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カテゴリー ダメダメ家庭が好きな単語
配信日 09年2月13日
タイトル 「親」という単語
ダメダメ家庭の人間は、「親」という単語を頻繁に使う・・・そんなことを書くと、
「オイオイ!それはいくらなんでも言いすぎだろう?『親』なんて言葉は、誰でも使う一般的な言葉じゃないか?!」
そのような反論があるでしょう。

あるいは、「オヤオヤ・・・突然に、トンチンカンなことを言い出して・・・このメールマガジンの書き手も、とうとうアタマがヘンに・・・お気の毒に・・・」と思われる方もいらっしゃるかも?

「親」という単語に、「オヤオヤ・・・」と突っ込みを入れるのは、ちょっとしたオヤジが入ったギャグとも言えますが、意外にも、ポイントを突いた突っ込みと言えます。
だって、「親」と言うものは、「おやおや」つまり「親・親」、もっと一般的に言うと「両親」という複数形が基本でしょ?

生物的には父親と母親がいなければ、子供は誕生しない。クローン技術なんて一般的とは言えない。
人間は、単細胞生物じゃないんだから、この点については議論の余地がないでしょ?
誕生の後の、子育てにおいては、哺乳類でも父親が不要な動物もいる。

人間においては、誕生において、父親と母親が不可欠であると同時に、子育てにおいても、父親と母親がいるのが、一般的・・・ダメダメ家庭的に言うと「ふつう」の形と言える。
だから、親を表現し、記述する際には、「親」という単数形ではなく、「両親」という複数形で記述するのが自然でしょ?parentではなく、複数形のparentsが基本ですよ。

もちろん、事情があって、親という単数形になってしまうケースも存在する。
両親のうちどっちかが死去されているケースもありますし、離婚のケースもある。
そもそも結婚するつもりもないのに、子供だけは作ってしまう・・・そんなケースも、現実に存在する。
ここで、両親のうちのどちらかが死去というケースだと、「両親という複数形が本来は基本だけど、現時点では単数形になっている・・・」そのような心理が基本ですよね?
その場合は、「単数形となっている」自分の親を表現し、記述する際には、たとえば「母親」とか、「父親」という言葉を使うものでしょ?

一般論ばかりだとわかりにくいので、たとえば、「先週の日曜日に、久しぶりに、親に会った。」そんな例文を考えてみましょう。

上記の「親」を、「両親」と変えてみると、「先週の日曜日に、久しぶりに、両親に会った。」となります。2つの文章を比べていただけると、かなり印象が違うでしょ?
どっちの例文が、仲のいい家庭を表しているか?
それは誰でもわかりますよね?たった1字の「両」という文字で、大きく違ってしまうわけ。

もちろん、前にも書きましたが、両親という複数形では書けない家庭もある。
しかし、その場合でも、「両親」という複数形が、心理的には基本状態だったのなら、上記の例文は、「先週の日曜日に、久しぶりに、母親に会った。」と言った記述になります。

いわば、「ウチの家庭は、事情があって、父親がいないのだけれど、先週の日曜日に、その母親に会って、一緒に話をした・・・」そんな感じになります。このような記述は、「両親という複数形が基本である。」ことの認識自体はある。この記述パターンは、両親のうち、どちらかが死去のケースに一般的な記述パターンです。
「お母さんに会ったの?じゃあ、お父さんはどうなっているの?」
そんな質問が来ても、余裕を持って答えられる心理状態と言えます。

じゃあ、最初の例文である「先週の日曜日に、久しぶりに、親に会った。」を、再度考えて見ましょう。
上記の例文における「親」は、「母親」なの?「父親」なの?それとも複数形の「両親」なの?
それがわからないでしょ?

