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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
配信日 08年12月12日
タイトル 努力とサポートの二極化 (負荷の二極化)
以前にこのメールマガジンで「二極化」について触れたことがあります。
日本社会も現実的に二極化している。
しかし、その問題は社会全体の問題であるとともに、個人個人の問題もあるでしょ?
その家庭の現状がうまくいっていないのに、つまり、二極化社会において「負け組み」の一員である状態なのに、何も考えずにポコポコと子供を作って、「我々は二極化した社会による被害者だ!」と主張しても、それは違うんじゃないの?

子供を作る際には、自分たちが直面している現実を踏まえた上で、
「自分たちは、どんな家庭を作りたいのか?」
「自分の子供はどんな将来を送ってほしいのか?」
「そのためには親としてどんなサポートが必要になるのか?」
そんな思考が必要でしょ?

とは言え、ダメダメ家庭は思考から逃避している。
「現状はどうなっているのか?」という認識から逃避して、
「自分の子供がどんな将来を送ってほしいのか?」
そのことについて、明確なヴィジョンがない。
言うとしたら、「ふ・つ・う」だったり、「人に迷惑をかけない人」それくらい。

かなり以前にも書きましたが、子供に対するそんな要求そのものが、その親が「ふつう」ではないことの証明と言えるでしょ?「ふつう」の親は、子供に対して「ふつうになれ!」なんて言いませんよ。それだけ「ふつう」というものを外から見ているということでしょ?
それくらいならともかく、まさに「ふつう」になりたいがために、子供を作り、その子供を「ふつうの家庭」の姿を作るための道具にするわけ。
そんな発想だから、ますます「ふつう」ではなくなってしまう。
「ふつう」の親は、子供を道具にはしませんよ。

あるいは「人に迷惑をかけない人」というのは、一見とおりがいいわけですが、人間は生きていれば、色々とありますよ。人に迷惑をかけないことばかりを考えていたら、それこそ家で引きこもっているしかないでしょ?減点法で考えるのではなく加点法で考えないとね。

結局は、「人に迷惑をかけない」と言葉の上では言いながら、その心理としては「親であるワタシに迷惑をかけない」ように子供を育てるわけ。
だって、ダメダメな親は、「自分こそが一番の被害者だ!」と思っている。「子育ては親である自分が被った被害」と認識しているわけです。
だから「このワタシにメンドウを持ち込むな!」と子供に厳命し続けることになる。

このように、ダメダメ家庭では、その認識においても、考え方においても、減点法となっている。
周囲に合わせて「ふ・つ・う」に生きていれば、周囲から何も言われないわけでしょ?
だから、自分の子供も、そんな「ふ・つ・う」で「目立たない」・・・減点がない状態にしておきたいわけ。親として、子育てに手間をかけるのがイヤなんですね。

しかし、当然のこととして、そんなダメダメな親が、周囲に合わせて目立たない状態でいられるわけだから、その家庭の周囲も、やっぱりダメダメ状態となっている。
その環境自体が、腐っている状態。いわば、周辺環境自体が、「負け組み」の吹き溜まりとなっているわけ。
マトモな環境だったら、ダメダメ家庭は周囲から浮いてしまいますよ。
それは、「ふつう」志向で減点法のダメダメ人間にしてみれば、非常に困った事態と言える。
ダメダメ家庭の周囲は、やっぱりダメダメなんですね。

その家庭もダメダメだし、周辺環境もダメダメなので、まさにダメダメな常識なり考え方が、ゆるぎないものになってしまう。
そもそもダメダメ家庭は思考停止なんだから、そんな自分たちのダメダメな発想を見直したりもしない。
と言うことで、その家庭なり、その家庭の周囲の、ダメダメな常識を元に、子供を育てることになる。

最初に触れた二極化の問題でも、スタート地点が同じレヴェルだったら、結果としての二極化も、当人として受け入れることができる。しかし、まずもってスタート地点が二極化しているわけ。これは資産とか身分のようなものばかりではありません。もっと精神的な出発点が違っているわけ。

そもそもダメダメな人間は、「避妊するのが面倒。」だったり、「面倒なことは子供に押し付ければいいや!」なんて気持ちで妊娠してしまう。ダメダメ家庭においては「て・き・と・う」だったり、「めんどう」だったりのマイナスの感情を背景として、受精するわけです。つまり受精卵の段階から、二極化されているわけ。これでは将来どうなってしまうのか?あまりに明白でしょ?
そんないい加減な気持ちで妊娠するような人間は、当然のこととして子供のサポートをするわけではないでしょ?というか、子育てを親がこうむった被害と考えているんだから、サポートどころではないわけ。そんな親は、当人なり周辺環境のダメダメな常識を、子供に押し付け、そして、子育てに要した手間への補償を求めることになる。いわば、自由に使える道具としてしか子供を見ていないわけです。以前に配信した表現を使うと「先送りの道具」として子供を考えている。そんな家庭環境の中で、子供としてはどうすればいいの?

