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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 08年9月24日 (10年10月22日,10年11月1日 記述を追加)
タイトル 苦手意識
スポーツの世界では苦手な相手と言うものが存在したりしますよね?
他のチームと戦った場合には、コッチが勝つのに、決して強いとは言えないあのチームとやると、どうも分が悪い。
だから、あのチームとやるのは苦手だ・・・

そのような苦手意識は、わかりやすい。何と言っても数字で出た結果なんですから、説得力十分ですよ。
しかし、数字で表すことができる勝負の世界だけでなく、感覚的というか心情的な面でも、この手の苦手意識ってあったりしますよね?

あの人の相手をするのは、どうも苦手だ!
あの場所は、どうも苦手だ!

ここで注意する必要があるのは、「苦手」と「嫌い」とは違うということです。
「嫌い」という感情は、ある種の判断の結果でしょ?
「あの料理は、ピーマンが使われているから嫌い。」
「あの人は、あの考え方が捻じ曲がっているから嫌い。」
「このメールマガジンの文章は、過激なことが書いてあるから、嫌い。」

こんなものですよね?
「これこれだから → 嫌い 」
となる。

じゃあ、苦手のケースは?

「あの人は、どうも苦手だ!」
あるいは、
「このメールマガジンの文章は、なんだか、痛いところを突いてきて、苦手だなぁ・・・」
そんなものでしょ?

それはいいとして、具体的にはどんな点が苦手なの?
「これこれだから → 苦手だ 」
「この部分の記述が不適切だから → 苦手だ 」
と言った形の具体的で明確なロジックには、なりにくい。

重なることも多くありますが、「嫌い」と「苦手」では、そんな違いがあるもの。

じゃあ、どうして苦手なの?
苦手というものは、その種の判断からの逃避が伴っているケースが多いわけ。
「何となく・・・苦手だ。」
そんな物言いがあったりするでしょ?

何となくも何も、せっかくだから、どうして苦手なのか?自分なりに考えればいいのでしょうが、具体的な各論では考えることができない。そのように思考停止をもたらす相手・・・それが苦手な相手・・・そんなものでは?

嫌いなら、嫌いで、そのように判断して、あとは、その嫌いな人を避ければいい話。
しかし、苦手というものは、その判断自体を避けるので、逆に言うと、その苦手な相手を避けることにはならない。
しかし、やっぱり心理的なプレッシャーは感じる。まあ、だからこそ苦手なんですが・・・

嫌いと判断したのなら、その人を避けることになり、逆に言うと、それ以上悪化することにはならない。
しかし、「なんとなく苦手」ということで、判断から逃避してしまっているので、その付き合いはダラダラ続いたりする。結局は、心理的なプレッシャーが蓄積されてしまう。
そのプレッシャーの蓄積が限界点を超えると、ドッカーンとなってしまう。

嫌いな人と判断できれば、対処は可能ですが、「な〜んとなく苦手」のまま、判断を先送りするような状況になると、出口を塞いでしまって、ドッカーンの危険があるわけ。

「嫌い」という感情は、ある種の判断の結果といえます。
どのように判断しても、それはその人の自由だし、その判断に基づいて次なるアクションにつなげていけばいいだけ。まあ、現実的には距離を取ればいいだけですよ。
しかし、判断することから逃避して、つまり心理的な距離感が確定できない・・・それが苦手というもの。

そもそもダメダメ家庭の人間は、過度のいい子ちゃん志向があり、「人を嫌う」自分であることを認めたくない。マイナスを認めたくないものだから、心理的な距離感が確定できないわけ。
心理的な距離感が確定できないがゆえに、やり取りをすると、トラブルになってしまうのは当然のこと。

あるいは、マイナス状態を認たくないものだから、「今回のやり取りは不調だった。」「やり方を間違えた。」というような、失敗そのものを認めようとはしないわけ。
失敗と認識していないわけだから、結局は、失敗したやり方を繰り返すことになる。
そうなると、更に失敗し、やり取りの相手方から、より大きなプレッシャーを受けることとなり、そのプレッシャーによって、より大きな思考停止になってしまう。

