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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 08年11月24日
タイトル で、結局アンタ自身のは? (一般論オンリー)
子供が通う学校において、「私立の学校がいいのか?公立の学校がいいのか?」という点について議論になったりしますよね?
「私立がよくて、公立がダメダメなのか?」
いえいえ、そんなことではありませんヨ。
その親なりの判断があるわけでしょ?それに住んでいる場所によっても、選択肢が違っていますよ。子供が通う公立学校を選択できる地域と、できない地域では、選択における考え方もかなり違うでしょう。
それに公立でも、私立でも、学校によって、ピンからキリまであるもの。

「公立がいいのか?私立がいいのか?」そんな議論において、結果としての判断よりも、当人の主張なり考察の「進め方」において、その人が、ダメダメなのか?マトモなのか?見えてきたりするもの。

マトモな人は、まずは自分の体験がちゃんと言える。
それこそ、
「ワタシは私立の学校に通って、落ち着いた日々を送れた。だから自分の子供にも、私立に通わせたい。」
あるいは、まったく逆で、
「ワタシは公立の学校に通ったけど、教員はヒドイし、生徒もヒドイはで、タイヘンな日々だった。だから、自分の子供には私立に通わせたい。」また、「ワタシは、私立の学校に通ったけど、授業料は高いは、それ以外にも色々と物入りだったし、タイヘンだった。それに授業も評判ほどではなかった・・・だから、自分の子供は公立の学校に通わせたい。そして、それ以外として、塾などのオプショナルな面には費用をかけたい。」
そんなスタイルが基本になってきます。

自分自身の経験が、自分のアタマの中で整理されているわけです。
しかし、ダメダメな人間は、自己逃避。自分自身の問題から逃避して、一般論に逃げ込んでしまう。そんな人は、通う学校の問題でも、
「私立の学校は、生徒のヴァリエーションがなくてつまらない。だから公立の学校に行かせたい。」
「公立の学校は、授業料が安い。だから公立の学校に行かせたい。」
と、実に一般論オンリーなんですね。

その人が、学生時代にどんな学校生活を送ったか?そして、それが自分自身にとってどのようなものであったのか?何が有益で、何が不快だったのか?そのような点が、自分の心の中で整理されていない。整理されていないというより、そのことを整理することから逃避している。話をしていても、そもそもその人自身の出身校が私立だったか?公立だったか?そこからして抜けているもの。
自分が学生時代の体験が肯定できるようなものだったのか?否定したいものだったのか?
まずは、その点の判断が基本でしょ?

その判断は人それぞれでしょうが、自分自身の体験を無視して考えても上滑りもいいところですよ。相手に対し直接的に言う必要はないにせよ、それが自分自身で整理していないと、議論も何もないでしょ?

学校の問題だと、それこそ女子高とか男子高とか、共学とか・・・そんな点も議論になったりしますが、いずれにせよ、自分自身の体験が出発点でしょ?その人は学校を出ていないの?
一般論ばかりの主張を聞いていると、「で、アンタ自身はどうだったの?」と思っちゃうんですよ。

しかし、ダメダメ家庭というものは、自己逃避であって、考える場合にも、「遠くから考える」ことは以前に配信しております。
自分とは関わりが薄いところから議論をしたがるもの。

子供の問題で言うと、学校だけでなく、子供の数の問題もありますよね?
「ワタシは一人っ子で、兄弟がほしかった。子供には兄弟でワイワイやる体験を与えたい。だから、子供は3人ほしい。」
あるいは、「ワタシは兄弟が多くて、勉強するにもタイヘンだった。自分の子供にはそんな思いはさせたくない。だから自分の子供は一人で十分。」あるいは、ダメダメ家庭の出身の方にしてみれば、「ワタシは子供時代は、実にイヤだった。だから子供は作らない。」
そんなスタイルの主張なら、その人の考えでしょう。しかし、ダメダメな人は、
「日本の少子化の問題に対応するために、子供は2人以上作るべきだ!」
「だってぇ・・・このあたりでは、3人がふつうだもん・・・」
と、まったくの一般論は言えても、自分の子供時代は語れない。

