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カテゴリー | ダメダメ家庭出身者の行動 |
配信日 | 08年12月8日 |
タイトル | 生返事風の謝罪 |
ダメダメ家庭を作る親は被害者意識が強い。 それこそ、子育てだって、親である自分が被った被害と捉えている。 だから自分の子供を叱る際にも、基本的な発想が違っているわけ。 子供が問題行動を起こしたから、その状況の場において、子供がそのようなことを二度としないように、叱る・・・のではなく、子供という存在自体が不快であるので、その存在自体に不満をぶつける・・・そのようになっているわけ。 そのようなダメダメな親の発想を、「不道徳だ!」とか「不条理だ!」とか文句を言ってもしょうがない。だって「子育ては、親である自分が被った被害」と考えている人間が唯一できることは、子作りくらい。そしてそんな人間の相手をしてくれるのは、自分の子供だけ・・・このことは、紛れもない現実でしょ? だからダメダメな親は、 「いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?!」 と、子供にグチり続けることになる。 『じゃあ、子供なんて作らなきゃよかったのに・・・』 と、子供としては親に言いたいのはもっともなことなんですが、「子育ては、親である自分が被った被害」という論理に疑いを持たない親に、どんな論理も通じないことは、これもまた、紛れもない現実。 だからダメダメ家庭の子供は、心ここにあらずの状態で、親のグチを聞き続けることになる。そして親からのグチに対して、適宜、生返事で答えることになる。 しかし、中途半端な生返事だと、「オイ!ちゃんと聞いているのか?!オマエのために言ってやっているんだぞ!」と、更なるグチ。 親のグチをしっかり聞いても、やっぱりグチが続く。 そして、何となく聞いていても、やっぱりグチが続くわけ。 ダメダメな親は、グチしか能がないものなんですね。 さて、ダメダメ家庭の人間は、相手に対して謝罪を求めることは以前に配信しております。 そもそも被害者意識が強いので、相手から謝罪を受けると、「自分が被害者として認定された。」ことになり、当人にとって落ち着きがいいわけ。だから、相手に対して「ワタシに謝れ!謝罪せよ!」と要求するようになる。そのようなことは、まさに韓国人がいつもやっていることでしょ? ダメダメな親も、子供に対して、謝罪を要求し続けることになる。 しかし、「子供のどんな行動が問題なのか?」それを子供に対して具体的に説明することはできない。そもそも、「子育ては親が被った被害」と考えているわけだから、子供の行動が問題なのではなく、自分に子育てを強いる存在・・・つまり子供の存在自体が、不快なもの。 だから、それの修正を子供に要求するわけ。 そんな要求を受けた子供としても、問題行動を修正することはできても、存在自体を修正するにはどうすればいいの?まあ、死ぬのが一番現実的でしょうが、それ以外にはどんな方法があるの? とりあえず、親に対して「ごめんなさい。」と言うしかないでしょ? 被害者意識が強いダメダメな親は、子供からの「ごめんなさい。」という謝罪の言葉に、とりあえず満足することになる。だって、自分が「子育てという迷惑を背負うことになったかわいそうな人間」であると、『加害者』から認定してもらったわけでしょ? ということで、とりあえず、その場は収束となる。 つまりダメダメな親とのやり取りにおいて、「ごめんなさい。」と言うことが、子供にとって、一番有効な方法なんですね。この謝罪の言葉によって、やっと親のグチから解放されるわけ。 つまり、親にしても、子供にしても、親が子供に謝罪を要求し、子供が「ごめんさない。」と答えるやり取りで、一種の成功体験を得ることになる。 そのような成功体験あるので、その後も、そのようなやり取りを繰り返すことになる。 ダメダメ家庭の子供としては「ごめんなさい。」と言っておけば、とりあえずは状況が改善される・・・そんな経験をつんでいるわけ。 そんな謝罪を求め続けられた子供は、いわば便利な生返事として「ごめんなさい。」と言うような人間になってしまう。 「あなた・・・どうして○○しないの?」 『ごめんなさい。』 「謝るとかの問題ではなく、アナタはどうするつもりなの?」 『ごめんなさい。』 「・・・ごめんって・・・じゃあ、アンタ、勝手にしたら?」 『ごめんさない。』 そんなやり取りを体験なさった方もいらっしゃるのでは? そんなやり取りは、ダメダメ家庭においては必要なものでも、一般の社会では嫌われるものでしょ? 「とりあえず、てきとうに、謝っておけ!」という雰囲気の人も実際にいますが、そんな人は相手にされなくなるでしょ? 最初に書いていますが、謝罪というものは、「もう二度とこのようなことはしない。」という自分なりの認識と覚悟を相手に示すものなんだから、それは「とりあえず」の雰囲気とは相反するものですよ。 だから、そんな人に対しては、周囲の人は、ますます厳しくなってしまって、だからますます謝罪するハメになってしまう。結局は、そのような「やり取り」に抵抗がなく、そのような「事情」に理解がある同類に吸い寄せられてしまうわけ。 そして、そのような同類同士が結婚して、ドメスティック・ヴァイオレンスのような修羅場になったり、それこそ、いかがわしい宗教団体に食い物にされたりするわけ。 皆さんの周囲にも、そのように生返事風の「ごめんなさい。」と頻繁に使う人がいるのでは? というか、ご本人がそのパターンのケースもあるのでは? そんな生返事風の「ごめんなさい。」から、その親が持っていた強い被害者意識が見えてくるわけです。 本来なら、その実家の問題を自覚しなければならないわけですが、ダメダメな親により、自分を抑圧するようになってしまった人間には、その自覚が難しい。 そのような人に対し、「このまま、自覚もなしに突っ走ると、どうなってしまうのか?ちょっとはアナタ自身でも考えて見たら?」 そんなアドヴァイスを送ると、どんな返事が返ってくるのか? それって、まさにお約束というか様式美なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 このメールマガジンで、たびたびミシェル・フーコーの「見えているものを、見えるようにする。」という言葉に言及しております。 もちろん、単なるトートロジーではなく、「生物的な目に見えているものを、心の目で見えるようにする。」あるいは「見たという単なる体験だったものを、精神的な認識の次元まで高める。」という意味になるでしょう。 私としては、そのような意図を持ってこのメールマガジンの文章を書いています。 逆に言うと、購読者の皆さんが、「生物的な目」でも見たことがない、あるいは、まったく経験がないマターについては、実感がわかないでしょう。 この点はしょうがない。 もし、それまでにまったく関わりがない状態であっても、後になって、実際に体験されることもあるでしょう。 その時は、このメールマガジンの記述を思い出していただければ、心の目でも見えるようになると思っています。 今回取り上げた「生返事風の謝罪」ですが、結構実際に体験なさった方もいらっしゃると思います。その方には、理解しやすかった文章でしょ? そして、これから実際に体験なさる方もいらっしゃると思います。その時は、この文章を思い出してくださいな。 |
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R.10/12/15 |