ダメダメ家庭の人間は、そもそも自分で考えないので、自分の目で現実を見ることはない。
自分が「与えられた」フィールドでの役割を、いわばマニュアルに従って何も考えずにこなしているだけ。だからこそ、その自分のフィールドで対処できない人間に遭遇すると、苦手意識を持ってしまう。
自分で現実を直視して、自分で考えて、自分のフィールドを拡大していけば、本人も成長できるわけですが、ダメダメ人間はそんなことはしない。

あるいは、心理的な距離感が確定できなくて、当人自身として「避ける」という判断から逃避しているがゆえに、「判断するのは相手側だ。」と認識してしまう。
判断するのは相手方と認識してしまうと、そんな相手とのやり取りにおいてトラブルになってしまうと、それは「判断を受け持つ側」と言える相手方の責になってしまうわけ。

それこそ、読み手にとっての苦手意識につながりやすい、この私の文章ですが、まさに「どうしてこんなメールマガジンを発行しているんだ!」というクレームの文句になってしまうわけです。「嫌い」とか「不快」だから、購読解除すればいいだけ、しかし、当人に、そんな判断ができない状態となってしまう。それがまさに苦手というものでしょ?

何度も書きますが、「嫌い」なら嫌いでいいわけ。
苦手のままでとどまっているのが危険なんですね。

このメールマガジンの文章を苦手と思うくらいなら、まあ、ネタで済むでしょう。
クレームの文句を、この私に書き送るくらいなら、クレームを受けた私にしてもネタにできる。
しかし、「嫌い」という判断に至ることができず、心理的な距離感を確定できない人は、同じトラブルを繰り返すことになる。
だって、都合が悪くなると思考停止になるわけですからね。
当人がトラブルを繰り返すばかりではなく、その人の親がやっていた行動を繰り返すことになる。何と言っても、思考停止なんだから、考えなくてもできてしまう「なじみ」の流儀で行動してしまいますよ。そんななじみの流儀とは、まさにその人の親の流儀。
そうやって、苦手意識が連鎖し、思考停止が習慣化し、結果的にダメダメも連鎖することになる。

それこそ、自分の父親に対する苦手意識があって、それを嫌悪感と自覚していない状態だと、自分の父親以外の別の男性をつるし上げて喜ぶようになってしまう。
まさに自分の父親については思考停止なので、その周辺部の存在だけを見つめるわけ。
しかし、そんなことでは当人には何も得るものがないし、周囲の人も、そのような現実逃避のダメダメ人間ばかりになってしまう。そして、そんな同類のダメダメ人間とのグチの共有があるだけになり、事態が更に悪くなる。
何度も書きますが、「嫌い」なら嫌いでいいわけ。フィックスできないがゆえに、トラブルは起こってしまうもの。

前にも書きましたが、このサイトの文章は読み手にとって苦手に繋がりやすい。
まさに「触れられたくない」面を、いわば露悪的に記述している文章なんですからね。
結果的に、読んだ人間の思考停止につながりやすいわけ。
このような状況は、今回のテーマである「苦手」という言葉以外にも、たとえば「気持ち悪い」とか言われたりすることもあります。

「気持ち悪い」との感情面からの感想を持つこと自体は、別にいいんですが、「じゃあ、記述内容は適切なの?」、あるいは、不快だと思うのなら、「どの点が不適切なの?」そのような問題になるでしょ?
しかし、「気持ち悪い」という言葉を持ち出すことにより、具体的な各論を考えることから逃避するわけです。
逆に言うと、それだけインパクトがあったわけ。
インパクトがなければ、「気持ち悪く」もなりませんよ。

その手の人は、それまでは「オレ様が読んでやる!」というスタンスに立つことができる程度の低いものしか対象としてこなかったので、内容のあるものには対処できないわけ。
だから自分で考えるということができない抑圧的な人間は、「気持ち悪い」という言葉を使って逃避してしまう。
各論で反論することができないので、そのような概括的で感情的な否定形となっているわけです。