そして、「ふつうの家庭を築きたいわ。」と周囲に語ることになる。しかし、『じゃあ、アナタ自身の実家のような家庭を築きたいの?』と聞かれると、やっぱり無言になってしまう。

自己逃避状態になると、一番よく知っている体験を無視して、一般論ばかりになってしまうもの。

そのようなことは、このメールマガジンで頻繁に触れております。
そもそもダメダメ家庭の問題を考えるに際し、「言っていること」「していること」から考えるのではなく「言おうとしないこと」「しようとしないこと」から 考えた方が、理解しやすい・・・このことは頻繁に書いています。
ダメダメ家庭の正式名称は機能不全家庭となりますが、機能不全であるがゆえに、その機能は達成されず、語られることはない。
「何ができているのか?」「何を言っているのか?」から考えても、その不全な機能は見えてこない。

本来なら、自分が一番よくわかっているのは、自分自身の体験でしょ?
しかし、抑圧的なダメダメ人間は、それがアンタッチャブルになってしまっている。
だから、無理に一般論にしたり、すべて他者の問題にしてしまう。

自分自身の体験についての視点や考察がないから、他者の問題を「あら探し」するだけになってしまう。「アイツはこんな問題があるから・・・だから・・・しょうがないから、ワタシはこうしなければいけない・・・」そんなスタイルになってしまう。

それこそ、過激なフェミニズム運動も典型的にそのパターンでしょ?
その女性が一番よくわかっている男性・・・つまり自分の父親はどんな人だったの?子供時代に父親とどんなやり取りをしたの?その点について自分の中で整理するのが先でしょ?
しかし、心が弱いダメダメ人間は、一番よく分かっている問題は無視して、一般論だけを主張し、自分を被害者として説明するために、他者の「あら探し」にまい進することになる。

そんな人たちに、『アンタ自身の父親はどうだったの?』『アナタは母子家庭の出身なの?』とでも聞こうものなら、「そんなことは関係ないでしょ?!」「どうしてそんなことを聞くのよ?!キーっ!」とお約束の逆上となるだけ。
そのように逆上することによって、思考から逃避してしまう。その手の女性たちはオトコとオンナに関する一般論は出て来ても、当人が一番よく知っている男女関係・・・つまりその人の両親の問題は蚊帳の外となっている状態。

そんな女性は、「女性に対し敬意を持て!」と周囲に対して要求しますが、その女性自身は、自身が一番よく知っている女性と言える自分の母親に対し敬意を持っているの?
あるいは、女性である自身への敬意をどうやって要求するの?
「ワタシは女性だから、アンタもワタシに敬意を持つべきだ!」というスタイルでの主張なの?
それよりも、「ワタシって、こんなこともできるし、あんなこともできる。どう?スゴイでしょ?」と言われた方が敬意につながりますよ。
「ワタシは女性だから、アンタもワタシに敬意を持つべきだ!」という形での敬意の要求は、「オレはオトコだから、オマエもオレに敬意を持つべきだ!」と命令する男尊女卑のオトコとどう違うの?

自分自身の体験を語れないがゆえに、自己逃避が進行し、他者に希望を託さざるを得ない。
以前に書いた「約束の地」に近い発想を持ってしまう。
「あの○○になれば、ワタシのこの問題も、あっという間に解決だ!」

それこそ、以前にアメリカで話題になった女子高生のように、『自分が母親になったら、自分を無条件に愛してくれる人ができる!』なんて、発想になってしまう。
しかし・・・じゃあ、その女子高生は、子供として、自分の親を無条件で愛しているの?
自分自身はどうなの?
親を無条件で愛しているのではなく、親との関係が思考停止になっているだけでしょ?

