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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 08年12月19日
タイトル 書かない人間の意向
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、当たり前のことですが、文章です。
美術でも音楽でもありません。

「そんなこと、わかっているよ!」
「バカにするなよ!」
そうおっしゃりたいでしょ?

まあ、まあ・・・

さて、世の中には文章はあちこちにあるもの。それこそ、本屋さんなり図書館なりに行けば書籍があって、当然のこととして、その本の中には文章がある。
あるいは、このメールマガジンのようなインターネット上の文章も存在する。

ネット上の文章となると、「インターネットの掲示板やブログはどうなるのか?」というと、それはとりあえず、この際は、外して考えて見ましょう。
ここで考える文章は、最初から文章として意識された上で書かれているもので考えます。別の言い方をすると、文章をまとめようという意欲を持って書かれた文章と言ってもいいでしょう。

じゃあ、そんな文章は、いったいどんな人が書いたの?

まあ、色々なキャラクターの書き手がいるでしょう。
しかし、基本的な共通点があります。
それは、文章が書ける人であること。

文章は、文章が書ける人によって、書かれている・・・

そんなことを書くと、

「そんなこと、わかっているよ!」
「たびたび、バカにするなよ!」
また、そうおっしゃりたいでしょ?

文章は文章が書ける人によって、書かれている。
これは論理的には、ほとんどトートロジーであって、無意味に近いもの。このメールマガジンでたびたび言及する「ふつうって・・・ふつうのこと。」というダメダメ人間が実際に言ったりする言葉と近い。

しかし、「文章は文章が書ける人によって、書かれている。」その論理自体は当然のことで、そのことには疑問の余地がないわけですが、ここで別の疑問が生じることになる。

じゃあ、文章が書けない人が書いた文章はないのか?

これも、論理的には、やっぱり無意味な質問ですよね?
文章を書けない人が書いた文章なんてあるわけもない。

しかし、その論理から、さらに疑問を展開すると、別の疑問が出てくる。

文章を書けない人の、その気持ちを書いた文章は、どこにあるの?

文章に限らず、ある種の表現されたものによって、作品の受け手は、作り手の発想なり考え方を知ることができる。音楽や美術より、文章を制作することの方が現実的には簡単。
文章を書けない人の気持ちが、表現された作品はどこにあるの?
文章を書けない人の気持ちについては、人々は何を参照すればわかるの?

こうなってくると、とたんに、シリアスな疑問になりますよね?

そもそもダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。むしろ、自分の感情や希望を抑圧している。だから自分のやりたいこと、そして、相手に対して伝えたいこと、それ自体が存在しない。だから自分からメッセージを発する意欲がない。意欲がないから表現能力も身に付かない。
つまりダメダメ家庭の人間は、自己表現能力が低いことが通例です。表現能力が低いので、やり取りをしても相手から誤解されることが多くなり、ますます「自分はこのことを伝えたい。」そんな感情そのものを抑圧するようになり、だからこそ、ますます表現能力が向上しない。

しかし、ある種、客観的に表現されたものからでないと、他者としては、その人の考え方なんて分かり様がない。この点は現実的に確かでしょ?
じゃあ、自分自身を抑圧し、自己表現が不得手な人の気持ちは誰が表現しているの?どんな文章を読めばわかるの?

このメールマガジンの文章が、かなりの点において、それに応えている・・・と、この私としては考えております。とは言え、私自身も、どっちかと言うと、「書ける側」の人間と言える。
今回の文章だって、それこそ、冒頭をどうする?リズムをどう整える?論理展開に齟齬がないか?なんてことを考えながら書いている。「書けない側」の発想とは基本的に違っている。

このメールマガジンを購読されておられる方の中にも、「この書き手は、色々といいことを書いてくれるけど、それは『書ける側』の論理でもあるんだよねぇ・・・ちーとは、『書けない』ワタシたちの気持ちにも配慮してよ!このタコっ!」と思ったことがある人もいるかも?

この私がタコかどうかはともかく、そんな不満も、相手に伝えるためには、文章化する必要がある。やっぱり何か形にしないと伝わらない。
自己表現ができない人の気持ちは、こんな感じで、世の中から無視されちゃうことになる。

文章の書ける側と、文章の書けない側の「対立?」に近い状態が発生しているのは、大人と子供の問題です。
一般的には大人の方が表現能力が高い。子供は大人に比べると、まさに「書けない側」にいるわけ。だから子供の気持ちが無視され、大人の論理が通ってしまうことになる。

そして、ダメダメ家庭の子供となると、これがもっと深刻になってしまう。ダメダメ家庭の中で抑圧されているので、心理的に書けないし、子供の属性として能力的に書けない・・・この2つの要因が合わさって、何も言えない状態・・・まさに「口なし」状態になってしまう。このことは、以前に「子供に口なし」というお題で配信しております。

巷にあふれる文章は、文章を書ける人によって書かれている。
そして、ダメダメ家庭の人間は、文章を書くという表現の面において能力が低く、実質的には、文章を書くということができない。

つまり、現実的には、巷にあふれる多くの文章を参照しても、ダメダメ家庭の人間の心理はわからないということになります。だって、客観的な文章を書けるという時点で、もはやダメダメの主流とは言えなくなるわけ。

もちろん、ダメダメ家庭出身者でも文章を書ける人もいます。しかし、往々にしてそんな人は、自己弁護的な文章を書いているもの。
「ボクは悪くない!」そして「ボクって、いい子でしょ?」
そんな自己弁護型の文章も多いでしょ?

