自立・・・つまり「○○をする自由」からの逃避なんですね。 サディズムもマゾヒズムも、「○○をする自由」を考える、主体的な自分自身からの逃避の形態であるわけ。あるいは、フロムは「マゾヒズム的、サディズム的な努力のいずれもが、耐え難い孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするものである。」と書いています。 他者を支配することしか能がない人は、結局は自分自身を支配できないわけ。 というよりも、「自分自身を支配することから逃避する方法として他者の支配があるわけですし、その心理的傾向が、まさにサディズムである。」 フロムはそのように言っているわけですし、サディズムの解釈はともかく、このメールマガジンでも、同じことは頻繁に書いております。 自分自身の「○○をする自由」からの逃避の手段として、マゾヒズムもサディズムもある。結局は、自分の存在価値を「相手との関係性に依存」しているわけ。だからこそ、相手の自立を阻み、支配関係を維持構築しようとすることになる。 暴力的なサディズムも、平和的なサディズムも、心理的には同じなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 このメールマガジンでは、今回配信した文章だけでなく、ボランティアの連中のことを好意的に書いてはおりません。 もちろん、人を助ける気持ちは、いいことですよ。 ただ、助ける側の気持ちはともかく、助けられる側が、「自分はこのような人間で、このようなことを達成したくて、今のところではこの点をサポートしてほしい。」と明確に頼んできたら、その時に、ちゃんと助けるのが人間の姿でしょう。 しかし、ボランティアの連中は、そのように明確に言えない、言おうとしない人の元だけに寄っていって、自分の都合で援助しているでしょ? 助けられる側が、自分の希望を明確に言えないのなら、まずは、明確に言えるようにするのが、サポートする側が最初にしなくてはならないことですよ。 先日、またボランティア絡みで事件がありましたが、あのような事件が起こるたびに思うのが、あの手の方々って、マトモな社会にいたら、まさに「陸に打ち上げられた魚」のようなものなんだなぁ・・・ということ。 魚はもともと水の中の生き物なんだから、しょうがないけど、人間だったら、ちゃんと陸上で精神的に自立することが先でしょ?しかし、その自立が怖いがゆえに、スグに水の中に逃げ込んでしまう。 そうして、養殖に励むだけ。そうして、エサをもらわないと生きてはいけない人間を増殖させるだけ。 厳しいことを書いていますが、疑問に思われる方は、実際のボランティアをご自身の目で見てみてくださいな。 |
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以下は発行者からの補足文章です。((10年11月7日 追加) | ||
本文において、サディズムの本質は支配欲であり、そして、支配しようとする相手を凝視することにより、自分自身を見つめることからの逃避となっていることについて言及しております。 支配欲という点で考えれば、援助などのアメを使った優しい支配欲も、ムチを使った強圧的な支配欲も、その心理においては基本的には同類となっているわけ。それと同じように、自己逃避状態において、「どこに逃避するのか?」には、大きな違いはないわけ。あくまで「どこから逃避するのか?」という点が重要になるわけです。そして、その「どこから」が、自分自身となっているわけです。ただ、自分自身から逃避しているがゆえに、自分は自分自身から逃避しているという自覚が起きない・・・これは論理的に当然のこと。だから、自分を騙すような行為をして、自分に確認させるようなことをすることになる。 そして、自分を騙すためには、その行為は儀式的で大掛かりな方がいい・・・これは当然のこと。 だからこそ、できるだけ、自分以外の存在を凝視できる大義名分がもっともらしいことが重要になる。 いわゆるイジメ行為を考える際には、まさに道具立てとしての攻撃性・・・まさにムチを使った攻撃性が印象付けられるわけですが、その本質としての支配欲なり、もっと本質としての自己逃避の方が重要になるわけです。 だって、イジメている側に、当人自身にとって本当にやりたいことがあって、周囲の大人も、子供の希望の実現にサポートしている状態だったら、何もイジメ行為などはやりませんよ。 そんなことをやるよりも、自分の好きなことをバンバンやっていった方が楽しいでしょ? それこそ、スポーツでも、漫画を描くでも、あるいは勉強でも、その子供の好きなことは何なの? イジメがそんなに大好きなの? 「ボクは、将来は立派なイジメ人間になりますっ!」と覚悟を決めているの? そんなわけないでしょ? イジメをしている子供は、逆に言うと、自分がやりたいことなり、好きなことがないわけ。 そんな家庭では、子供が何かをしようとすると、親から「余計なことをして親に面倒をかけるな!」と言われるだけ。だからこそ、子供としては家庭内で自分自身を抑圧するようになってしまう。 自分自身を抑圧しているんだから、そんな自分自身について考えることもイヤ。そしてどうしても不満がたまってしまう。 そうなると、まさにその不満の捌け口として、そして、自分自身から目をそらすために、イジメ行為に「逃避」してしまうわけ。 イジメ行為をしている子供に対し、「イジメをやめなさい!」と指導しても効果はない。 それよりも、「アナタたち自身の好きなこととか、やりたいことは何なの?」と聞いてごらんなさいな。きっと回答は返ってきませんから。 あるいは、「アナタとしては、将来は、どんな大人になりたいの?」と聞いて御覧なさいな。 まあ、回答があるとすれば、コレ。 『ふつう』 イジメ行為そのものが問題というよりも、好きなこととか、やりたいことが何もない子供であることこそが大問題でしょ? そして、そんな子供にしてしまっている家庭ということが大問題と言えるわけ。 サディズムも、マゾヒズムも、所詮は表層であって、その本質は自己逃避。 そして、子供を自己逃避にしてしまう、家庭の問題に目を向けない限り、トラブルの先送りは出来ても、事態の解決はありえないわけです。 |
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R.10/11/7 |