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カテゴリー | ダメダメ人間の自己逃避 |
配信日 | 09年1月9日 |
タイトル | 内より外 |
以前に「外国人にも覚えやすいように、子供の名前を外国風の名前にした。」なる考え方について言及したことがあります。 そんな考えはともかく、そんな「外国人にも覚えやすい外国風の名前」を持つ日本人を、マトモな外国人は、信頼するのか? そんなことについて、考えております。 外国への配慮だったら、むしろ「こんな名前だと、日本では一般的だけど、その国では、『口に出すのもはばかられる』ものを指す。」とかの場合には注意する必要があるでしょう。 あるいは、その国においては何か特殊な意味があって、そのスジと思われてしまう・・・そんなこともありますよね? たとえば、最近では、子供の名前に「しおん」なんて名前を付ける人もいるようです。発音などの「子音」から取っているつもりなのかな?それこそ以前に言及した日本のアニメ「ひぐらしのなく頃に」でもそんな登場人物がいました。しかし「シオン」となると、ユダヤ的には、「ユダヤ人の帰還の地」のような意味になるのでは?シオニスト運動なんてありますからね。シオンとユダヤとのつながりなんて、キリスト教徒、つまりほとんどのヨーロッパ人だったら、誰でも知っていますよ。 その親が、シオニスト運動に共感しているのなら、そんな名前もありでしょう。 しかし、日本人がシオニスト運動に共感してもねぇ・・・ ヨーロッパのキリスト教徒も怪訝に思いますし、ユダヤ人だって、怪訝に思いますよ。 そんなにシオニスト運動に共感しているのなら、日本を離れて、さっさとイスラエルに行けばいいだけ。シオンという言葉と、キリスト教の関係を知らないで、その名前を付けたのなら救いようがない無教養でしょう。そんな親は子供にとっては色々な意味で迷惑な親。たとえば、将来イスラム圏で活躍してほしいからというお題目で、自分の子供にマホメットという名前をつけたら、イスラム圏の人からは逆に相手にされませんよ。そういうものでしょ?日本風の名前で、ヨーロッパ人に怪訝に思われても、これはしょうがない。単に文化圏が違うだけ。しかし、わざわざ外国風の名前をつけて、それで外国人に怪訝に思われたら、バカですよ。 それこそ、ドイツ人に覚えやすいように、自分の子供の名前を「アドルフ」とした日本人がいたら、まあ、確かに「覚えてもらう」には有効でしょう。 しかし、それでやり取りが進むというものではないでしょ? 日本に在住しながら、外国風の名前って、どうなっているの? 外国風の名前もその人の判断だけど、逆に、その外国人から怪訝に思われてしまう・・・そんなこともあるわけ。 しかし、そもそもダメダメ家庭の人間は、現実逃避。 当事者意識がないので、自分で現実を直視し、その問題を解決していこうとは思っていないわけ。 何かトラブルがあると、スグに純然たる被害者の立場にたってしまい、「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くだけ。 そんな人だから、現実を見る必要もないし、見たくもない。 そんな人は、まさに自分の直近の問題から目を逸らすために、内の問題よりも、外の問題に目を向けるようになるわけ。 それこそボランティアの連中なんて、その典型でしょ? 自分自身の問題を見たくないから、他人の問題に首を突っ込む。 それも、わざわざ外国に出かけて行く始末。 そうやって、上からの立場で「オマエに恵んでやる!」態度。 そのようなボランティアの発想は、それこそ、身近なクラスメートの困りごとを放っておいて、ご立派な活動をやりたがる若い人にも共通しているでしょ? 自国よりも外国となると、それこそ名前や援助だけでなく、それこそ自分探しの旅なんてその典型でしょ? 自分というものは、いつも自分と供にあるもの。 どうしてわざわざ海外に? 海外旅行に行く理由だったら、単に、「遊びたい」とか、「その国で見たいものがある。」でいいじゃないの? どうしてわざわざ「自分探し」なんてお題目を付けるの?もっとも「内」の存在である自分自身を「外」に探しに行くから、胡散臭いわけでしょ? そんな人は、それこそお箸の使い方が怪しかったりするもの。 日本人だったら、ナイフとフォークが使えなくても、とりあえずお箸が使えないとマズイでしょ?いつもナイフとフォークで食事をしているわけではないんだから。 あるいは、そんな人は、日本語もあやしいのに、外国語の習得を考えたりするもの。 