そんな女子高生のような人間が親になったりすると、自分自身の子供のことは見ようとしないし、子供の問題をサポートする発想もない。だから新たなダメダメ家庭ができてしまうことになる。とてもじゃないけど、母親を無条件で愛したりはしませんよ。
だから、そんな親の子供は結婚しなかったりする。
結婚しない自分の子供に対して、ダメダメな親は「自分と同じように、家庭を持て!」とは言えない。そもそも「ワタシたちの家庭は楽しいでしょ?アナタもそんな体験をしてほしいわ!」と言えないのだから、「オマエも家庭を作れ!」という主張には無理がある。

あるいは、そんな家庭の子供は親と疎遠になったりする。
そうしたら、「子供は親に会いに来るものだ!」と一般論で主張したりするもの。
しかし、「アナタと会って話をしたい!」と当人自身の具体的な希望は言わない。

ダメダメな親は子育ての最中においても、自分自身については語れない。「子供が自分と同じような一生を送ってほしいのか?」そんな自問自答が重要でしょ?自分と同じような一生を送ってほしいのなら、基本的には自分が受けた子育てを繰り返せばいいだけ。専業主婦でも、平凡なサラリーマンでも、それに誇りを持っているのなら結構なことですよ。自分と同じような一生を送ってほしくはないのなら、自分なりに考える必要があるでしょ?しかし、ダメダメな親は「ふつう」と言い続け、自分自身についても、子供の問題についても思考停止になっている。
まずは、自分が送ってきたこれまでについて、自分で考えないとね。

そんな人は自分がよく知っている事項ではなく、他者の問題にしてしまう。
それこそダメダメな関西人は「東京がケシカラン!」なんて言ったりしますよね?
しかし、東京がどうこうというよりも、「関西はいいぞ!こんなにいいところがあるぞ!」と具体例をあげて言えばいい話ですよ。
しかし、ダメダメな関西人は、「東京の欠点」は延々と語れても、関西のいい点は何も語れないわけ。そのような点は、それこそ韓国人もまったく同じでしょ?

自己逃避であるがゆえに、すべて他者の問題にしてしまう。そして自分自身の価値を説明するためには、他者を「貶める」しかない。
そんな人の物言いは、一般論ばかりだったり、他者の「あら」ばかり。
そして、どんどんと、自分自身から遠くなってしまう。

ダメダメ人間は当事者意識がないので、自分で達成したい目標があるわけではない。
以前に取り上げたエーリッヒ・フロムの言う「○○からの自由」とまりであって、「○○をする自由」には到達していない。当人自身の希望が不在の状態のまま。
どんどんと自分自身の問題から離れて行ってしまう。だから、「○○に対抗する!」というスタイルでしか、自分自身の目標を認識できない。

そして、どんどんと視点が一般論的になってしまって、「あ〜あ、悪い時代だなぁ・・・」と嘆くことになる。
そんな嘆きの声を受けて、『じゃあ、アンタが考えるいい時代って、いつなの?どんな感じだったの?』と聞いても、やっぱり何も答えられない。

それこそ、私立と公立の学校の問題でも、兄弟が私立に行って、当人が公立のケースもありますよね?それだったら、他の人に説明しやすいでしょ?「兄貴は私立でこんな体験をして、自分は、公立でこんな体験をした。だから、自分としては、自分の子供を公立に行かせたい。」そんな感じで説明すればいいだけ。そんな説明だったら、実に説得力がありますよ。
しかし、ダメダメな人は、その兄弟が私立でどんな学校生活だったのか?具体的に何も語れない。だってそれを語ってしまうと、自分自身の学校生活も語らないといけないでしょ?

だから、一般論に逃げ込んで、そして学校の「あら」を指摘するだけになってしまう。
私立の学校の「あら」を指摘するよりも、公立の学校の「いいところ」を説明した方がいいんじゃないの?しかし、それができないわけです。

結局は、「あら探し」が、どんどんとひどくなってしまう。
東北の「なまはげ」のように「悪い子はいねぇかぁ・・・」「悪いヤツはいねぇかぁ・・・」と、目を血走らせて、探し回る始末。まあ、そんな人間は、今だったらインターネットの掲示板にいっぱいいますよね?

