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カテゴリー | レポート・手記等に描かれたダメダメ家庭 | |
配信日 | 08年8月29日 | |
取り上げた作品 | 自由からの逃走 (1941年) | |
作者 | エーリッヒ・フロム | |
タイトル | 権威主義 | |
さて、以前にこのメールマガジンで、ダメダメ家庭の人間は権威主義である・・・このことについての文章を配信しております。 自分で考えることから逃避するダメダメ人間は、「何を言っているのか?」には関心を示さず、「誰が言っているのか?」だけに注目するわけ。 誰か肩書きのある人が言っていれば、その見解を盲目的に信じてしまう。 というよりも、自分自身で考えたくないんだから、他者の見解を受け入れるしかない。じゃあ、「その他者と言っても、どんな人の見解を採用するのか?」というと、別の他者が「あの人は立派だ!」と評価されている人のものになってしまうのは、当然のこと。 そうして、その権威者の見解を「学ぼう」とするわけ。 権威主義と「学ぶ」という言葉は、密接に結びついているもの。 実際にカルトの世界では、『学ぶ』という言葉が実に頻発しているでしょ? 宗教カルトとか、政治カルトとか、市民運動のようなものとか、LINUXのような技術カルトに至るまで、カルトと「学ぶ」という言葉は直結しているもの。まあ、ご興味がありましたら、チョットその手の人たちとやり取りして御覧なさいな。スグに「学ぶ」なんて言葉が出てきますよ。だからと言って、その人自身の見解なり課題なりは言おうとしないもの。その手の権威主義者にしてみれば、「学ぶ」ことは、自分で「考える」ことからの逃避なんですね。権威者の言葉を「学ぶ」ことにより、自分で考えることを「縛る」わけです。 権威主義は、自己逃避の精神には欠かすことができないもの。 逆に言うと、この手の権威主義を持っている人は、自分自身で考えることから逃避していて、単に逃避しているだけならともかく、『じゃあ、アンタ自身はどう考えるの?』なんて質問されると、「どうしてそんなことを聞くのよ!キーっ!」と逆上するようになるわけ。 自己逃避している人にしてみれば、「その人の希望」についての質問は、まさに「ワタシを追い込もうとしている!」という被害感情と結びつくことになる。 本来なら、権威者さんの言葉を引用するにせよ「ワタシは現状をこのように認識していて、このように考えております。ちなみに、有名な○○さんも、ワタシと同じようなことを言っているんですよ。」とでも言えばいいだけ。 しかし、権威主義の人は、自分自身の考えがまったくないものなんですね。 権威が主であって、自分自身は従の存在。 つまり権威主義は、自己否定のマゾヒズムの発現の一形態と見ると理解しやすい。 まあ、単に権威を墨守し、権威者を崇め奉るくらいなら、そんな人は放っておけばいいだけ。しかし、自分より高い存在を崇め奉るわけだから、その権威を、自分以外の人も信仰することを要求するようになってしまう。 自己否定の精神を、自分だけでなく他人にも求めるわけ。 自分自身では考えてはいけない・・・そんな発想を他人にも強要することになる。 それこそマルティン・ルターは、「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」と主張しているそう。 あるいは、ルターの別の言葉だと「権威を持った人間がたとえ悪虐で無信仰であっても、その権威と力とは善なるものである。」とも言っております。こうなると、ナチスが言っていることと実質上は同じとなる。 実際に、ルターは領主に反抗した農民を虐殺することを支持しましたよね? こんな精神は、ユダヤ人の虐殺を推し進めたナチスと、心理的には同じであるわけ。 そしてナチスを無条件で受け入れる人々の心理そのものであるわけ。 権威主義は、自己否定のマゾヒズムに根ざしている。 つまり、より問答無用に命令してくれる存在をあがめるようになるわけ。 それこそフロムは「権威主義的性格のもつ勇気とは、本質的に、宿命やその人間的代表者や指導者などが決定したことがらを耐え忍ぶ勇気である・・・彼は権威が強く、命令的であるかぎりそれを信じている。」と記しています。 権威を重んじるので、逆に言うと、権威のない、自分より弱い存在に対しては蔑視するようになる。 それこそルターは貧民を蔑視しましたし、ナチスもいわゆる身体障害者を蔑視したでしょ? フロムの記述だと「ルターは権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時に彼はみずから権威であろうと願い、他のものを服従させたいと願っている。」とありますが、これはそのままナチスにも適用可能ですし、あるいは、21世紀のボランティア団体や市民団体も、まさにそんな行動をしているでしょ? フロムによると「権威主義的性格には、権威に挑戦し、『上から』のどのような影響にも反感を持つ傾向がある。」とのこと。 それこそ、「君が代」、「日の丸」への対抗心を主張する人は、大衆を蔑視しているものでしょ?本来なら、「君が代」なり「日の丸」がそんなにキライなら、放っておけば済む話だし、もっともっとキライなら、別の国に移住するのが潔い態度ですよ。 上からの権威には反抗して、自分よりも下にある存在には、侮蔑のまなざしを向ける。だからと言って、「じゃあ、自分自身はどうしたいのか?」そんな思考には至らない。 権威にこだわることによって、自分で考えることから逃避できてしまうわけ。 自分で考えることから逃避していて、自分の希望がないので、その視点は未来には向かわない。 フロムの言葉を使いますと、「権威主義的性格にとっては、・・・・行動は、決して未来の、まだ生まれていないもの、力のないもの、人生そのものの名における行動とはならない。」「権威主義的性格は過去を崇拝する。」ことになる。 このような権威主義的性格は、ルターとかナチスとかの政治の方向性の問題というよりも、その心理の根底にある自己否定の精神から来ているわけ。 だから、いつの時代にも存在するわけです。ただ、時代が大きく動く際には、それが大きな運動となってしまう・・・そのことに注意が必要になってくるわけです。 実際に「弱い存在に対していきり立ってくる」という権威主義的な性格が、イジメなり、つるし上げに向かってしまうのは自明でしょ? 権威主義的な人間は、自分を否定しているんだから、そんな人が他者を肯定するわけがないじゃないの? 権威は肯定しても、他者は肯定できない。 自分のスグ上の権威は否定したがるけど、その上の権威は愛してやまない。 ナチスも、あるいは日の丸反対運動家も、あるいは韓国人も、まさにそんな感じでしょ? 自分の価値を、他者との『関係性』に求めるしか能のない人間は、自分の価値を与えてくれる「権威」を求め続けるわけ。しかし、所詮は、自分自身を自分の言葉で語れない・・・つまり自己逃避の精神に過ぎないわけです。 そんな人がダメダメ家庭を作るのは当然ですし、規模が大きくなると、問答無用の独裁を求めてしまう。 逆に言うと、問答無用であるほど、つまり権威者然としている存在であればあるほど、そんな支配者から「与えられる」満足感は大きいことになる。それだけ、自分について考えなくてもいいわけですからね。 自分が考えなくてもいい状態を与えてくれる存在を待ち望む・・・そんな人は、まさに権威主義的なキャラクターであるもの。近くにいるとホント迷惑な存在なんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 ちなみに、この手の権威主義的な人間が、よく使う単語が「べき」というもの。 何を言うにせよ、「○○すべき!」なんて調子になるわけ。 本来ならそのように問答無用な物言いだと、不快さを感じるものですが、権威主義的なダメダメ人間は、その問答無用に命令されるがゆえに、マゾヒズムが満足されてしまう。 「べき」なんて物言いをする人間も、そんな物言いを喜ぶ人間も、結局は同類であって、まさに問答無用な家庭を作る人たちなんですね。 |
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R.10/12/13 |