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カテゴリー | ダメダメ家庭出身者のキャラクター |
配信日 | 08年9月17日 (10年12月18日 記述を追加) |
タイトル | ムダに我慢強い |
ロシアの作家のチェーホフの戯曲に「かもめ」という作品があります。 その中でニーナという女優志望の女性が言うセリフがあります。 そのセリフは、 『そうよ!忍耐が大切なの!』 というもの。 さて、このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の問題を考える際には、「似て非なるもの」に注目するとよく理解できる・・・そんなことを書いたりしています、 「忍耐」と似ているのは、「がまん」。 まあ、一般的には、同じ意味として使われたりしますよね? じゃあ、上記のニーナさんのセリフの「忍耐」という言葉を「がまん」という言葉に置き換えたら? 「そうよ!がまんが大切なの!」となります。 まあ、意味は近いけど・・・なんだか、寒中とか暑い中の我慢大会のような雰囲気ですよね? 「忍耐」となると、何かを「し続ける」・・・そんなニュアンスを感じるでしょ? それに対し、「がまん」となると、首を引っ込めて、とにかく、「そのまま何もしない」・・・そんな雰囲気になりますよね?「我慢大会」の時には、参加者は、何かアクションをしているわけではないでしょ?ただ、じっと我慢・・・そんなものですよね? それこそ、世の中には「忍耐強くやり続ける」という物言いがあるでしょ? しかし、その「忍耐」を「がまん」という言葉に変えると「がまん強くやり続ける」となり、なんとなくしっくり来ない。 ダメダメ家庭の人間は、ある意味において、がまん強かったりするもの。周囲の人間は助けにならないと思っているので、辛い状況にも耐えることはできたりするわけ。 しかし、耐えることはできても、だからと言って、何かを達成することができるというものではないでしょ? さて、上記の「かもめ」という戯曲におけるニーナさんのセリフで、もっと有名なものというと、例のアレですよ。 『ワタシはかもめ。』 このセリフはソ連の宇宙飛行士も言ったのでは? 宇宙飛行士の方がどんな意味で使ったのかはわかりません。しかし、「かもめ」の中のニーナさんは、「ワタシはかもめ。」というセリフで、「地に足がついてないで、フワフワとしている自分」を表現したわけです。 夢ばかり追っていて、地に足が着いていない・・・まさに「恋に恋する」状態。 「ああ!ワタシって、まるで、かもめと一緒じゃないの?!」 女優になりたいと思っていても、その目的を達成するためには、地に足が着いた地道な努力が必要でしょ?演技でも発声でも、あるいは基本的な知識においても、地道な努力が必要ですよ。 自分が掲げた目的を達成するために、強い意志を持って、努力し続けないとね。 そして、目標を達成するために努力し続けるのは、「がまん」ではなく「忍耐」という言葉が適切でしょ? 逆に言うと、じっとして苦難に耐え忍ぶことは、忍耐ではなく、がまんに近いのでは? ここで、言語の定義の問題を議論するつもりはありませんヨ。 ダメダメ家庭の人間は、被害者という状況をがまん強く耐えることは、意外にもできるわけ。むしろ、そんな状況を喜んでしまう。だって「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と言えるでしょ? 困難な状況から逃げ出さずに、耐え忍ぶ・・・それは立派とも言えますが、別の面から見ると、未来への展望がないとも言えるわけ。 以前に書きましたが、引き返す勇気がないというだけ。 忍耐は自分の意思や目標がないとできないけど、がまんは自分の意思や目標がなくてもできるでしょ? むしろ、自分の意思を押し殺すことで我慢することもできてしまう。 あるいは、忍耐は未来への展望があって、我慢は未来への展望がなくてもできるもの。 ドメスティック・ヴァイオレンス状態において、夫からの暴力を我慢しているのは、その女性に精神力があるからではなくて、未来への展望がないことが大きなファクターであることが多いもの。 それこそ、「まっ、どうせ、何をやってもムダだわ。」