今までにない視点を提示されれば、人は落ち着いてはいられない。
落ち着いて読める文章なんて、前からわかっていたことを再確認しただけでしょ?
まあ、凡人とはそんなもの。芸術鑑賞と言っても、今までにない視点を受け入れることはしないわけ。そのような凡人の性質については、このサイトで触れております、イェリネクさんにもチェーホフにもそんな記述があります。
あるいは、これも頻繁に言及しておりますが、イタリアの映画作家のフェデリコ・フェリーニは、「ボクはボクの映画で観客をザワザワさせたいんだ!」と言っていました。
ザワザワって、まさに気持ち悪い状態。まあ、この私の文章を読んで「萌〜」なんて一つ覚えの感想で済ますわけにはいかないでしょうしね。
規格品的な娯楽しか接してこなかった人は、規格外のものと接するとちょっとしたパニックのようになってしまうわけ。

まあ、最初はそれでいいでしょう。しかし、「気持ち悪い」と言っているだけでは、所詮は先送りでしょ?ちょっと落ち着いた後になって具体的な各論で議論できるか?
それがその人のダメダメさを表しているもの。
ダメダメな人は、各論では何も考えることができず、常に感情次元の評価をして、具体的な各論は常に先送りなんですね。

だから、先送りの宛先がなくなってしまえば、当人自身が追い詰められ、ドッカーンとなってしまう。

今までなんとなく、「ふ・つ・う」に付き合っていた人が、突然にキツクあたってくることってあったりしますよね?
それって、このような苦手認定で判断を回避し続けて、それが限界点に来た結果なんですね。
これ以上、先送りできない状態になって、逆上する・・・そんなシーンを実際に体験された方もいらっしゃるでしょ?

人から嫌われても、要は避けられるだけなので、それで済むわけですが、人から苦手と思われてしまうと、避けられることもなく、トラブルになってしまう。
人を嫌ったり、あるいは人から嫌われたりすることは、おめでたい話とは言えませんが、「嫌い」という感情が確定できれば、それ以上は悪くはならないもの。嫌いという自分の感情を認められないからこそ、そして、そこから逃避するからこそ、苦手意識が抜けきれないわけ。

苦手にとどまっていると、カタストロフに至りやすいものなんですね。
苦手意識とか「気持ち悪い」とかの感情は、まさに爆発前の溜め込んでいる状態といえるわけ。「気持ち悪い」理由をちゃんと理解できれば対処ができるわけですが、そのまま突っ走ってしまって爆発すると、別の意味で気持ち悪い状態になってしまう。
そんな事件は実際に多いでしょ?

(終了)
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発信後記

福岡県で、自分の子供を殺害した母親の事件ですが、来週にも、それに関連したお題を配信しようと思っております。
色々な切り口が可能なのですが、今回の「苦手意識」と関連した切り口で文章をまとめる予定です。週末にでもまとめようと思っています。
今回の「苦手意識」も、それをアタマに入れておくと、あの事件も、理解しやすいでしょ?

ちなみに、今回の事件を受けての、ご近所の方のコメントに、
「地域の人に相談すれば助けられたかもしれないのに。」
というのがありました。
犯人の父親のコメントは、
「最悪の結末。どんな事情があっても、わが子を手にかけることは許されない。殺す気になれば、どんなことでも出来たはず。」
というもの。

この「差」が、まさに今回の事件の本質なんですね。
事件を起こす家庭の親は、事件後に「そんなに困っているのなら、どうして親であるワタシに相談してくれなかったのか?」などとは決して言わない。何かあると、自分の被害者意識が刺激されるだけ。

だからこそ、切羽詰ってドッカーンとなってしまう。
このメールマガジンで、飽きるほど頻繁に触れている「流れ」ですが、まさに、いつもこの通りでしょ?
だからこそ、それを認識し、的確に対処する必要があるわけ。
「悪いのは親のせいだ!」といっても、刑務所に入れられるのは、ダメダメな親ではなく当人。
だから自分で判断するしかないわけ。
R.10/11/1