そんな人は、ダメダメ家庭の現実を、経験的には「見て」、「知って」いても、その自分自身の経験から逃避してしまい、その逃避の精神で文章を書いている。
だから、自分が一番よく分かっている問題といえる自分の家庭には触れようとしないもの。

そんな「ボクって、いい子でしょ?」という雰囲気の文章を読むと思ってしまうのが、「なんだかなぁ・・・」と言うもの。皆さんもそうでしょ?

結局は、ダメダメ家庭の現実を的確に表現した文章は、存在し難くなってしまう。
そうなってしまうと、「どんな文章もオレたちの気持ちを表現してくれないっ!」「ああ!みんなはオレたちのことを分かってくれないっ!」なんてグチりたくなるものですが、文章は文章の書ける人によって書かれている・・・そのことを否定できないように、そんな状態も、避けることができないものなんですね。

だから、どうしても分かってほしいことがあるのなら、「その分かってほしいこと」それ自体を、自分なりに確認して、それを「書ける側」の人に「たどたどしくも」伝えるしかないわけです。上手な文章で直接的に多くの人に伝えようとすると、一生伝わりませんよ。伝えたいことをとにかく伝える・・・その気持ちが必要になってくるわけです。

ダメダメ人間は自分自身に自信がない。だから「上手に伝えなきゃ!」なんて無用なプレッシャーを持ってしまう。そんなことだから、必要以上に配慮してしまい、ますます分かりにくい表現となってしまう。結果的に、相手から「アンタは、結局は、何が言いたいの?」と怒られてしまう。
言いたいこと、伝えたいことがあるのなら、起承転結などの立派な構成にする必要もなく、それこそ箇条書きにでもして、伝えればいいじゃないの?「書ける側」の人は、基本的には読める人でもあるものですから、ヘタな文章でも理解してくれますよ。ただ表現がヘタでも構わないわけですが、伝えたいことが自分でもわかっていないようだったら、怒られちゃうわけですが。

そのような努力もしないと、当人の意向はまったく伝わらないだけでなく、当人が「自分は相手に対し何を分かってほしいのか?」そのことを考えること自体をしなくなってしまう。結局は、ボランティアの連中などの誘導尋問に引っかかって、その手の人にとって都合のいい結論に導かれてしまう。いつのまにかまとめられてしまった結論を見ながら「あれれ?自分が言いたかったことは、こんなことだったっけ・・・」と怪訝な思いをすることに。
そんなことって、あったりしませんか?

実際として、相手に対して、伝える、伝えないの問題はともかく、「何を分かってほしいのか?」くらいは、自覚しておかないとね。そうでないと、不幸な人を弄ぶボランティアの連中のオカズになるだけ。

文章を書けない人の発想や苦悩を表現したり、あるいは理解するためには、一筋縄ではいかない・・・
当たり前のようですが、多くの人は、そのことにほとんど気がついていないでしょ?

最近では、インターネットの掲示板なり、あるいはブログで、安直に自己表現する例もあるようですが、安直にできるものは、中身も安直になってしまうもの。あのような場で、必死に何かを伝えようとしても無理があるでしょ?実際に、参考になるような文章ってないでしょ?おしゃべりはおしゃべりで楽しめばいいわけですが、どうしても伝えたいことがあるのなら、それなりの文章の分量になってしまうもの。だから、掲示板やブログでは無理なんですね。

安直に書いた文章は、文章を安直にしか読まない人にしか読まれない。
これも現実的にそのとおりでしょ?
自己弁護の精神で書いた文章は、同じような自己弁護の読み手にしか読まれない。
そして、自己逃避の人間は、その手の「甘い」文章を求めるので、その需要と供給のマッチングの結果として、「あーでもない、こーでもない。」と、心が弱い人間が求める守りに入った文章や、読み手が傷つかない文章が世の中に多くなる。

逆に言うと、その手のニーズはあるわけだから、世の中には、その手の弁解だらけの文章が詰まった書籍が蔓延することになってしまう。
文章も商業ベースとなると、出版する側の論理に支配されてしまう。
これは現実的にしょうがない。文句を言っても始まりませんよ。

出版された書籍の文章は、あくまで商業ベースにフィットした文章であることに留意する必要があるわけですし、多くの文章を読む際にも、「これは、あくまで、書ける側の論理である。」と注意した上で読む必要があるわけです。そして「書けない側」の人も、間接的でいいから、伝える努力をする・・・そんな必要もあるわけ。
「どうして、分かってくれないの?!」「ワタシたちって、なんてかわいそう?!」と被害者意識に浸るよりも、少しでもいいから伝える・・・そんな意欲から、少しずつでも改善していくのでは?

誰かがやらないと、何も進みませんからね。

(終了)
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発信後記

最近は土曜日にも、文章を配信しておりますが、月曜日、水曜日、金曜日配信の文章とは、趣を変えた文章にしております。
今までは特定の事件なり人物を取り上げたりしておりますが、明日は、人物や事件ではなく、トピックス的なマターを取り上げます。
最近ちょっと議論になっているツールの問題ですが、その最近の話題には直接は対応しておりません。

今回の文章とは微妙に関係しております。
文章の出来不出来はともかく、ある種の覚悟が必要・・・そんな話です。
R.10/12/16