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カテゴリー ダメダメ家庭の対抗心
配信日 08年12月3日 (11年2月14日 記述を追加)
タイトル 恨んで生きる
小説なり映画なりマンガなどで、こんなセリフがあったりしますよね?
「ワタシ・・・こんな感じのまま・・・このまま、人を恨んで生きていくのかしら?そんな恨んでばかりの人間にはなりたくないわ!」
そうやって、ワーっと泣き出す。

そんなセリフの後では、
「心配するなよ!いつだってボクがついているよ!」
そうやって、心が通い合った2人は・・・

まあ、そんなシーンは、映画などで、あったりするでしょ?
「人を恨んで生きる」ということを、別の言葉で言うと「悪いのは全部○○のせいだ!その○○をやっつけろ!」となります。あるいは、以前には「対抗心に安住する」というタイトルの文章を配信しておりますが、まさに、「対抗心に安住している」状態といえるでしょ?

人を恨んで生きる一生は、あまりにさみしいよね?
しかし、ダメダメ家庭の人間は、そんな人間になってしまったりするもの。
何と言っても、人を恨んでいるのは、ある意味ではラクなことこの上ない。
だって、当人自身としては何もしなくてもいいわけでしょ?ただ、犯人認定した存在を恨んでいるだけでいい。そうして「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と自分を憐れんでいればいいだけ。そして、「アイツのせいで、こんなことに!」と誰かを恨んでいるだけ。逆に言うと、自分の目標達成のために、自分なりに地道に努力することから解放されている。

そうやって、そのラクさから抜け出せずに、どんどんと「人を恨んで生きる」ようになってしまう。
しかし、そんな状況になってしまっている人だって、自分を振り返る機会だってないわけではない。
「ワタシ・・・このまま・・・こうして人を恨んだままで、一生を終わるのかしら?」
そう思うことだってあるでしょ?
本来なら、人を恨むよりも、人を愛した方が、本人にも、有意義なことでしょ?
あるいは、愛する対象は人でなくていいでしょ?それこそ仕事を愛する方向でもいいわけです。
あるいは、哲学者のニーツェにならって、己の運命を愛するくらいの気概を持つパターンもあるでしょう。そうすれば、その人なりの尊厳にもつながりますよ。
人を恨んでも、堕ちて行くだけ。
自分自身を見つめて、覚悟を持てば、そんな恨みのスパイラルから抜け出せるわけでしょ?

しかし、現実は簡単ではない。
そもそも、ダメダメ人間は、それ以前に、人を恨む生活をしてきているので、周囲の人間も「人を恨んで生きる」同類ばかり。
だから「ワタシ・・・こんな風にこのまま人を恨んで生きるような人間にはなりたくない!」
なんて言っても、
「何を言っているの?アナタは全然悪くないわ!悪いのは○○の方よ!一緒に○○をやっつけましょうよ!」と、言われてしまう。
と言うことで、恨みの心を共有できて、精神的にラクができるクレーマー系の市民運動なり、女性運動に入れ込んでしまう。
あるいは、そのような対面での盛り上がりだけではなく、インターネットの掲示板なんて、クレームによる盛り上がりばかりでしょ?

そんな「恨んで生きる」人間同士が、一時的に意気投合しても、やがてお互い同士で恨みを向け合うようになり、「アンタのせいで、うまくいかない!」と、内部抗争に発展。それこそ政治的な過激派の内部抗争だったり、宗教の宗派の対立のような内ゲバのような事態が起こってしまう。
それを家庭内でやると、ドメスティック・ヴァイオレンス(=家庭内暴力)になるわけでしょ?
そして、そんなドメスティック・ヴァイオレンス状態になったら、「アナタは悪くないわ!亭主が悪いのよ!」「一緒にあのオトコを糾弾しましょうよ!」と、「恨んで生きる」人間がまたまた寄ってくる。
こうなると、恨んでいる対象の人間の名前はいくらでも出てくるけど、愛している対象の人間は全然出てこないなんてことに。
実際に、そんな人をご存知の方もいらっしゃるのでは?

