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配信日 09年2月11日 (10年8月26日,11年2月2日 記述を追加)
タイトル (笑)の使い方
このメールマガジンで、たまに笑いに関するお題を取り上げております。
私宛のお便りに興味深い表現があったので、色々と考えることがあったんです。

その表現とは、
 『私の方の問題ですか?(笑)』
・・・なんて表現です。ちなみに、上記の文言の『私』は、お便り、というか抗議のメールを出した方にとっての『私』です。メールマガジンを発行しているものにとっての「私」ではありません。
発行者たるこの私の文章が、その方の痛いところを突いてしまったらしく、「ワタシの方が悪いんじゃないわよ!」と、おっしゃっている・・・わけですよね?
まあ、いつものって、ヤツ。

まあ、おなじみの光景と言えるんですが、じゃあ、この文章中の(笑)って、どういう意味なんだろう?日本語的にも、心理的にも。
そんな疑問点から、ダメダメ家庭の人間と笑いとの関係について見えてきたんですね。

上記の(笑)は、たぶん、この発行者たる私の知的レヴェルの低さを笑っていらっしゃるつもりなんでしょうね。
「オマエは、こんなことも分からないのか?まったくバカなヤツだ!ワハハ・・・」という意味の(笑)なのでは?
いやぁ・・・知性のレヴェルを笑われてしまったヨ!!
この私も、「自分はそんなにアホだったんだねぇ・・・」と、実際に苦笑い。

しかし、そのお便りの文章は、典型的な逆上メールのスタイルであって、日本語の文法なり起承転結のまとまりも・・・お世辞にも、上手な文章とは言えない。
別の言い方をすると、自分の考えを伝達することよりも、とにもかくにも相手を笑おうと必死になっている文章といえるでしょう。
当人としては、自分には知性があると思っているのかもしれませんが、残念ながら、その文章には知性の欠片もない状態。
相手を笑う前に、自分の文章を彫琢した方がいいのに・・・

それはさておき、ダメダメ家庭の人間は、自分から逃避している。だから自分自身に関したマターに話の中身を振られると、まさに逆上したり、猪突に笑いだしたりして、それ以上進展することを阻止しようとする。

以前にも書きましたが、自分自身を笑うのはアリでしょう。そんな姿は精神的な余裕を感じさせてくれますからね。
それこそ上記の文言だって、
『私の方も、問題ですねぇ・・・(笑)』
という表現だと、逆に知的に見えるのでは?

○『私の方の問題ですか?(笑)』
○『私の方も、問題ですねぇ・・・(笑)』

文字的にはよく似ている上記の2つの表現で、どっちの表現をした人が知的に見えますか?
あるいは、精神的に余裕がある人だと思いますか?
あるいは、皆さんは、どっちの表現をする人と、やり取りをしたいと思いますか?

それって、自明でしょ?
文字の上では似ていても、人間のレヴェルとしては雲泥の差でしょ?
相手を「笑おう!笑おう!」と、必死な姿が、逆に相手方の笑いを誘ってしまうもの。
そんな文章を読んだだけで、目が引きつった笑顔を想像できてしまうでしょ?
何も無理に「笑」を入れなくても、腰を落ち着けて考えて、じっくり反論なりをすればいいのに・・・

とは言え、そこから逃避するための笑いなんでしょうね。
自分自身から逃避して、会話や思考から逃避するためには、自分が笑っている姿を、相手に見せることが有効である・・・このことは以前に「逃避の方法としての笑い」というお題で文章を書き、配信しております。
本来なら、たとえ、相手の話が珍妙であっても、自分が笑っている姿を、わざわざ見せる必要はないでしょ?

私だったら、珍妙な話を聞いたら、(笑)なんて表記は、わざわざ入れませんよ。
むしろ、こんなパターン。
「いやぁ・・・アナタの話は、興味深いよ!すっごく面白いよ!もっと聞かせてよ!」
そう言いながら、相手にとって、ちょっと痛いところを軽く突いていく。
そうすると、痛いところを突かれて、少しづつ頭に血が上ってきて、ますます珍妙なことを言い出したりするもの。
それこそ闘牛で、闘牛士が牛の目の前に布をヒラヒラさせるようなもの。カッカした牛をかわしながら、十分に楽しんだ後で、『真実の瞬間』でいいじゃないの?

