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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 08年9月3日 (10年10月4日 記述を追加)
タイトル 修羅場の発想
このメールマガジンでは、たびたび修羅場なんて言葉を使ったりしています。
そもそもダメダメ家庭の人間は、「人に入れ込んだり」「人から入れこまれたり」して、人との関係が必要以上に濃密になってしまうことが多い。
ダメダメ家庭の人間は、会話の能力がないので多くの人とやり取りができるわけではない。「アンタのことを分かってあげられるのはワタシだけ!」「オレのことをわかってくれるのはオマエだけ!」なんて形で、人間関係において、どうしても「抜き差しならない」修羅場になる可能性が高いわけ。

しかし、何も修羅場というものは、そのような「入れ込み」「入れ込まれ」・・・いわゆるストーキングとかクレーマーとかの血を見るような領域のみで発生するわけではありません。仕事だって家庭の中だって、発生したりするもの。
「ああ!修羅場だよ〜」なんて、皆さんも言ったりすることもあるのでは?

そんな修羅場は、別の言い方を使うと、このような言い方ができるのでは?
「弁解が通用しない状態。」

修羅場においては、弁解や言い訳などは通用しない。
むしろ「最低限、これだけはやりとげる!」そんな覚悟が必要になってくる。
そう言えるでしょ?
修羅場というものは、まさに多くの事情とやらが、錯綜してきてしまってニッチもサッチも行かない状態。だからこそ、「その他大勢」はこの際は、後回しにして、「これだけは!」と言うものに全力を注入する。対処のプライオリティを考え、一点突破で打開していくしかない。
修羅場というものは、そうやって対処するしかありませんよね?

仕事が立て込んでいる状態においても、育児でてんてこ舞いの状態でも、人からストーキングされているような切羽詰った状態でも、あるいは、夏休みの宿題が片付かないピンチでも、修羅場になったらキレイ事など言っていられないでしょ?

自分にとって一番重要なことは何なのか?
そのことを早めに決めて、それを実行していくしかないじゃないの?
そして、それ以外のことは、とりあえず、後回して、まずは一つに集中する。

逆に言うと、そんな「自分にとって一番重要なことは何なのか?」そのようなことを、修羅場だけでなく平時においても考えるようにする・・・そうすれば、現実的に修羅場にはならないものですよ。

ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。「ふつうでいいや!」という言葉に逃げ込み、確たる目標もなく、自分でやり遂げたいものがないわけ。何か不都合なことがあっても、自己弁護を繰り返すばかり。
自分がやり遂げたいものがないがゆえに、そして自己弁護ばかりしているがゆえに、ちょっとしたトラブルに対しても何も対処せず、事態が悪化してしまい、実際に修羅場に陥ってしまう。
そして修羅場という弁解が通用しない状況においても、結局するのは弁解ばかり。
「ワタシは悪くない!」
「悪いのは全部○○のせいだ!」
「ワタシには、こんな事情があって・・・」

本来は、そんな弁解が通用しないのが、修羅場というものなんだから、修羅場でそんな弁解をされても、周囲の人間が思っちゃうのは、いつものお約束。
「で、アンタ自身は・・・いったいどうしたいの?」

もちろん、人間がやりたいことの全部ができるわけでもありません。しかし、だからこそ「これだけは絶対にやり遂げたいこと」について日頃から考えておいてもいいんじゃないの?
そんな修羅場の発想が、日常生活にも役に立つし、逆に言うと、修羅場に陥るのを防いでくれるのでは?

