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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神
配信日 08年10月31日
タイトル 格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)
ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。
コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、「どっちが命令を下す側なのか?」そのようなことを常に意識するようになるわけ。

さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・このことを、このメールマガジンでは頻繁に書いています。
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

それこそ、「○○中学校」と「☆☆中学校」のどっちが序列が上の中学校なのか?
そんな議論はあったりするもの。
中学校同士なら、現実的にはある種の序列もあるでしょう。それが「命令と服従」につながらないとは言え、順番のようなものも発生したりします。

格が違うとなると、「○○中学校」と「△△大学」の間には、序列と言うよりも格が違うと言った方がいいでしょ?
いくら序列が高い中学と言っても、中学校と大学では格が違うでしょ?
もちろん、現実的には「いろいろ」あるでしょうが、原則的にはそんなものですよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。
お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。
そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、「どっちが上なのか?」なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。
自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。
そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。
あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。
だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。

背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?
親は、子供より、多くの義務を背負っている。
だから格が違う。
そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。
ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。
だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。

だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。
本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?
しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。
本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。
だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?
あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。
しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。
「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」
そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」という序列には対応できても、「そもそも背負っているものが違う。」「そもそも土俵が違う。」「目指しているものが違う。」という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。
それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。
お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。
一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。
ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?単にDNAの問題ではないわけ。背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?

しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。
稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。
他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。
そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。
そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?
しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?
それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。
当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。
逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。
「秀でたるもの、義務多し。」という言葉でいうと、「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?
そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。

(終了)
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発信後記

来週にはアメリカ大統領選挙がありますが、今のところは民主党のオバマさんが優勢のようです。
「マケインさんとオバマさんとでどっちの『政策』がいいのか?」はアメリカ国民が判断することですが、これだけ優勢が伝えられていて、もしオバマさんが負けたりしたら、アメリカという国に対する信任が失墜してしまうでしょう。
「アメリカも、まだ、色々と・・・あるんだねぇ・・・」
なんてことになってしまって、他の国から疑惑の目で見られちゃいますよ。
株価も下がるのでは?

政策そのものは、ともかく、オバマさんは、「腰の据わって」「懐の深い」選挙戦をしているなぁ・・・と思っていました。
順調に行かない時にも、落ち着いていました。

それに対して、ヒラリーさんは、感情的になったり、マケインさんは、奇手妙手に走ってしまって、墓穴を掘る始末。
アメリカ大統領たるもの、ピンチの時にも動じず、堂々としてほしい
別の国の我々も、そう思いますよ。

格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。
逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。
本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。
自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、「どうしてこんなことに?!」と嘆く。

ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。

アメリカ大統領は選挙で選ばれますが、親になるのは誰でもできる。
しかし、アメリカ大統領と同じように、家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。
その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?
そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。
R.10/12/14