つまりダメダメ家庭にいる子供は、まずもってダメダメな親が持っている常識と格闘する必要が出てくる。
それこそ、学歴なり、一般常識なり、マナーなり、歯並びなどの容姿の問題なり・・・
マトモな人間になるために、別の言い方をすると、「ふ・つ・う」の人間になるために、子供自身が渾身の努力する必要があるばかりではなく、その努力を認めさせるために親との格闘が必要になるわけ。
何とかして親を説得しないと、マトモな人間にはなれない。
「ふつうの子供になれ!」という親からの要求に応えるためには、親を説得する必要があるという、何とも矛盾した状況にある。

しかし、その説得の相手たる自分の親は、思考停止で会話の能力がないときている・・・
いったいどうやって、説得すればいいの?

たとえば子供が進学を希望しても、
「オマエは何を贅沢なことを言っているんだ!」「この辺りの人間は、全部高卒じゃないか?」「大学なんて行かなくもいい!」「そんな金はない!」

まさにそんな言葉でオシマイになってしまう。
そのような言葉からどうやって、自分の求める境遇を得るようにするのか?
それは簡単ではないわけ。
それこそ、マトモな人がいる環境だったら、たとえ経済的なハンディキャップがあっても、奨学金を利用したりすることもできる。そして、そんな情報も入ってきたりする。
しかし、地域全体がダメダメだと、家庭のダメダメをケアし、サポートする情報そのものからして、子供は入手できないわけです。

スタート地点がダメダメなので、まずは平均レヴェルの人間になるために大変な苦労をすることになる。その苦労によって、精神的な疲労が蓄積されることは誰でもわかること。
スタート地点のレヴェルが低い状態でも、せめて、親が子供をサポートする気があるのなら、子供としてもそれほど苦労するわけではありません。親自身が、現状の自分たちのレヴェルを認識し、子供が向上するための努力の必要性を認め、サポートしてくれるのなら、肉体的には苦労しても、精神的な苦労はそれほどにはなりません。だって子供が親に対して、「説明」し「説得」する必要はないわけですからね。
しかし、ダメダメ家庭においては、スタート地点のレヴェルが低いばかりではなく、そこから脱却し、向上しようとする努力に対しても、親からの妨害があるので、その疲労感が大きいわけ。

このような問題は、以前にジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」を取り上げた際にも触れました。
スタート地点に問題があると、そこからの脱却に多大の労力を消費し、その脱却の苦労そのものが、その人のアイデンティティになってしまう。そして、そのアイデンティティの理解者を求め、せっかくそれなりの立場に登っても、やがて堕ちて行ってしまうことになる。

前にも書きましたが、スタート地点における二極化と言っても、所得の多寡だけの問題ではありません。
子供の将来へのヴィジョンの問題であり、その達成に対しての親のサポートの問題です。
親が子供をサポートする前提でいるのか?そもそもサポートなんて考えていないのか?
それは出発点のレヴェルの問題以上に重要になってくるわけです。

子供にとって、自分が向上するための努力そのものにも、二極化が起こってしまう。
親がサポートするマトモ家庭の場合には、向上のための努力もスムーズ。
親がサポートする気がないダメダメ家庭においては、子供が向上するための努力自体が困難。

だから、結局は、精神的に疲れ果てたダメダメ家庭の子供は「この門より入るもの、希望を捨てよ!」の境地になってしまう。
あるいは、親譲りの被害者意識を持っているので、やたらヤバゲなことをやるようになってしまう。「オレは社会による被害者なんだから、何をやってもいいんだ!」そんな発想になってしまう。
それこそ政治家の世界でも、たたき上げの人で、色々と贈収賄で逮捕されたりしますよね?
たたき上げの政治家は、世襲政治家とはスタート地点も違うわけだし、自分の地位を上げていくための努力も困難さが伴う。だから無理をする必要がある。