それこそ、「あと1年の余命としたら、何をするのか?」

そんなことを日頃から考えてもいいのでは?そこから見えてくるものもあるわけでしょ?
人とやり取りすると感じるのですが、修羅場をくぐった人の言葉には重みがある。弁解が通じない世界をくぐっているので、言っていることがシンプルなんですね。そもそも修羅場では多くのことができないから、行動もシンプルにならざるを得ない。

「すべての人を敵に回しても、やり遂げたいものは何なのか?」
そんなことを考えている人ほど、現実には敵が少ないもの。
だって、そんな人は行動原理がわかりやすいので、周囲の人も、その人について理解しやすく、見通しやすいわけ。
その行動原理と相容れない人は、さっさと離れてしまうわけだから、敵になるわけではない。ダメダメな人は、「てきとう」に周囲に合わせての行動をするから、周囲の人も適切な距離をとることができないので、結果的に不快感を持つようなことになってしまう。ダメダメな人は、減点法であるがゆえに、つまり「いったい自分は何がしたいのか?」当人自身にとってもわかっていないがゆえに、行動に一貫性がなく、ゆえに周囲の人は不安に思ったり、不満を感じたりして、ヘタをすれば敵になってしまう。

以前より書いておりますが、ダメダメ家庭の人は「いい人」志向がある場合が多いもの。まさに「顕著な欠点がない」、つまり「減点が少ない」状態になりたがる。だから、発生したマイナスに対して、反応することになる。つまり、言い訳というか弁解傾向が強いわけ。だからこそ、トラブル状態になっても、「ワタシはこうしたい!」という宣言ではなく、するのは「ボクは悪くない!」という言い訳だけ。だから、事態がどんどんと悪くなり、実際に修羅場になってしまう。

結婚相手を選択する際にも、「最後には、あの人はどうするのか?」。そんな視点から見えるものがあるわけ。何かをやり遂げるというプラス方向に行動する人なら、それが家族を捨てて趣味を取るという選択でも、現実的には上手くやっていける。だって肝が据わっていて行動原理が明確なので、現実的には修羅場にならない。
しかし、最後まで弁解ばかりという人は、状況が悪くなっても、「オレは悪くない!」「悪いのはオマエのせいだ!」と弁解や非難で状況を乗り切ることしかしない。だから現実的に修羅場になってしまう。

「最後の最後には、オレは家族よりも趣味を取ると思うなぁ・・・」なんて言っている男性がいるとしましょうか?そんな人は、家族にとっては、意外にもマトモであったりするわけ。だって、それだけ肝が座っているので、事態が悪い方向に転落していくことは少ないわけ。だから現実的には「最後の最後には・・・」なんて状態にならないわけ。

むしろ、いつも「いい人」の方が危ないもの。
そんな人は、事態が悪くなると、弁解のオンパレード。だから本当に「最後にはどっちを取るの?」なんて事態になってしまう。そんな状態になっても、やっぱり「いい人」なので、各方面に配慮して何も決められず弁解ばかり。結局はドッカーンとなってしまう。

先日の福田総理の辞任表明ですが・・・
福田さんも、その前任の安部さんも、ある意味において、実に「いい人」なんですね。
だから、トラブルになると、出てくるのが言い訳だけ。
実際にそんな感じでしょ?

まあ、彼らにしてみれば、それまでは、言い訳をしていれば、周囲が何かしてくれる環境だったわけでしょう。
それはそれで結構なこと。
だから、彼らには修羅場に対する嗅覚がないんですね。
言動にシンプルさがないわけ。

修羅場の発想がないからと言って、これ即ちダメダメと言えるわけではありませんが、修羅場の発想がないと、結果的に周囲の人を修羅場にしてしまう・・・それが現実。
実際に、安倍さんの時も、福田さんの時もそうなっているでしょ?

ダメダメ家庭の人間は、現実に修羅場に陥ることが多い。
なぜって、当事者意識がないダメダメ家庭の人間は、弁解が通じない「修羅場の発想」を持っていないから・・・
逆説的ですが、そんなものでしょ?

