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カテゴリー 事件の前
配信日 08年10月10日 (10年6月23日,10年11月16日 に記述を追加)
タイトル 手がける困難、達成する困難
以前にこのメールマガジンで「努力のための努力」というお題で配信しております。
ダメダメな人は、自分なりの目標を掲げ、その目標を達成するために、「石にかじりついてもやり遂げるんだ!」なんて、強い意志を持って事に当たる・・・と言うよりも、周囲に対してウケがいい活動を人に見せながら、「な〜んとなく」の、腰の入っていないフィーリングで取り組み始め、「ああ!こんなに努力しているワタシって、なんてスバラシイの?!」「みんなもそう思うでしょ?」と自画自賛し、周囲に対して「いい子アピール」しているだけなんですね。

その代表例が、このメールマガジンにおいてレギュラーに取り上げておりますボランティアの連中です。ちなみに、以前にも書きましたが、ここでのボランティアは、いわゆる被害の発生現場に赴く人を指しております。たとえばマラソン大会での会場ボランティアのような「お手伝い」をやっている人を指してはおりません。
マラソン大会の参加者は基本的には「好き」参加しているわけでしょ?いわば趣味の領域ですよね?走っている人は、たとえシンドイ思いをしても、それを被害とは認識していないでしょ?だから、そんなイヴェントの手伝いをするボランティアも、趣味といえるでしょう。本人たちが楽しんでいるのなら、それでOKですよ。

しかし、それこそイラクに行ったりとか、あるいは家庭内暴力のボランティアなどは、趣味とは言えないでしょ?あのような「被害者vs加害者」の構図があるところに出かけていく人間は、被害者と一緒にグチを言い合いたいという心理があるわけ。その場で、自分より下の存在を確認し、「ああ!下には下があるわ!」と思って、自分を納得させようとしているわけ。

そんな動機なので、ボランティアの活動によって、事態が好転したことってないでしょ?
だって、「被害者」と一緒になってグチを言うことそれ自体が目的なんだから、被害者がいなくなっては困るわけです。

とは言え、自分以外の人をサポートするというのは、周囲に対しては「とおりがいい」。まさに人からは誉めてもらえることになる。
それに対し、自分を向上させようと一人でがんばっている人に対し、周囲の人は、誉めてくれない。もちろん、「周囲の人から誉められるために、自分を向上させよう。」と思っているわけではないんだから、その点は構わないでしょう。
成果なんて、まさに自分自身の内面そのもの。

自分自身を助けるのか?あるいは向上させるのか?
あるいは、他人を手助けするのか?

「どっちが価値があるのか?」という問題は、人それぞれの判断でしょう。
しかし、どっちが簡単だと思いますか?
自分自身を向上させることと、他人を向上させること。
さあ!どっち?

常識的に考えて、自分自身を向上させることの方が簡単であることは誰だってわかること。
そもそも、自分自身のことはよくわかっている。それに自分の力で何とかなる。一番身近でよくわかっている存在である自分自身を何とかできないような人間が、そもそも他人を手助けできるわけもないじゃないの?
このような考えは、達成しやすさ、結果の得やすさという点からの考察です。成果なり結果を得ることにおいては、他人の問題を考えることよりも、自分の問題に取り組み、自分を向上させる方がラクなのは誰でもわかること。

しかし、最初に書きましたが、ダメダメ人間は成果を達成するための努力ではなく、努力のための努力に満足してしまう。
現実的には、「自分が求める成果が何なのか?」「どんな状態に到達したいのか?」その点を考えていない段階で取り掛かってしまうこともあるんですね。

「成果を得る」という『ゴール地点』に焦点を合わせた場合においては、自分の向上に取り組むことの方がラク。
しかし、「手がける」という『スタート地点』に焦点を合わせた場合においては、他人の問題を手助けすることの方が、はるかにラクですよ。

だって、他人の問題だったら、結果的に失敗しても構わないわけでしょ?自分とは違う人の問題なんだから、結果がどうなろうと、基本的にはどっちでもOKですよ。事態がまずくなったら、トンズラすればいいだけ。
自分自身の問題だったら、結果こそが重要だし、いざとなっても逃げ出すわけには行かない。
これは心理的には大変なプレッシャーですよ。それは、心が弱いダメダメ人間にはできないこと。だからダメダメ人間は、いざとなったらスグにトンズラできる、そして結果がどうなっても構わないと言える他人の問題を手がけようとするわけ。

