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カテゴリー | ダメダメ家庭出身者の行動 |
配信日 | 08年11月3日 |
タイトル | お軽くヘヴィー |
このメールマガジンで取り上げておりますダメダメ家庭(機能不全家族)は、法律的には問題がないというレヴェルの機能不全状態の家庭を取り上げております。まあ、メールマガジンの最初のテンプレートにもそのように書いてありますからね。いわゆる虐待家庭となると、法律の範囲をも超えてしまう。そのような虐待行為が起こっている家庭の中にいる子供は、子供同士の付き合いの中で、こんなことを言い出したりするそうです。 「キミのお父さんは、どうしてキミを殴らないの?」 そんな質問をされても・・・どのように答えればいいの? 「どうして殴らないの?」という質問は、言葉の上では成立しますが、答えようがない質問でしょ? 「どうして殴らないの?」という質問よりも、「どうして殴るの?」という質問の方が本来は、内容的に妥当であることは誰だってわかること。 しかし、親が子供を殴るという常識で生きていると、自分たちの常識から逸脱している箇所に目が行ってしまうことになる。「殴る」ということが「ふつう」となってしまっていて、「殴らない」ことが常識からの逸脱として認識されるわけ。だからこそ「どうして殴らないの?」という質問になってしまう。 児童虐待のレヴェルまで行って、法律から違反するような状態になっていなくても、ダメダメ家庭とマトモな家庭の間においては、日常そのものが違っていて、つまり常識も違ってしまっている。それこそダメダメ家庭には子供の写真がないことが多い。だから「どうしてキミの写真があるの?」なんて質問も現実に存在してしまう。 子供の写真があるのが当然なのか? 写真がないのが当然なのか? それは、それぞれの家庭によって違ったりするもの。それにこのような違いは、法律的には双方とも合法的でしょ?もちろん、ダメダメ家庭の子供も、「家族の写真があるのが当然」というのが、一般の・・・別の言い方をすると「ふ・つ・う」の常識であることを、やりとりの中で「知ったり」する。だから、その常識にも配慮することになる。 こうやって、家庭内外の間のダブルスタンダード状態になるわけです。 重要なことはそれを自覚するしかないわけです。 しかし、背景となる日常そのものが違っているのだから、自分たちの常識が、マトモな社会からズレていることに、なかなか気がつかない。だから、そんなダメダメ家庭の常識のまま突っ走ってしまう。とうことで、結局はトラブルが発生することになってしまう。 ダメダメ家庭においては、日常的なことでも、マトモ家庭では、非日常・・・そのようなことって結構ありますよね? 先日配信しましたが、ダメダメ家庭は「お墓参り」とは無縁になるケースも多い。だから「へぇ・・・お墓参りって、生まれてこの方、やったことないなぁ・・・」なんて、30歳過ぎの人間が言ったりすることになってしまう。そんな言葉には周囲のマトモ家庭出身者はビックリですよ。 あるいは、ダメダメ家庭の周囲には、夫婦の離婚なんて日常茶飯事。 親戚とか、ヘタをすると、ご近所にも同類がいっぱいいる。 だから、そんな環境にいる子供としては、「夫婦というものは、カンタンに離婚するものだ。」との常識を持ってしまう。だって、当人が住んでいるダメダメな日常は実際にそんな風景なんだから、当人の常識もそうなってしまいますよ。 そんな「常識」を元に、マトモな人たちとやり取りをすると、 「ウチの親戚の○○が2度離婚して、別の親戚の△△は、1度しか離婚していない・・・」 そんなことを平気で言うようになってしまうわけ。 それこそ、「キミのお父さんは、どうしてキミを殴らないの?」と素朴な質問を投げかける子供のようなもの。「キミのご両親はどうして離婚したことがないの?」「キミの母親は何回目の結婚なの?」なんて質問も起こってしまう。 しかし、マトモ家庭の出身者にしてみれば、そんな離婚のオンパレードを聞かされても退いてしまうだけでしょ? あるいは、それこそ、自殺なんてものも、ダメダメ家庭の周囲には、珍しいものではない。足の骨を骨折した・・・くらいの日常感覚で自殺と接してしまう。 「ああ、イトコの○○ちゃんも自殺したの?前にはオバサンの△△さんが自殺したよね?」 だから、そんな話を平気でしゃべったりするわけ。 しかし、そんな自殺話を、平気で語られても、周囲は凍りつくだけでしょ? しかし、その人の日常は、そんなヘヴィーな状況が日常なんだから、これはこれでしょうがない。 