そんな諦めの境地が我慢に通じているわけでしょ? 何もドメスティック・ヴァイオレンスのような事態にならないまでも、まったく会話のない夫婦を我慢し続けることはできても、それを改善するために、自分なりに対処することはしない。不快な状況をがまんしても、事態の改善のためい配偶者に対して忍耐強くアクションをしていくことはしない。そんな人が、何も考えずに、子供を作ってしまう。 そして、できた子供に対して、「人生は諦めが肝心だ!」「まっ、オマエは何をやっても、どうせダメだ!」あるいは、「あ〜あ、生きていても何もいいことはないわ!」とグチることになる。 せめて、そんなグチを子供に対して言うことこそ我慢すればいいのに、グチを言うのは我慢しないわけです。 ちなみに、チェーホフの「かもめ」は、ダメダメ家庭を舞台にしています。まあ、チェーホフのほとんどの作品は、そんな面が強くありますが・・・ その「かもめ」では、大女優の息子が、自分の存在価値を認めさせようとして戯曲を書いて、色々ともがいて、結局はピストル自殺となってしまいます。 女優の息子さんが、精神に失調をきたして転落していく・・・って、21世紀の日本でも、実際にありましたよね? まあ、例の彼もそのうち自殺でもするんでしょうか? あの女優さんだって、「かもめ」なんて有名な作品くらいは知っているでしょうから、まあ、この先どうなるかなんて本音では分っていますよ。分っていて、突き進んでしまう・・・それが芸術家の業というもの。 芸術作品を作るにも、あるいは、一般的な形で生きるにせよ、目標を掲げ、忍耐を持って、努力し続ける・・・ そうでないと、運命の歯車に押しつぶされるだけ。 ホント、お説教でも何でもなく、何より自分自身のために「忍耐は大切」なんですね。 そのためには、我慢強い精神以上に、未来への展望が必要になるわけ。 未来への展望がない我慢は、単なる自己否定状態に過ぎなくなってしまう。 別のところで取り上げましたエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の中で「権威主義的性格のもつ勇気とは、本質的に、宿命やその人間的代表者や指導者などが決定したことがらを耐え忍ぶ勇気である・・・彼は権威が強く、命令的であるかぎりそれを信じている。」と記しています。 誰か別の人が決定したことに従い、耐え忍ぶことは、ダメダメ家庭の人間には得意なこと。 しかし、自分の掲げた目標を、忍耐強くやり続けることはダメダメ人間には難しい。 未来への展望がないダメダメ人間は、ムダに我慢強かったりするもの。皆様の周囲にも、そんな人っていたりするでしょ?そんな人は、その我慢強さゆえに、周囲から「あの人は立派だ。」なんて言われたりすることもありますが、かと言って、その人が達成したものはない・・・そんなものでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 本文中で、ロシアの作家のチェーホフに言及しております。 ロシアの作家は、トルストイとかドストエフスキーとか、やたら長大な作品を書く人もいたりします。 しかし、チェーホフは、どっちかというと、短編ばかり。 チェーホフというと、最後の4つの戯曲「かもめ」「ワーニャおじさん」「3人姉妹」「桜の園」が、有名ですが、ちょっとした短編も実に味わい深い。 たとえば「犬を連れた奥さん」なんて、ゆっくり読んでも30分くらいで読める作品です。 テーマとしては、「ほんとうの自分自身、そして、ほんとうの愛に気がつく。」というよくあるテーマですが、皆さんも読んでみては? 私が最初にその「犬を連れた奥さん」を読んだときは、あまりに陶然となって、本から空に向かって7色の虹が沸き立っているような気がいたしました。 その「犬を連れた奥さん」は、まだ救いがありますが、戯曲の「ワーニャおじさん」は、実にシビアー。しかし、最後のソーニャのモノローグは号泣モノですよ。 ダメダメな人を見たりすると、心が荒んでくるものですが、偉大な芸術家の渾身の作品によって、適宜、自分自身に立ち返る・・・そんなことも必要になってくると思うんですよ。 |
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R.10/12/18 |