本来なら、一番よくわかっているはずの自分自身の問題に真剣に向き合って、少しでも前進したのなら、その体験談でも語れば、それこそが人助けでしょ?
しかし、被害者意識が強い親の元に育ったダメダメ人間は、自分自身の問題を語ることは「親に迷惑をかける!」ことになり却下。

結局は安全圏から、別の言い方をすると自分から遠く離れた位置から、遠くの人を手助けすることに。
しかし、「虎穴に入らずんば、虎子を得ず。」なんだから、安全圏からチョッカイを出しても、事態は改善しませんよ。とは言え、人助け活動をやっているんだから周囲にはカッコよく映る。

得られる成果はともかく、人をサポートしている姿を周囲に見せることができたわけ。
「あの人は、自分とは関係ない人を助けて・・・困難なことに取り組んでいる、何て立派な人なんだろう!」と絶賛されたりする。
と言っても、関係ない人を助ける行為は、実は精神的には簡単なこと。
だって、結果は当人には関係ないんですからね。
それこそ、トルストイ描くアンナ・カレーニナは自分の子供をネグレクトしているのに、他人の子供を引き取ってかわいがる。
他人の子供を養育することは、周囲にウケがいいし、事態が悪くなったら、スグに逃げることができる。
そんな人は、そのような「助けている」姿を周囲に見せること・・・それ自体が目的になっているわけ。
しかし、キリストだって、「祈る時には隠れて祈れ!」って言っているしなぁ・・・

ダメダメ家庭を作る親で、自分の子供よりも、他人の子供の方に愛想がいい親も結構いたりするもの。他人の子供を相手する方が、いざとなったらトンズラできるので、精神的にラクなんですね。皆様の周囲にも、ご近所の子供に対しては妙に優しいのに、自分自身の子供の相手はほとんどしないという親もいるでしょ?だから、まさに外面がいいわけですが、結局は、その人の子供が追い詰められてドッカーンとなってしまう。そうしてご近所さんが言うのは、お約束の言葉。
「いつもみんなに親切な、あんないい人の子供が、どうしてこんなことに?」

しかし、「周囲からいい親に見える。」ということと、「実際にいい親である。」とは全然別物なんですね。まあ、それが分からないのが、一般の、ボンクラな人というもの。

他人を人助けすることは、「手掛ける」というスタート地点に主眼を置くと、実に手軽。
ダメダメ人間は、その手軽さに浸ってしまって、成果というものと無縁になり、ますますダメダメになってしまうものなんですよ。
自分自身なり自分の子供に向き合うよりも、関係のない人間と向き合う方に逃げてしまう。
見た目は洗練されていますが、結局は自己逃避そのものでしょ?

こんな形で「お気楽」に物事に取り組むような人は、まあ、ボランティアでもやっていればいいだけ。
どうせ結果につながるわけではないにせよ、そんなことは「織り込み済み」ですよ。

しかし、安直に手がける人間なんだから、まさに結婚する段でもそうなってしまう。
「成果」というか、将来ヴィジョンも何もないのに、流れに任せて、「てきとう」に結婚することになる。
結婚する前に、
「この人とは、色々とディスカッションしながらやって行けるかな?」とか、
「子供が産まれたら、サポートしてくれるかな?」とかについて、何も考えない。

結局はトラブルになって、「こんなはずじゃなかった!」と勝手に大騒ぎするもの。
そんな嘆きの声を上げると、「あんなにいい人が、どうしてこんなことに?!まあ、なんてお気の毒なの?!」と、かつての同志たちが寄ってくる。
しかし、「こんなはずじゃなかった・・・」はいいとして、『じゃあ、どんな夫婦生活を想定していたの?』なんて聞くと、「ただ、ふつうの・・・」とのお約束の言葉が出てきたり、「どうして、そんなことを聞くのよ!キーっ!」と逆上するだけ。