もちろん、親戚だけでなく、ご近所もそんなもの。 そもそも、ご近所がマトモだったら、逆に言うと、ダメダメ家庭の人間は、そんなところから浮きまくってしまうだけですよ。 ダメダメ家庭の人間が、普段着のままのダメダメで、周囲と違和感なくやれてしまう・・・だからこそ、ダメダメ家庭を作る人間もその地に居ついたわけですし、だからこそ、その家庭の子供は、マトモな常識と接することができなくなってしまう。 子供がそんな日常の中で育ってしまったのは、子供のせいではない。 しかし、一般社会でやっていくためには、その常識を修正する必要があるわけ。 当人のせいではないからといって「この人は悪くないっ!」「この人には事情があるのよ!」なんて弁護しても、その弁護対象の人が、一般社会でやっていけることにはならないわけ。 このようなことは、以前に取り上げた映画「マイ・フェア・レイディ」というか、その元になった「ピグマリオン」で描かれています。 イライザが「どぶ板英語」しか話せないのは、しょうがない。だって、イライザはそんな日常の中に生きていたんだから。 しかし、そのままだと、後は堕ちていくだけでしょ? どこかで「自分の言葉はマトモな言葉とは違う!」と自覚して、作り直すしかないわけ。 その覚悟をもって、石にかじりつく思いで努力するしかないわけ。 しかし、現実は、そんなケースはレアケース。 結局は、『アナタは悪くないのよ!』なんて甘言を弄するボランティアの連中を侍らせて、「ワタシは悪くないのよ!」「悪いのは社会のせいだ!」と悦に浸っているだけ。 「いい」も「悪い」もなく、「このままでいいのか?」そのような問題なんですが、そんな問題意識を持つ人はほとんどいないし、そのような問題意識を「起こさせない」ようにして、トラブル状況に安住させるのがボランティアの連中というもの。 と言うことで、まさに「マイ・フェア・レイディ」でのアスコット競馬場でのシーンのように、ダメダメな自分の日常を語ってしまって、周囲を凍りつかせることになる。 ダメダメ家庭の周囲では、あんな感じで、ヘヴィーな話をお軽く言ってしまい、周囲が凍りつく光景が現実に見られたりするものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 ちょっと前ですが、日本人の方がノーベル物理学賞を受賞されました。 ただ、素粒子論なんて、説明を聞いても、この私もさっぱりわからない。 とはいえ、簡単な解説があったので、思い出したのが、今年の夏に行った、東京お台場の、科学未来館という施設。 たしか、素粒子論のコーナーみたいなものがあって、研究者の研究ノートが展示されていました。その内容が今回のノーベル賞の研究と同じだったような・・・ たしか若手研究者2人の共同研究とかの説明文もありましたし・・・ もし、その展示物が、実際に今回のノーベル賞該当のものなら、あの科学未来館のスタッフは、ノーベル賞受賞に狂喜乱舞したでしょうね。 あの手の基礎研究に対し、「そんな研究が、何の役に立つんだ?」などと言われたりするものですが、基礎的な研究というものは、「考え方の枠組み」を見直したり、「新しい視点」を導入したりするもの。その新しい枠組みなり、視点から、新たな成果も生まれるわけ。 それこそ農地において、土地を掘り起こして、種を植えるからこそ、後になって刈り取りもできるわけでしょ? 「成果」だけに目が行くと、刈り取りしている人だけが目立ったりするものですが、実際に「成果」をあげるためには、その前の作業も必要なんですね。 家庭問題もそれと同じ。 考え方の枠組みを見直したり、新たな視点を導入しないと、現在の閉塞状況がますますひどくなるだけ。 従来どおりの、説教くさい正論連呼の手法も、そろそろ限界なのでは? 新鮮な視点というものは、当然のこととして、大人にとって痛みを伴うもの。 その痛みを回避しているがゆえに、そのひずみが子供に集中してしまう。 昨今起こっている子供の問題も、このメールマガジンで示されている視点なり枠組みで考えると、簡単に理解できるでしょ? とはいえ、その手の新たな視点や枠組みが、多くの人に受け入れられるのは、かなりの時間が必要・・・「新しい」って、まさにそんな属性があるものなんですね。 そうそう。皆さんも、お時間があったら、そのお台場の施設にでも遊びに行かれてはどうでしょうか? 子供も喜ぶと思います。 |
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R.10/12/14 |