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カテゴリー 事件の前
配信日 09年2月2日 (11年1月22日 記述を追加)
タイトル ノー被害、ノー思考
よく、「No Pain ,No Gain 」なんて言われたりします。
ちょっと前には、アメリカに渡った日本の野球選手が言っていました。
痛みや苦しみもなくては、何も得るものはない・・・そんな意味と言えるのかな?
まあ、くだいて言うと、「ラクして、いい結果は得られないよ!」となるでしょう。
自分を鍛えてくれる、そんな「苦痛を愛せよ!」
・・・なんて言葉は、それこそ以前に取り上げたジョディ・フォスター主演の「羊たちの沈黙」という映画にも出てきました。あるいは、19世紀のニーツェの哲学の根幹につながるもの。

苦痛というものも、自分を鍛え、高めてくれる面がある・・・これは確かでしょ?
このことは以前に取り上げましたエーリッヒ・フロムが言及しているマゾヒズムとは違っています。マゾヒズムは「拘束されることが快感となる心理」と言えます。だから思考を拘束され、行動を拘束されることを求めることになる。それに対し、自分の目的を達成するために必要な苦痛なら、思考を拘束しているわけではないでしょ?

目的意識なり向上心があると、そのように、苦痛というものも前向きに捉えることができるわけですが、ダメダメ人間には向上心なんてものはない。そもそも当事者意識がないので、自分が主体となって物事を解決して行くつもりなんて全然ない。だから自分自身が向上する必要もない。
ダメダメ人間が持っているのは、被害者意識だけ。

そんなダメダメ人間は、「No Pain ,No Gain 」ではなく、「ノー被害 ,ノー存在」のような感じになっている。
被害があるから、その人も存在する・・・被害がなければ、その人は存在感が何もない・・・そんな状態になってしまう。

自分に、実際に被害が及んできたら、大騒ぎする。
しかし、自分に被害が及ばないように、事前に対策を取ることはしない。
被害がなければ何も始まらない。
ノー被害状態だと、ノー思考だし、ノー・アクション。ノー思考だから、ノー会話であって、当然のこととして、ノー・人付き合いとなる。だからノーというか、ゼロレヴェルの存在感になってしまう。

それでは自分でもつまらないということで、逆に言うと、被害が起こるのを、内心では待ち望んでしまう。
そうして、実際に被害者になると、「おお!ワタシは、なんてかわいそうなの?!」と周囲に高らかに宣言することになり、自分の被害を滔滔と語り続けることになる。

実際に被害を受けなくても、そんな人は、ちょっとしたことでも自分がこうむった被害と捉え、大騒ぎ。
「まあ!なんてヒドイことをするの?どうしてそんなヒドイことを言うの?」

しかし、その「ヒドイこと」と言っても、実際には、「で、アンタは結局どうしたいの?」なんて質問を受けたことだったりする。そんな質問でも自分がこうむった被害と捉え大騒ぎ。

しかし、「自分が被害を受けた」という実感がない状態では、自分の存在感が自分でも感じられないんだから、何でもかんでも被害と捉えてしまうのはしょうがない。
被害がない時には、思考もないんだから、逆に言うと、思考があれば、それすなわち、自分の被害を考える時だけ。
言われてみればそのとおりでしょ?しっかし、我ながら、なんて明晰な論理だろう!

以前にも書きましたが、そんな人は結婚後になって、結婚相手が結婚前にやっていた行動についてグチったりすることになる。
「あの人は、結婚前には貯金が全然なかった。」
「デートをしてもつまらなかった。」
「義母がいやみな人だった・・・」
「結婚前から何かと乱暴な人だった。」

しっかし、そんなグチを聞かされても・・・どうすればいいの?
そんな「しょうーもない」相手とは、結婚しなければいいじゃないの?