「おいおい!オマエはなんて性格が悪いんだ!」
と思われるでしょうが、そうやって集めたネタを文章にしたものを、読んでいる方々が、まさに購読者の皆さん。人のことは言えないよ。

それは、さておき・・・

ダメダメ家庭の人間は、自分自身や会話から逃避しているから、逃避の手段として笑いが必要となるだけではありません。相手を笑っている姿を、自分自身に見せることで、「自分はアイツよりも優位なんだ!」と思いたいんですね。

会話のできないダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。だから勝ち負けに異常にこだわることになる。「どっちが上か?下か?」の問題を常に意識する。
だからこそ「オレはアイツに、勝ったんだ!勝ったんだ!」と自分に言い聞かせたい。
そんな心理からの笑いもある。
「おお!オレはアイツを笑い飛ばしてやったぞ!」

そんな心理が分かっていると、相手のことをけなして(笑)なんて文字をわざわざ書き込む人間の心理も理解できるでしょ?
あるいは、(笑)なんて表現ではなく、インターネットの掲示板では「www」なる表現があるそうですが・・・なんでも、「大笑い」くらいの意味らしい。
「オマエはなんてバカなんだ! www 」
そんな感じで使うのかな?

その「www」も、「笑」も、笑われた相手方の問題よりも、書いている人のコンプレックスが見えてくるものでしょ?
本当に相手より知性があるのなら、知性が漂う文章を書けばいいだけ。
稚拙な文章で、相手をバカにして、大笑いする必要はありませんよ。
当人は勝手に笑っていればいいだけでしょうが、そんな人に育てられる子供にしてみれば、笑い事では済まない。
それこそ、相談しようにも、笑ってごまかされてしまうだけ。

本来なら、笑いというのは実に知的なもの。
以前にちょっと触れたことがありますが、「薔薇の名前」という映画があります。
もともとの原作はイタリアのウンベルト・エーコ。私は原作は読んでいませんが、映画版でのテーマは、この「笑いとは何か?」ということでした。
現実にある対象をしっかり見つめ、それをちょっとヒネりを効かせた表現で描写することによって、笑いを取ることができる。そんな話でした。

「そういえば、アイツって、実際に、そんなことするよなぁ・・・」
「オマエも、よく見ているなぁ・・・」
「ああ!オマエ!うまいこと言うなぁ・・・」
笑いって、そんな瞬間に生まれたりするでしょ?
観察眼と表現力がないと、つまり、本当の知性がないと、笑いって取れないものなんですね。

観察眼や表現力がない人が、無理に相手を笑い飛ばしている姿も、周囲からの笑いを取っているとは言えるんでしょうが。
そんな姿は、絵に描いたように、「自分自身で墓穴を掘っている」姿そのもの。
相手を落とそうと必死なのはともかく、結局は、自分で掘った墓穴に落ちてしまう。
そんな姿によって、周囲から失笑を受けてしまう。

そんな姿は、ゲーテの「冬のハルツの旅」の中の記述だと、

『 軽蔑され やがては自ら軽蔑者となり
飽くことのない自我の妄執にとらわれて
ひそかに自らの価値を食い尽くしてしまう 』

そのものでしょ?

自分で自分を笑うような余裕のある人なら、周囲としても楽しいわけですが、他者を必死に笑い飛ばそうとする姿は、別の方向での笑いとなってしまう。
そんな侮蔑の視線を受けて、コンプレックスが刺激され、ますます、誰かを笑い飛ばそうと必死になってしまう。そうやって、自分のための墓穴掘りが、ますます進行してしまう。
古来より・・・言われている・・・ように、「人を笑わば、穴二つ」・・・と言うわけですよ。

まあ、現実的には「穴二つ」にもならない。
だって、相手を必死に笑い飛ばし、侮蔑しようとしても、その必死さゆえに、笑い飛ばす以前に、哀れみの対象になってしまうんですね。

11年のサッカーの国際大会で、韓国の選手が、日本人を侮蔑しようとおサルさんのまねのパフォーマンスをしたそうです。この件については、別のところでも取り上げております。
何も、侮蔑がいけないなんて理想論を言うつもりはありませんヨ。
上手な侮蔑と、下手な侮蔑には違いがあると申し上げているだけです。

せっかく侮蔑をするのなら、相手の心を傷つけないと意味がないでしょ?
人を傷つけたいのなら、逆に言うと、それ相応の物言いがありますよ。
相手を怒鳴り散らしていても、相手は傷つかないでしょ?
相手にとってクリティカルな点を見出し、その点を突いていかないとね。
つまり、相応の観察力や表現力も必要になるわけです。

まずは、上から目線を示すことが絶対に必要になってきます。
つまり、余裕の態度を示す必要があるわけです。
汗水垂らして、全身全霊をかけて必死の形相で相手を笑い飛ばしても、「侮蔑された」側としては、薄目を開けて、「ふーん・・・」となるだけですよ。
相手を侮蔑したいのなら、余裕の態度を見せて、ちょっと憐憫の調子を交えて、「あらまあ!この人も、がんばっているねぇ・・・」という雰囲気で相手を見ないとね。
その表現も、慇懃無礼なスタイルにしなきゃいけないでしょ?