しかし、スタート地点が違うので、ちょっとしたことで、足を滑らしたり、あるいは「なんか・・・あの人は・・・成金的だよなぁ・・・」なんてことになってしまうもの。
権力は持つことができても、義務は持つことができないわけ。そんな人は安っぽい雰囲気。だからどうしてもコケたりするもの。

政治の世界ばかりではなく、ダメダメな環境から出発すると、当人が向上し、マトモな世界に近づくにつれ、常識の乖離が大きくなってしまう。
「自分の親の常識はこんな感じだったんだけど、マトモな世界では、このように考えるものなのか・・・」そんな思いをすることが多くなる。
もちろん、自分の考え方を適宜修正すればいいわけですが、よく言う「三つ子の魂、百まで」のように、子供時代からの常識や考え方の枠組みなんて簡単に変わるものではありませんよ。

だから、どうしてもダブルスタンダート状態になってしまう。
「この人には、こんな常識を元に話をして・・・あっちの人には、別の常識を元に話をしないと・・・」と、非常に気を使うことになる。
しかし、相手によってコロコロと変えるスタンダードとは、「常識」とは言えないでしょ?常識とは、まさにスタンダードなんだから、相手となる人間によって、変えるものではないでしょ?
しかし、相手によって、常識を使い分けることが、ダメダメ家庭出身者には必要になってくる。だからこそ、ますます精神的な疲労が蓄積されてしまう。こんな疲労感は、一般社会と「常識を共有」しているマトモ家庭の人間にはありえないことですよ。
経済的に問題を抱えていて、経済的な地位を共有しているわけではなくても、常識をマトモな一般社会と共有していれば、子供としては対処がラクになる。しかし、ダメダメ家庭においては、経済的な問題だけでなく、常識も外れているわけです。

そもそも結婚なり会社勤めにおいても、親の姿は参考にならない。
だから自分自身で最初の段階から試行錯誤していく必要があるもの。
マトモ家庭の出身なら、親の結婚生活なり、働いている姿を見て、子供としても自分自身の姿を想定しながら、成長することができるでしょ?
ダメダメ家庭では、結婚や仕事だけでなく、友人付き合いなり、勉強する方法なりも、親の姿はまったく参考にならない。
しかし、全部自分ひとりでゼロからやらなくてはならないので、ますます疲れ果ててしまう。

スタート地点の二極化よりも、そこからの努力において、二極化が顕著になるわけ。
逆に言うと、ダメダメなスタート地点に安住すると、その人にとっては精神的にラクとなる。そして、自分の周囲の人間も、そんな同類ばかりだと、ラク。
だからこそ、ダメダメな親は、自分の子供をダメダメにしようとするわけ。
あるいは、このメールマガジンで頻繁に触れておりますボランティアの連中も、そのパターンでしょ?
「アナタは悪くない!」なんて言いながら、人の努力を妨害し、ダメダメな環境を「そのまま」温存しようとするわけ。

そんなダメダメな環境から脱却するための努力が引き起こす精神的な負担が蓄積し、それが後々まで効いてきたりするもの。
サポートがある状況下での努力の負荷と、妨害がある状況下での努力の負荷は、その人にとって全然別物なのは当然のことでしょ?

スタート地点のレヴェルよりも、そこからの努力の負荷の二極化が、後々の一生に与える影響において、大きいわけです。
努力は価値があるものですが、そのために大変な精神的な疲労感を伴う・・・その疲労感が、蓄積した挙句、バクハツして事件を起こしたりする・・・そんな事例は実にポピュラーでしょ?

(終了)
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発信後記

最近は文章が長くなってきてしまっていて、申し訳ありません。
基本的に、50年後や100年後の人にも読んで理解できるように書いているので、どうしても長くなってしまうわけです。
二極化の問題に言及しておりますが、その論点としては、現在の世相を対象としているわけではありません。もっと普遍的なダメダメ家庭の問題であり、その心理です。

まあ、50年後にも、やっぱりダメダメ家庭の問題は起こっているでしょう。
そんな人に役に立てば、これらの文章も意味があるでしょう。
今後50年間に渡って、この文章を超えるダメダメ家庭に関する文章が出てくるとも思えませんしね。
R.10/12/15