逆に言うと、「あら探し」に精を出している人は、重症の自己逃避であって、自分自身の問題なり、自分の実家の問題はアンタッチャブルになっているわけです。
単に「あら探し」くらいならともかく、「あら探し」は当然のこととして「犯人認定」につながり、報復の対象にされてしまう。

そんな人と一緒になってグチっていたら、今度はその人から、自分が犯人とされてしまった・・・
そんな状態が、家庭内で起こってしまうと、まさにドメスティック・ヴァイオレンス(=家庭内暴力)でしょ?

自己逃避の人間は、逆に言うと、他者に「あら」がないと、困ってしまう。「あら」が見つからない困惑も、やっぱり誰かにぶつけることになる。
一般論ばかり聞かされて、「でさぁ・・・アンタ自身はどうだったの?」なんて素朴な質問をすると、ダメダメ人間の逆鱗に触れてしまって、まさにそんな質問をした人が犯人認定されてしまう。

ギャグではなく、皆さんの目の前で実際に起こっていることでしょ?

(終了)
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発信後記

先週の大きな事件というと、例の厚生省次官経験者への事件がありました。
政治的な背景が疑われましたが、ダメダメ家庭的な「逆恨み」の線が濃くなっているようです。

ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強く、犯人探しのためのあら探しをして、そして報復行為をすることで、犯人確定の儀式とする・・・
このような流れは、このメールマガジンで頻繁に触れております。
あのような大きな事件の関係者ばかりではなく、ご近所のトラブルメーカーもそんな流れになっているわけ。あるいは、韓国人なんて、その典型でしょ?

その手の人間は、あら探しとか、報復行為には、非常な情熱を持つもの。
それこそエーリッヒ・フロムのいうように「○○をする自由」を持とうとしないがゆえに「○○からの自由」にはこだわるわけ。そして、その犯人認定した○○に対して非常な執着を示すことになり、そして「○○からの自由」の大義名分の下に報復行為。
その人が抑圧的であるがゆえに、報復行為は過激になるわけです。

あの事件の詳細は、今後明らかになってくるでしょうが、ダメダメの基本を理解していると、ほとんどの事件は理解できるものなんですよ。
というか、今回の事件の容疑者は、何でも山口県の出身で、佐賀大学に入学したとのこと。
山口県は、ダメダメな事件が頻発している地域。どうも強圧的で問答無用な親が多そうな雰囲気。あと幕末由来の強い対抗心もあるのかな?そして佐賀大学という地方国立大学。地方国立大学だと、周囲の規格品的な「いい子」に囲まれて孤立感が深まってしまうことになる。

まあ、お約束満載。
本来なら、ダメダメの大元といえる自分の親を殺せばいい話。というか、犬を保健所に持って行った親を恨むのがスジであって、保健所を恨むのは筋違い。
しかし、親の問題がアンタッチャブルになっているので、逆に言うと、保健所を恨むことで、親への恨みを代替し、自分を騙しているわけ。
自己逃避であるがゆえに、自分にとって一番関わりが深い存在を除外して、犯人探しをすることになってしまう。その無理を、過激な報復行為をすることで、自分に納得させるわけ。

事件に会われた関係者にはお気の毒ですが、この手の発想の流れは、実にポピュラーです。
だから、こんな事件は繰り返すもの。
逆に言うと、事前に対策を取ることもできるわけです。ただ、上記の「流れ」が理解できれば・・・の話になってしまいますが・・・
警視庁は、他の警察よりも、それなりに優秀な人もいるでしょうが・・・どうせ「よくわからんなぁ・・・」でオシマイになってしまうんでしょうね。

しかし、購読者の皆さんは、あの犯人の心理が、かなり想定できるでしょ?
もう皆さんは、警察の担当者よりも、この面においては優秀といえるわけですよ。
R.11/1/22