トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る | 韓国・北朝鮮問題のトピックス(その3) |
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カテゴリー | 信頼と好意の諸相 | |
配信日 | 09年1月5日 (10年9月17日 記述を追加) | |
タイトル | 感情の強制 | |
ダメダメ家庭の人間は、「好意を信頼」の区別が付かない。 この点については、たびたび触れております。 人から信頼されるように自分自身を律するなんてことはせずに、人からの好意を求めて、「ワタシを好いてよ!」と他者に絡むばかり。 しかし、他者からの感情なんて、本来はどうしようもないことでしょ? しかし、どうしようもないがゆえに、ダメダメ人間にしてみれば、それしかないわけ。 当事者意識がないダメダメ人間にしてみれば、自分自身で対処可能である方法の方がイヤなんですね。 だからあらゆるトラブルを全部人のせいにしてしまって、相手の側の問題を修正しようとするわけ。 それこそ、「年長者を敬え!」なんて相手の感情を強制するよりも、その人を立派な業績を上げているお年寄りでも会わせて話を聞かせれば済む話。そうすれば「ああ!あのお年寄りは、こんなことをやって、立派な成果をあげたんだな!」と自然に思うことになりますよ。そうなると、「敬え!」なんて命令されなくても、敬意を持つようになるでしょ? しかし、ダメダメ家庭の周囲は、やっぱりダメダメ人間が多い。そんなところにいるお年寄りも、当事者意識がなく、被害者意識だけがあるダメダメ老人。いわゆる因業ジジババの類。そんな老人だからこそ、具体的な成果や能力が何もない。示すにたる具体的なものが何もないがゆえに、「お年寄りを敬え!」「オレはスゴイんだ!」と一般論で命令するしかない。 しかし、現実的には、そんな命令を受けても、「はい!じゃあ、アンタを敬います!」とはならないでしょ? 同じようなことは、それこそ教育の場でもありますよね?ダメな国ほど愛国心教育に比重がおかれている。しかし、感情というものは強制できませんよ。しかし、愛国心教育を批判する教員が、教育の現場では「先生を敬え!」と生徒に対し感情を強制する始末。 まあ、国家なり教育現場でもあるんだから、ダメダメ家庭では、こんな感情の強制は当たり前のように行われているもの。 それこそ、よく児童虐待の事件があった後で、暴力を振るった親が、「子供が懐かないから殴った!」って言っているでしょ?殴れば懐くという発想は、ある意味においてシュールですが、同じような感情の強制は、学校教育でもやっているんだから、程度問題は別として、ダメダメにはポピュラーな発想と言えるわけです。 家庭だと、ダメダメな親ほど「親を敬え!」と子供に厳命するでしょ? しかし、そんな親ほど「じゃあ、具体的には、どんな点が尊敬に値するの?」なんて聞いても答えられないもの。そんな質問に対しては「オマエを育てるために、ワタシの人生を棒に振った!」「オマエのために、多くのお金を使った。」と被害を語るばかり。しかし、子育てによる被害者だからと言って、それがどうして敬意に結びつくの? 感情というものは、他者に強制すればするほど、やっている姿は道化そのものになっていくわけ。 ビジネス上の「行動」なり「役割」だったら、強制するのも当然でしょう。そのような場合には「やることをやれば」いいだけ。やっている人が、どんな感情なのかはどうでもいいことでしょ?行動が問題になるわけでしょ? やることをやれば、当人が何を考えていても、一向に構わない。 それくらいの割り切ったスタンスでないと、相手から気持ち悪がられるだけなんですね。 それこそ韓国人は日本人に対して「韓国人を敬え!」なんて命令してきますよね?そんな言葉は、実に気持ち悪いでしょ? 自分のやりたいこと、達成したいことが明確になっていれば、周囲の人の感情が問題になるわけでもなく、行動が問題になるわけでしょ?しかし、当事者意識がない場合には、「他者の行動が自分の目標達成にどのように役に立つのか?」そんな判断はできないわけ。だから感情面ばかりに注目し、挙句の果てには「アイツはオレを嫌っているから・・・だからうまく行かないんだ!」と犯人認定に結び付けてしまう。 たとえ、その人が自分を嫌っていようと、「やってほしいことを、やってくれれば」それでいいじゃないの?