そして、いい子ちゃん志向のダメダメ人間は、いざ実際に修羅場になってしまうと、各方面に配慮して右往左往するばかり。
絡み合った縄を一刀両断するようなアレクサンダー風の蛮勇もない。

しかし、逆に言うと、修羅場の発想を持っていて、シンプルな視点で物事を見る人間というのは、弁解ばかりしているいい子ちゃん志向の人間にはジャマくさい。
絡み合った縄を見ながら「あーでもない、こーでもない」と言っていればいい状態だったのを、一刀両断されてしまうわけだから、扱いにくい存在といえるわけ。
それまでは「あーでもない、こーでもない。」「諸般の事情があって、できない。」と言っていればよかったのに、そんな、とっておきの事情を説明すると、「バッカじゃねーの?」「きれいごとを言っている場合かよ!」と呆れた顔をされてしまう。

だから、結局は修羅場の発想を持っていない人間が集まることになり、言い訳で共鳴するばかりで、トラブルに対して何も対処しないまま。
逆に言うと、お互いがそんな調子なんだから、そんな状態に「居心地の良さ」を感じる同類が集まってくるわけ。

前にも書いておりますが、その状況が悪ければ悪いほど、一点突破するしかないでしょ?
諸般の事情を切り捨てる蛮勇なり業も必要ですよ。

しかし、減点法のいい子ちゃんは「業」を背負ったりはしない。
どうしても達成したいものがあるわけではないんだから、そのために何かを切り捨てるという業の価値もわかりませんよ。「業」を背負う覚悟がなければ、そんな立場に就かなければいいのに、何も考えずに、その立場に就いてしまう。

そのようなことは、国家の指導者でも、家庭の運営にあたっても同じでしょ?
国家の運営にあたっても、業を背負う覚悟が必要だし、
家庭の運営にあたっても、業を背負う覚悟が必要ですよ。

有名なイタリアのマキャベリは、何も権謀術数の礼賛ではなく、その「業を背負う覚悟」の問題を指摘しているわけです。

しかし、いい子ちゃん志向のダメダメ人間は、修羅場の発想がないがゆえに、面倒なことから目をそむけ、きれいごとを連呼するばかり。

ダメダメな人間は、一緒になってきれいごとを連呼していればいいという状態の方がラク。
だから、対処可能な小さなトラブルから目をそむけ、相変わらずのきれいごとを並べ、事態に何も対処せず、実際には修羅場になってしまう。

そして、そんな反省を踏まえ、今度は修羅場の発想を元に行動すればまだしも、また同じように言い訳連呼のいい子ちゃんのままで、また同じような修羅場になってしまう。
進化したのは将来への見通しではなく、言い訳のテクニックだけ。
言い訳のテクニックが進化しても、トラブルの予防や事態の改善には何も役に立たないのは子供でもわかること。
そうして、やっぱりトラブルになって「ああ!どうしてこんなことに?!」と大仰に嘆くことになる。

しかし、周囲の人は、嘆いている人を、「で、あの人は、結局は何がしたいの?」と呆れて見ている・・・そんなことがあったりするものですよね?

(終了)
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発信後記

この文章も、基本的には1年以上前には出来上がっていました。
今回ちょっと文章を追加した次第です。

「いい人」というものは、逆に言うと、所詮は「いい人」とまり。
そんな「いい人」は、自分の「いい人認定」を守るために必死だったりするもの。
だから、その「いい人認定」が崩れると、対処ができないわけ。
それこそ先日の福田さんの辞任会見のように、言い訳に終始し、不貞腐れ、捨てセリフを残して去っていく・・・なんて、時代劇のチンピラそのものになってしまう。

そのような「いい人」は、結局は周囲を不幸にしてしまうもの。
そういえば、北京オリンピックでの野球の監督の星野さんも、まさにそんな感じ。

その手の人は、「空気は読める」けど、人の言葉が判らないわけ。目の前の人とのなんとなくのやり取りは可能だけど、顔の見えない人との間で、言葉を使っての明確なやり取りができない。
だから、どうしても自分と情緒を共有できる間柄だけでやろうとしてしまう。
だから結果を出すことができず、結局は、周囲の人に幸福をもたらさない。

本文中にも書いていますが、この修羅場の発想がないからといってダメダメというものではありませんが、「これだけは!」なんてものを持っていないと、行動の軸がブレてしまう・・・そんな人がトップにいると、本当に修羅場になってしまうものなんですね。
R.10/10/4