侮蔑の基本は、まずは格の違いをみせつけること。
しかし、現実的には、格が上の人は、格下の存在にわざわざ関わりませんよ。
わざわざ寄って行ってパフォーマンスをする時点で侮蔑の基本から外れているわけです。
あるいは、侮蔑をする際には、「熱く」するものではない。「冷たさ」が必要になりますよ。
まあ、侮蔑にもセオリーなり基本があるわけです。
どんな分野においても、基本は大切なんですよ。
わざわざ寄っていって、汗水垂らして、全身全霊をかけてアクションしている段階で、侮蔑になっていませんよ。
全身全霊をかけて、おサルさんのパフォーマンスをしても、「ふーん・・・このどーぶつは、そんな本能があるんだねぇ・・・」となるだけですよ。結果的には当人自身が笑われるだけ。
相手を侮蔑したければ、薄目をあけて、軽く笑って、そして、トントントンと自分のアタマを人差し指で軽く叩けば、そっちの方が効果的ですよ。

しかし、コンプレックスが強く、そして、知能の面で欠損が大きいダメダメ人間は、全身全霊をかけて誰かを笑い飛ばそうとしてしまう。
余裕があって笑うのではなく、余裕がないが故の作った笑いとなる。
冷たく笑うのではなく、全身全霊をかけて情熱をもって相手を笑い飛ばそうとする。
そんな人は、韓国のサッカー選手だけでなく、インターネットの掲示板にいたりするでしょ?
逆に言うと、それだけコンプレックスが強いわけです。自分で達成したものが何もないので、自分より下の存在がほしくてほしくてたまらない。
だから何とかして、誰かを笑い飛ばそう、侮蔑しようと焦ってしまう。
ご活躍の場所は、色々のヴァリエーションがあっても、相手を必死に笑い飛ばそうとする態度が、周囲の笑いを生んでしまうのは、どんなフィールドでも同じ。

意図して笑いを作ることができるのは、相当の知性がある人だけ。
一般レヴェルの人は、自然に生まれた笑いを楽しめばいいだけですよ。
コンプレックスが強いダメダメ人間は、笑いを作り出そうと分不相応なことを考え、誰かを笑い飛ばそうとして、結局は墓穴を掘り、見事に自分が落ちて、笑いを生み出してしまう。
そうなってしまったら、それこそ自分で自分を笑えば、また救いがあるわけですが、自分が笑われた分を、誰かを笑い飛ばすことで補おうと考え、また落とし穴を掘り、真っ先に自分が落ちてしまって、また笑われてしまう。
狙ったギャグではなく、そんな身体を張った笑いを現実にやっている人もいるでしょ?

(終了)
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発信後記

ちなみに、上記の「薔薇の名前」の原作者のウンベルト・エーコは、イタリアのボローニャ大学の論理学の教授とのこと。ボローニャ大学は、世界最古の大学として有名ですよね?
エーコは、論理学の教授にして、作家さん。
ちなみに、論理学の教授にして作家さんとなると、有名なのが「不思議の国のアリス」のルイス・キャロル。

「薔薇の名前」の映画版において、ショーン・コネリーが演じた修道士ウィリアムは、イギリス人という設定ですが、これは、たぶん、エーコの先輩格と言えるルイス・キャロルをイメージしているんでしょう。鋭い現状認識や洞察力と、それをヒネリをもって表現する能力を持つイギリス人ですからね。

ちなみに、この「薔薇の名前」という作品は、中世の修道院を舞台としていますが、実質上の舞台は、大学なんですね。その場で殺人事件が起こっているのに、「議論のための議論」に終始していて、何も解決できない。そんな人たちは本当の意味での知的な人と言えるのか?
少なくとも映画版では、そんな問題提起があったわけです。

知性って、もっともらしい言葉や知識をもてあそぶことではなく、現実に根ざしていないと、力がない。そしてそんな本当の意味での知性は、まさに笑いと直結している・・・
エーコとしてはそんなメッセージがあったのでは?

ちなみに、私は、メールマガジンの文章を読んで「笑ってしまった!」と感想をいただけると、結構うれしいものなんですよ。何も「必死で」相手を笑い飛ばす笑いではなく、「うまいっ!」というタイプの笑いってあるでしょ?
そんな文章になればいいなぁ・・・と思って私は書いています。
R.11/2/2