まあ、日本在住のそれなりの地位にある日本人で、英語は自在に扱えても、漢字の読みを頻繁にしくじると、実際に阿呆に見えるものでしょ? それなりの立場に登るまでに、どんな本を読んだり、どんな人とやり取りしてきたの? 漢字の読みの間違いは、そんなことを雄弁に語っているものでしょ?それは学力の問題というよりも、その人の問題意識のレヴェルなり、周囲の人のレヴェルなり、やり取りのレヴェルを示しているわけです。 外の問題と向き合うにせよ、まずは個人として精神的に自立してからでしょ?その国に移住を考えているのなら、それもいいでしょうが、ダメダメな人は、自分で考えることから逃避するために外に目を向け、個人としての自立のための努力からの逃避をしたがるわけ。 身近なものとのやり取りができないからと言って、スグに外に目を向け、期待してしまう。 外ばかりに目が行き、逆に言うと、内のことは配慮しない。たとえばイラクへ行ったボランティアたちは、イラクを助けるためには、日本人にはいくら迷惑をかけてもいいと思っていたでしょ?そんな人間は、自分の実家には迷惑をかけられないと強迫的に思っているもの。だからこそ、遠くに出かけることになる。自分の身近な問題がアンタッチャブルになっている状態であり、そんな人は、身近な問題を指摘されると、逆上したりするもの。 前回に配信しましたが、自分の子供との関係がうまく行かないジジババは、今後は孫に期待するようになってしまう。より遠くにものに目が行ってしまうわけ。 そんなジジババは、今度は、あの世に期待することになる。 それこそ「立派な戒名」をほしがったり・・・ 現実を改善するためには、現実を真摯に見なくてはいけないけど、「幸福なあの世」だったらお金を出せば買えるでしょ?自己逃避の人間には、まさに天国ですよ。 しかし、その立派な戒名を買うために、お金をケチりまくり、身近にいる周囲の家族が大迷惑・・・それが現実でしょ? 外ばかり見ている人は、身近なことは考えない。 外国風の名前を持つ子供は、やっぱり日本語がヘタなことが通例でしょ? お箸の使い方がヘタな子供は、やっぱり日本語がヘタなことが通例でしょ? その手の人は、身近なものを軽視するという発想では一貫している。 そして、もっとも身近な存在である自分自身から逃避している。 そんな家庭で育ったのなら、それを自覚するしかないわけ。 しかし、まさに身近なものから目を逸らす家庭の出身なんだから、実家の問題に目が行きにくい。 結局は、「あーでもない!こーでもない!」と文句ばかり言い続けて、ドッカーンとなってしまう。 そうして、事件が起こった後で、やっぱり「外国風の名前」に注目が集まる・・・そんな事例は、実にポピュラーでしょ? 自己逃避の人間は、その発想が常に「内より外」に向いている。 そんな人の珍妙な行動は、離れた場所から笑って見ていればいいだけ。 以前より書いていますが、そんな人の「身近な」人間になったら、とんでもない事態になるだけなんですね。そうして、実際にトラブルになると、「内よりも外」のボランティアの連中が寄ってくる・・・そうして、ますます、トラブルが深刻になる。 考えてみれば、当然の流れでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 フィンランドの映画監督のアキ・カウリスマキさんの作品に「ラヴィ・ドゥ・ボエーム」という映画があります。同じ原作だと、プッチーニのオペラが有名ですよね。 そのプッチ−ニのオペラ「ラ・ボエーム」は、パリに集うボヘミアンたちの哀歓を歌い上げた、オペラ史上もっとも人気があるオペラ。 プッチーニのオペラがボヘミアンたちの『哀歓』を描いているのに対し、カウリスマキの映画だと『哀愁』を描いている。モノクロの画面で切々と、哀愁が描かれていて、日本人・・・というか、一昔前の日本人好みの作品と言えるかも? 冬のパリを舞台にした作品ですが、そのエンド・クレジットでは、突然に「雪の降る町を〜♪」と日本語の歌が流れる。 モノクロで哀愁に満ちた映画が終わって、「雪の降る町を〜♪」と続くのは、日本人にとっては、実に自然な流れですが、その映画はパリを舞台としたフィンランド映画。登場人物はみなヨーロッパ人だし、セリフだって確か英語じゃなかったのかな?突然に現れた日本の歌をヨーロッパ人はどう思うんだろう? もちろん、アキ・カウリスマキさんは、そんなヨーロッパ人にとっての外国風の表現を、ちゃんと計算してやっているわけですが。 予報によると、本日金曜日は関東で雪が降るようですが、気をつけてくださいな。 |
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R.10/12/16 |