どこかで覚悟を決めないと、一生、人を恨んで生きることになってしまう。
気が付くチャンスがあったり、振り返るチャンスがあっても、周囲の人間も同類ばかりだと、本人がよっぽど覚悟を決めないとムリ。
まあ、韓国は、国自体が、そんな状態でしょ?

人を恨んで生きるのは、ラク。
残念ながら、現実は、そうでしょ?

そうなってくると、トラブルが起こったりすると、「誰を恨めばいいのか?」そんなことばかり考え、「自分はどうしたいのか?」は考えない。あるいは、「今後は、このようなトラブルが起こらないように、あるいは避けることが出来るようにしよう!」・・・なんてことは考えない。
ただ、誰かを犯人認定して、その人を恨むだけ。
そして、報復行為をすることで、自分自身への確認行為としてしまう。

被害者意識が強く、当事者意識がないダメダメ人間は、何かトラブルが起こった際には、他者を恨むことで、自分を責めることを回避しようとする。何も無理に自分自身を責める必要はありませんが、問題の本質について考える必要はあるでしょ?しかし、日頃から「どっちが悪いのか?」そんなことばかり考えている人なんだから、自分を見つめることが自分自身への犯人認定につながってしまって、すなわち自分を責めることに直結してしまう。だから、とにもかくにも、他者の「あら探し」をして、「アイツが悪い!アイツをやっつけろ!」なんてことになってしまう。

何も他者を犯人認定しなくても、自分自身の目標を掲げて、そのための行動をすれば、自分を責めることにはならないでしょ?
しかし、自分自身から逃避するダメダメ人間は、自分の目標を掲げることが怖い。
そんな人が掲げる目標なんて、「あの憎い○○に対して、報復しよう!」なんてことくらい。
そして、それがその人のアイデンティティになっている。トルストイ流にいうと「復讐するは、我にあり。」状態。

そして、その犯人認定も、「遠くのものを犯人認定」することは、このメールマガジンで頻繁に触れております。自己逃避であり、そして「親に迷惑をかけてはいけない!」と思っているので、その問題とはかけ離れた存在を犯人認定してしまったり、たとえば自分の父親への敵意を、「オトコ一般」の問題に一般化してしまうような、極端な一般化をしたりする。そうして、『報復活動』に明け暮れる。
いずれの対象を恨むにせよ、「恨んで生きる」ことには変わりがない。

そんな発想のパターンを理解していると、例の厚生省事務次官経験者への襲撃の心理も簡単に理解できるでしょ?あのような過激な事件も、所詮はダメダメな発想の積み重ねなんですね。

あるいは、「遠くのものを犯人認定」するのは逆のパターンのケースもあります。
「親のせいで・・・」と自分の親を犯人認定するパターンです。そんな人がよく言うのは「ワタシは自分の親を反面教師にしています。」という言葉です。
この反面教師という言葉も、ダメダメ人間がよく使う言葉であることは頻繁に触れております。

ダメダメだった自分の親を、いつも意識することで、「親のせいで・・・ワタシがこうなってしまった・・・」と「悪いのは全部ダメダメな親のせい!」と自分を納得させる。
ダメダメ家庭の人間にしてみれば、ダメダメな親による被害は現実として存在していることは確かでしょう。しかし、そんなにダメダメな親だったら、距離をとって、絶縁するのが最良でしょ?そして、参考にできるような人生の師を見つけるようにした方が建設的ですよ。
しかし、ダメダメ人間は、わざわざダメダメな親を意識し続けて、「アイツのせいで・・・・」と恨みの心を持ち続けることになる。
そんな「恨んで生きる」姿勢は、まさに親譲りそのもの。
お互いの姿が、鏡に映った自分の姿そのもの。おっしゃるとおりの見事な反面教師だねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭出身者で「親を反面教師にしている。」と語る人は現実に多いもの。そうやって、「親のせいで・・・」と自分を納得させる。しかし、親を恨むことで、そこでオシマイとなってしまって、自分なりに努力することはない。
自分なりの目標も持たないし、自分が尊敬できる人生の師も見つけようとはしない。
そうして、自分なりのチャレンジをしない言い訳として、親の存在を十分に活用することになる。「ボクは親のせいで、こうなってしまったんだ!ああ!かわいそうなボクを慰めてよ!」
しかし、そんな物言いは、『子供が生まれたせいで、オレの人生は散々だ!』と日頃からグチっていた、その人の親の姿そのものでしょ?
まさに、方向は違っても、姿形は全く共通の反面教師状態となっている。
親を嫌っているのなら、避けるという判断こそが最良でしょ?