そんな割り切ったスタンスだったら、逆に嫌われませんよ。 さて、以前に日本の「やんごとない」ご家庭でのトラブルについて取り上げたりしたことがあります。 「親子だから、家族だから、もっと頻繁に会いに来い!」・・・とか何とか・・・ 「お側の人」が「苦言」を呈していたとか。以前にありましたよね? あのやんごとない方々は、いわば身分が仕事でしょう。 あの身分は、どんな国においても、歴史的に見れば、親子同士、兄弟同士で、殺し合いをやってきた人たちですよ。 家族は仲良く・・・なんてこととは一番無縁な家族ですよ。家族が仲良くしたいのなら、平民にならないとね。 しかし、その身分の人でも、何も無理にいがみ合う必要はありませんよ。特に平時においては、仲良くすればいい。しかし、重要なことは家族が実際に仲がいいことではなく、平民に対して「あのご家族は仲がいい。」と『見せる』ことでしょ?だって、それが彼らの仕事なんだから。 「家族だからもっと頻繁に来訪してよ!」なんて要請するよりも、いわば仕事上の上司として、「立派な家族の姿を外の人たちに見せるために、もっと頻繁に来訪しなさい!それが君たちの仕事だ!」と命令するのがスジというもの。 逆に言うと、そのように明確に命令された方が、言われた方もわかりやすいでしょ? だって、仕事として、「仲良し家族の姿」を『見せなさい』と言われただけなんだから、そのように演技すればいいだけ。感情を強制されているのではなく、演技を強制されているだけなんだから、「それがワタシのオシゴトなのね!」と割り切れますよ。 そんな明確な態度なり命令が、逆に、信頼につながっていくわけでしょ?それだけ、命令した人が当人自身なり周囲の人たちの立場を理解していることもわかるわけですからね。 信頼ができれば、好意になって行くこともあるでしょう。 好意のような感情が先にあるのではなく、明確なヴィジョンなりグランドデザインが先にあった方が、周囲の人間も対処はしやすいわけ。感情は当人でも何ともなりませんが、行動については制御することも可能。だから、言われれば対応できる。 ダメな人は、最初に感情の問題が出てくるもの。 そして、その最初の段階でコケてしまうと、次に進めない。 だから、自分に対し好意を持つように強制しようとする。 その強制が、相手方には、ますます不快感につながってしまう。 こんなシーンは、どの時代にも、どの国にも、どの身分でも、ダメダメの領域では、頻繁に起こっているものなんですよ。 ちょっとしたやり取りでも、まずは感情の結びつきから始めよう・・・そんなパターンの人もいたりします。 そんな人は、その感情の結びつきでコケてしまうと、何もできなくなってしまうもの。 それこそ、ビジネスの世界においても、やり取りのかなり早い段階で、一緒にお酒を飲んだり・・・そんな席があったりしますよね? それは、何も「好意を持ってほしい。」ということではなく、「今後はフランクにやっていきましょう。」・・・という意味でしょ? もし、今後のやり取りにおいて「行き違い」が生じても、こんな場を、また設定することによって、適宜修復を図りながら、やり取りしていく・・・そんな意図が、その種の行事でしょ? そうやって、本音ベースでやり取りにおいてトラブった場合の、リカヴァリーの手法を示すことによって、その後は、安心してやり取りができるようになるわけでしょ? お酒を飲んで、楽しいやり取りをしたから、好意を持ってもらえる・・・そういうものではないわけ。 それなりの信頼関係ができている状態だったら、その種の行事で、好意に繋がることもあるでしょうが、信頼関係がまだできていない段階では、本来の趣旨は、トラブルからのリカヴァリー方法の確認なんですね。そうやって、信頼関係の構築につなげていくわけ。 しかし、逆に言うと、信頼というものを本質的には理解していないダメダメ人間にしてみれば、その種の行事も、好意を得るためのものと考えてしまっている。 だから、相手が好意を持たなかったら、「こんなにしてあげたのにぃ〜」と、ヘタをすれば被害者意識を持つことになる。 何度も書きますが、本来は、信頼関係ができているからこそ好意となっていくわけで、人との間でまずは構築しなければならないのは、信頼関係なんですね。 個人的なことになりますが、ある人から「あの人たちは、本当に『いい人』だから、アナタもあの人たちを好きになってください。」と要請されたことがあります。 