しかし、ダメダメ人間は、実際に自分に被害が及ばない限り、何も考えない。それこそ、結婚したら、その相手に「貯金がなかった」ということでも、夫婦になった間柄だったら、被害とも言えるでしょう。しかし、ただ付き合っている段階では、それは被害とは言えないでしょ?だからこそ、貯金がまったくないような人間と平気で結婚し、後になって、「なんて困ったこと!この人は貯金が全くないわ!」と大騒ぎする。「この人には貯金がない!」という状況を被害と認識しても、「貯金がない人と結婚してしまった自分のミス」とは認識しない。ただ、相手を恨んでいるだけ。

あるいは、それこそ、近所の子供が騒いでいると大声で怒鳴りつけるような人と、子供を作ってしまい、そのできてしまった子供が泣いていたら、やっぱり怒鳴りつけるだけなのは、当然のことでしょ?
しかし、近所の子供を怒鳴りつけることは被害として認識しないので、何も記憶に残らない。しかし、自分たちの子供を怒鳴りつけると、相応に被害と認識することになる。
だからこそ、「子供に対して乱暴だ!」という言葉で周囲に嘆くことになる。
しかし、そんなことは、近所の子供に怒鳴っている時点で、誰でも予想できることですよ。
しかし、被害という状況でないと、何も認識せず、何も記憶に残らないんだから、実際に子供を作って、その子供に対して怒鳴った段階で初めて認識することになる。

あるいは、それこそ、ある男性が離婚して、前の妻への慰謝料をケチったりする。
そんな姿を見ながら、次の妻になり、結局は、離婚ということになる。
そして、今度は自分が慰謝料をケチられる。
そうなって初めて、「ああ!あの人は十分な慰謝料を払ってくれない!なんてケチな人だ!」と大騒ぎするだけ。

被害が実際に起こってから大騒ぎするだけなので、将来の自分の被害を予想することすらしない。被害者意識があっても、「被害に対する嗅覚」はないんですね。
そんな人間が出来ることは、結局は子作りくらい。そして自分の被害を語る相手は、その子供だけになってしまう。
そうして、万感の思いを込めて自分の被害を語ることになる。
結婚後に結婚前のことについてのグチを語るそんな人は、子供に対して「あ〜あ、産むんじゃなかった!」「オマエを産んだせいで、とんでもない目に!」とグチることになるのは当然のこと。

あるいは、家事に対して非協力的な夫との間に子供を作っておいて、子供ができたら「夫は子育てに非協力的だ!」と嘆きだす。
そんな悲嘆の声を聞かされても、いったいどうすればいいのさ?
そんなことは、子供を作る前から分かっていたことでしょ?
しかし、被害者意識があっても、被害に対する嗅覚がないのがダメダメ人間。
だから、何も考えずに、突っ走ってしまって、後になって嘆きの声を上げるだけ。

それが唯一自分の存在を実感できる時間だから、しょうがない。
被害しか、語るものがない。だから被害を受ける境遇が、内心では、大好き。
被害への親和性が強いんですね。

と言うことで、その手のキャラクターを持ち、ちょっとアタマが働く人間は、他人の被害に首を突っ込むようになる。
そうして、他人の被害に関わることで、その他人の被害が、自分の会話のネタなり、自分の存在感を得ることになる。
まあ、このメールマガジンで頻繁に触れておりますボランティアの連中です。
そんなボランティアは、被害がないところに、存在感はない・・・という点は、ボランティア「対象者」と共通しているので、被害が発生するそんな状況を温存しようとする。
実際に、あの手のボランティアって、「アナタは悪くないわ!」なんて言うばかりでしょ?

しかし、事態を本当に改善するためには、「悪くない」・・・つまり「アナタはこのままでいい。」「何もしなくていい。」のではなく、「アナタがやりたいことは何?」から入らないとダメですよ。その達成したいものの実現のために協力するのが、本来のボランティアの意義じゃないの?しかし、そのことはボランティア自身にも分かっていない。と言うかそこから逃避している。逃避先がボランティアの現場と言うだけ。

まあ、ボランティアの連中はともかく・・・
実際の被害がなければ、何も考えないということだったら、当然のこととしてうまくいきませんよ。

離婚の相談を受けるといつも思うんですが、結婚前に、その相手との関係について考える時間と、結婚後に、その相手との関係について考える時間の合計は、どんな人でも同じような時間なんですね。
ダメダメな人は結婚前には何も考えずに、結婚後になって、相手についてウダウダ考え、「離婚しようかなぁ・・・」と言い出すもの。そうして離婚したら、また相手について何も考えずに別の人と結婚して、またまた結婚後になって、相手についてウダウダ考えだす。
どうせなら、結婚後になって、相手ついてウダウダ考えるよりも、結婚前にじっくり、相手について考えた方がいいんじゃないの?
しかし、当事者意識がないダメダメ人間は、実際に結婚して、「うまく行かない」、つまり被害が顕在化しないと、何も考えない。