人を恨んで生きるようになると、「恨むこと」が最優先になる。だから他の楽しみを求めない。それこそ、イスラム教徒は、酒も飲まず、歌舞音曲もせずに、「アメリカが憎い!」そればかりでしょ?
楽しみなんて、色々あるじゃないの?食べることでも、歌うことでも、スポーツでも、あるいは知的好奇心でも・・・
しかし、恨んで生きる人間は、他の楽しみを放棄して、ひたすら恨みの世界に浸るばかり。
たとえば、韓国の前大統領のノ・ムヒョンさんですが、ヨーロッパに行っても日本の悪口しか言いませんでしたが、彼自身の楽しみっていったい何だろう?

「そんなことは彼の勝手だろう?大きなお世話だよ!」
とおっしゃる方も多いでしょうが、彼に知的好奇心があるようには見えないし、彼にとっての唯一の楽しみは、日本に対する恨みでしょ?
寂しい人生とも言えますが、ある意味においては実にラク。
自分でチャレンジしたら、その結果責任も発生してしまう。
しかし、恨んで何もしない状態だったら、「悪いのは全部○○のせいだ!」と言っていればいいだけ。実にラクなものですよ。

しかし、対抗心は、他者への否定的な感情であり、所詮は何かを否定しているだけ。
だから、その否定の矛先、結局は自分自身に向かってしまうことになる。
逆に言うと、自分に向かわないように、必死に誰かを犯人認定しているわけです。
自己逃避の方法としての対抗心なんですね。

恨んで生きるようになってくると、とにもかくにも、「このオレは誰を恨めばいいんだ?」「悪いのは誰だ?」と周囲を見回してばかりで、「自分は何をしたいのか?」とは何も考えない。
最近(11年)では、日本の首相の菅さんが、まさにこの流れでしょ?
実現したい目標があるのなら、そのために、周囲を説得するなどの地道な努力も必要になる。しかし、「あの○○のせいでうまくいかない!」と言っているだけの日々は、ラクなことこの上ない。

しかし、そのラクさに浸っていると、やがて鏡を見たときに、とんでもない顔が写っていることになる。
それこそ、某国の社民党の党首をなさっておられた方のような、とんでもない顔がそこにある状態。
そうなったら、もう遅いでしょ?
せめて、「ワタシ・・・こんな風にこのまま人を恨んで生きるような人間にはなりたくない!」と、思った時点で覚悟を決めないとね。

(終了)
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発信後記

何度も書きますが、「人を恨んで生きる」のは、精神的にラクなんですね。
当人がそんなラクさに浸りきって、ダメダメが進行するのは勝手ですが、そんな人は、別の人も同類にしようとするわけ。
ボランティア活動をしたりして、自分が持っている恨みの心が通じる人間を探すことになる。そうして同類を見つけて、「さあ!一緒に○○と戦いましょう!」となる。
そうして、エーリッヒ・フロムが指摘するように、「○○からの自由」に逃げ込んでしまって、「△△をする自由」から逃避するわけ。

「△△をする自由」から逃避しているんだから、結果的に何も達成できず、不満を持つようになり、その不満を何かにぶつけ、そしてその犯人認定したものを恨むようになるわけ。
ということで恨みの心がスパイラル的に増大することになる。
言われてみれば、実に自然な流れでしょ?
そして、皆さんの目の前で、実際に展開されている光景でしょ?
R.11/2/14