まあ、この私も、「いかにも」な態度だったわけですが・・・ しかし、何度も書きますが、信頼関係が何もない段階で、「好きになってくれ。」と要請されても、対処はできないでしょ?そして、信頼関係の基本は、相互理解でしょ? 相互のやり取りの積み重ねが、信頼に繋がるわけでしょ? 命令が一方方向で流れるだけの状況で、信頼も何もないでしょ? とりあえず、被支配者として、支配者の命令には従うというだけ。 まあ、支配する側の識見や能力が卓越したものだったら、それなりの敬意を持ち、それが信頼に繋がっていく・・・そんな流れは、実際にあるでしょう。 しかし、それはやっぱり好意とは違うでしょ? 「好きになってくれ。」と要請する類のものではないでしょ? 逆に言うと、周囲のものを感服させるくらいの業績を示せば、好意を要求しなくても、敬意や信頼に繋がっていくでしょう。 人から好かれようと、「いい人」アピールする人は、まさに「いい人」とアピールするために、相手に対して厳しいことは直接的に言わないもの。 だからこそ、やり取りの相手が変わると、言うことが変わってしまったり、あるいは、陰でコソコソとしたりする。 好きになってほしいとの希望がなかなかかなえられない状態になったら、媚を売るような姿を見せて、ますます気持ち悪い様相を呈してしまったりする。 そんな姿は、敬意とは無縁ですし、当然のことですが、信頼とも無縁でしょ? 信頼と無縁どころか、実際は、侮蔑に繋がっていくものでしょ? しかし、好意を求める人間は、「こんなに下手に出ているのにぃ・・・」と、被害者意識が膨れ上がり、結局は逆切れする始末。 何も、相手に対して下手に出なくても、信念と尊厳に基づいた行動をすればいいだけ。 そして、その人なりの意向を、相手に配慮した形で丁寧に伝えればいいだけ。 それをしないから、信頼されずに、結果的に嫌われてしまうんでしょ? 信頼というものは、「気に入るか、気に入らないか?」の問題ではなく、一本筋の通った態度がまずは必要でしょ? しかし、当事者意識がないダメダメ人間にしてみれば、その一本筋が通った態度というものが一番難しいわけ。 だからこそ、やり取りの相手に対して、「ワタシを好いてよ!」と要求することになる。 逆に言うと、そんな要請をするような人は、信頼というものを理解できないし、敬意に足る具体的な業績を示すことができない人間であると自分で言っているようなものなんですね。 相手が感服するような業績や識見を示すことは誰もができることはないでしょう。 しかし、一本筋を通した態度でいることは、知的な能力の問題ではないでしょ? 信念を持って、自分の考えや行動に責任を持っていれば、それなりの筋になりますよ。そんな筋があったら、逆に言うと、すべての人に「いい顔」というわけにはいかないでしょ? だから、「あの人たちは、本当に『いい人』だから、アナタもあの人たちを好きになってください。」という要請そのものが、まさに、嫌いになる原因を如実に語っていると言えるわけです。現実的には、「いい人」というのは頼りになる人ではないし、信頼できる人でもないでしょ?おしゃべりにはフィットしていても、会話はできない人とも言えるでしょう。 だって、その言葉に「重み」がないわけですからね。 信頼というものを理解できないダメダメ人間は、相手から好意を持ってもらおうと色々と行動し、逆に相手から怒られたり、ヘソを曲げられてしまって、今度は当人がパニックになる。 大人同士でも、そんなことはあったりしますし、大人と子供だと、まさに児童虐待になってしまうわけです。 まさに、「懐かないから、殴った。」なるお約束の文句になってしまうわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 何でも、例の「ガセメール事件」の永田元議員が、自殺されたとのこと。 ちょっと前に未遂騒動があったばかりなのに、周囲は何をやっていたの? トラブルの後の周囲の対応によって、ますます当人が絶望してしまうことは、以前にこのメールマガジンで書いています。 ということで、今週の土曜日には、この内容を考えてみたいと思っているところです。 まあ、ダメダメな周囲は、困難を抱えた人間に対し「死ぬな!」と命令をすることはあっても、当人の苦悩を真摯に聞いたりはしないもの。だからこそ、「やっちゃう」わけ。 |
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R.10/9/17 |