ダメダメ人間は、結婚前に「自分はこのような人間で、相手はこのような人間である。そして将来的にはこんなヴィジョンを持っている。」そんな形で結婚前に相談を持ちかけることなんてできない。
そもそも、自分自身がどんな人間なのか?何もわかっていないし、
相手についても真剣に考えない。
そして将来のヴィジョンなんてご立派なものは持っていない。
だから、結婚前に相談しようもない。

結婚して、うまく行かない点が出てきて、やっと結婚生活について考え出す。
「こんなイヤな人だった!」
「あんな不快な目にあった!」
「ああ!どうしてこんなことに?!」

このようなことは、ダメダメの集約地といえる韓国では、いつもやっているでしょ?
大統領を何も考えずに選んでは、後になって「こんなに不都合なことが起きてしまった!ああ!オレたちは、あの大統領による被害者だ!」と被害者意識を爆発させ、そして大統領を刑務所送り。

そんなことをいつもやっているでしょ?
本来なら、大統領を選ぶ際に、もっと真剣に考えて選ぶのがスジというもの。
しかし、当事者意識がないので、そんなことはしない。
そして実際に被害が発生したら、大騒ぎする。

まさにダメダメ家庭の離婚相談とまったく同じ流れとなっている。
ダメダメって、そのフィールドは色々あれど、その様相は意外なほどに、よく似ているもの。
「ノー被害 だと ノー思考」という点においては、実に共通しているものなんですよ。

被害への嗅覚は、被害者意識から生まれるのではないわけです。
当事者意識があるから、被害への嗅覚が発生するものなんですね。

(終了)
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発信後記

トラブルが起こった場合において、その問題を倫理的に考える方法もありますが、このメールマガジンでは、主に「心理的」に考えております。

たとえば、ドメスティック・ヴァイオレンス(家庭内暴力)の問題ですが、妻に暴力を振るう夫は、倫理的に問題でしょう。しかし、結婚前から暴力を振るわれていて、そのまま結婚してしまい、結婚後も暴力を振るわれる・・・という状況においては、「心理的な」面からの考察が必要になってくるわけ。

だって、結婚前のそんな状況がどんな結果をうむのか、ちょっと考えれば、誰でもわかることでしょ?
その「考える」こと自体から逃避する・・・そんな抑圧的な心理の問題を抜きにして、事態の認識も、改善もありえないわけ。

あるいは、本文中にも触れておりますが、「夫は子育てに非協力的だ!」というグチも同じ。
子供ができる前から、というよりも、結婚前から、何事も非協力的だった人が、サウロがパウロになるくらいの劇的な改善をするとでも思っていたの?そんなことを、本気で「考えて」いたの?
そんなことはキリストだって無理ですよ。
結局、「考える」ことから逃避してしまうわけ。

そして、子育てに非協力的なり、妻を殴るという倫理の問題にしてしまう。

昨日、福島県で17歳の高校生の女の子が、自宅で子供を出産し、その子供を殺してしまった事件が報道されていましたよね?親は、娘の妊娠に気がついていなかったとか。

17歳での出産となると、いわゆる性道徳の問題が登場してくるものです。
「高校生が性交渉をやっちゃイカン!」そんな考え方。
いわば倫理的な視点です。

そんな考え方以外にも、心理的な観点があるわけです。
だって、ちょっと考えれば、そんなことをしていれば、どうなってしまうのか?わかるでしょ?
子供がほしいのか?ほしくないのか?
欲しくないのなら、避妊をすればいいだけ。
いつも書いていますが、まさに「で、結局、アンタはどうしたいの?」それが問題。

トラブルが発生する背景には、現状を認識し、将来について判断することから逃避している、という心理的な問題もあるわけです。

倫理の問題を軽視するつもりではありませんが、倫理の問題ですべてを認識しようとすると、心理の問題がおざなりになってしまう。
倫理的な視点は、いわば加害者に対して適用され、心理的な視点は、いわば被害者に対して適用されると言えるでしょう。被害者意識が強いダメダメ人間は、だからこそ倫理的な視点を強調し、他者を犯人認定し、つるし上げを行うようになってしまう。
そして「ワタシはかわいそうな被害者だ!」と自分を憐れむばかり。

しかし、事態を自分で認識し考えないと、まさに福島県での女の子のように、結局は加害者になってしまう。トラブルが発生するダメダメな領域においては、被害者と加害者は、実はそんなに明確には分かれない。だからこそ、そんなダメダメな領域から避難するしかないわけ。
R.11/1/22