ダメダメにお約束の「ふつう」と言う言葉は、別の言い方をすると、何も達成していないということでしょ?
特に悪くはないけど、特にいい点もない・・・それが「ふつう」というもの。
そんな環境で育ったら、子供も何も達成できない人間になってしまうのも当然ですよ。
何かを達成するような肯定方向に考えるのではなく、「ふつうでないものはダメ。」という否定方向ばかりになってしまう。
そんな環境で育った子供は、最後には、自分自身を否定してドッカーンとなってしまう。

人間というものは、何を達成したかが重要でしょ?
もちろん、その前の時点として、「何を達成しようとしているのか?」という目標を掲げる必要もあるでしょう。

「悪いことをしなかった。」・・・なんてことは、最後の最後には、どうでもいいこと。
ダメダメ家庭の親は、「ふつうの子育てをしている。」と言っても、子供を一人前にするために心血を注いでいるとはいえない。「一人前にする。」という「成果」は眼中にない状態で、自分の子供を育てている。

ただ、周囲の人に合わせてダラぁ〜と生きて、何となく子育てしているだけ。
自分たちの問題が、とりあえず、見えていないだけ。
まさに「ふつう」の状態そのもの。
しかし、当人自身に、特に達成したいものがあるわけではないので、成果が何もない状態でも、いたって満足。

逆に言うと、達成へのイメージがないがゆえに、物事に対して安直に取り掛かってしまう。
そんな人は、手掛けたものについては、色々と語ったりしますが、達成したものについては何も語れないもの。
そんな人が親になってしまったら、自分の子供を一人前にするという成果に到達しないのも当然のことでしょ?

しかし、そんな人は、親としての自分の問題点を直視することから逃避して、また、別のものを手がけようとする。
それこそ、一人目の子供を「てきとう」に作って、「てきとう」に育てている親に限って、また、「てきとう」に次の子供を作ってしまう。現実的に見て、ネグレクトが問題になる家庭の親ほど、その子供は一人っ子ではなく、複数の子供がいるものでしょ?ネグレクトにおいて、シングルマザーで子供は一人のケースもあることはありますが、往々にして、シングルマザーでさえ、複数の子供がいたりする。そして、ネグレクト。
本来なら、一人目の子供の子育てにおいて、親としてイヤなことが多かったのなら、あるいは、配偶者に問題があるのなら、2人目の子供を作らないのが、最低限の判断ですよ。

しかし、一人目の子供における子育てを踏まえ、自分は不快だったとか、親として未熟だったとの認識なり、もうこれ以上は子供は欲しくないという判断からも逃避するわけ。
一人目の子供で、親としての成果を出すという発想そのものを持っていなくて、成果という発想がないので、逆に言うと、失敗ということにもならない。
だから、何も考えないままで、「てきとう」で2人目を作ってしまう。

「子供が嫌い。」とか「子育ては不快だ。」と、明確に自覚していれば、逆に言うと、それ以上の悪化は防ぐこともできますし、養子に出すなどの現実的な対処も可能。
しかし、判断そのものから逃避してしまっているので、また、次のものに、お気軽に手がけてしまい、中途半端なものが蓄積されていくだけ。

「てきとう」に手掛けるがゆえに、そして、成果を出すという発想そのものがないゆえに、子供をネグレクトしたり、いわゆるゴミ屋敷になってしまう。
それは愛情の欠落というよりも、認識や判断からの逃避という点から見た方が理解しやすいものなんですね。

(終了)
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発信後記

今回の配信は、合計696回目の配信となっております。
我ながら、呆れるほど続いている。
700回目の配信では、今回取り上げた、「自分自身が直面している問題から逃避して、関係のないマターや人物ばかりに首を突っ込む」主人公を描いた文芸作品を取り上げる予定です。
タイトルは誰もが知っている有名なもの。

逆に言うと、この手の事例は、ダメダメ家庭には実に頻繁に発生しているもの。
その手の親は外面がいいので、子供にとっては、厄介な親といえるわけ。
まあ、外面がいい分、内面が悪いわけ。
皆さんも、実際にそんな人をご存知なのでは?
R.10/11/16