人間にとって、もっとも身近な存在と言える、自分の親とのやり取りを、そんな漠としたあいまいな表現を使うってどういうこと?
実際にはどんな情景だったの?・・・たぶん、思い出したくもないし、そのことについて思考停止になっているんでしょうね。

「親」という言葉は、単数形であるだけでなく、ある種の抽象化された言葉とも言えます。いわば肩書きを表現した言葉とも言えます。それこそ「社長」とか「校長」とか「市長」のようなものに近いニュアンスもある。肩書きとしてのニュアンスが強くて、人間としての具体性というか実体性がないんですね。だから、思考停止には便利な言葉となる。だからこそ、好意的には使われないことが多いもの。

それこそ、親という言葉に近い言葉を色々とピックアップしてみましょう。
家族、親、両親、母親、父親、父、母、お父さん、お母さん、父母、ママ、パパ、ご母堂、ご尊父、カーチャン、トーチャン、オヤジ、オフクロ、祖先、直系尊属、親御さん、あるいは、実家、親元・・・等々・・・あと、ダメダメ家庭によく使われる言葉だと「あの人」なる用語もある。
このメールマガジンを購読されておられる方でも、色々と「親」という意味に近い言葉は思い浮かぶでしょ?そして、それらは微妙に違っているでしょ?

「直系尊属」なんて、法律的な用語はともかく、あるいは、「祖先」なんて、完全に抽象化された言葉もともかく、あるいは、ダメダメ家庭ご用達の「あの人」という言葉もともかく、その他の言葉は、皆さんも使ったりするでしょうし、それを無意識的に使い分けているでしょ?もちろん、言葉に対する感覚が鋭敏ではない人もいる。それはしょうがない。ただ、話す場合の使い分けができなくてもいいけど、聞き分け能力があると、色々と見えてくるわけ。

このメールマガジンの文章を書いている私は、その手の「使い分け」を意図的にやっています。当然のこととしてボキャブラリーは、一般の人よりも豊富でしょうし、それらの言葉を使った表現のグラディエーションには、それなりに注意して表現しています。

そのようなグラディエーションを意図的にやる必要はないにせよ、皆さんだって無意識的には使い分けはやっていたりするもの。そもそも「親」に関連した用語なんて、特殊な用語ではないんだから、一般の皆さんも色々と言葉のパレットは持っていますよ。
そんなパレットの中で、「親」という言葉は単数形であり、抽象化され、だから肩書きとしての側面を持っている・・・それゆえに、好意的な状況では使われないわけ。

たとえば、この「親」という言葉が、一種の「排他的」に使われる例を取り上げてみましょう。
それこそ、結婚後にドメスティック・ヴァイオレンス(=家庭内暴力)などのシリアスな状況になった時にも、実家に助けを求めない女性が周囲の人に対しての説明として持ち出す言葉として、いささかお約束として登場する、
「親に迷惑をかけたくない!」
という言葉があります。

この言葉は、以前にも取り上げております。まあ、そんな感じで親に気を使っているもの同士が結婚するから、お互いの中だけで問題を抱え込み、まさにドメスティック・ヴァイオレンスになってしまうわけ。
それはともかく、上記の例文である「親に迷惑をかけたくない!」の「親」を「両親」という言葉に置き換えてみましょう。
となると、例文は「両親に迷惑をかけたくない!」となりますよね?
しかし、この「両親に迷惑をかけたくない!」の方の言葉を、皆さんは聞いたことがありますか?

前にも書きましたが、本来は両親という複数形が基本なのが一般的な人間の姿でしょ?ドメスティック・ヴァオレンスなんて、結婚後わりとスグに陥るわけだから、まだ実家の親だって若い。まだ死去には早すぎる年齢でしょう。だから両親共々存命のケースの方が多いでしょ?だから、どうせ、表現するのなら「両親に迷惑をかけたくない!」と記述するケースの方が多いのが自然じゃないの?しかし、現実の物言いでは、そうではないでしょ?

かと言って、単数形で表現された「親に迷惑をかけたくない!」を語った女性の親は単数なの?そのケースもあるでしょうが、現実では複数のケースも多いわけ。
このような場合は、「親」という形で、抽象化されているわけです。「両親」とか「母親」という言葉よりも、いわば「祖先」という言葉に近くなっている。それこそ「国に迷惑をかけたくない!」とか「会社に迷惑をかけたくない!」そんな用法に近くなっている。
もし、「家族に迷惑がかかってはいけない!」なんて真剣に考えているのなら、「親に迷惑をかけたくない!」という記述ではなく、「お父さん,お母さんに迷惑をかけたくない!」となります。
そのような表現だと、子供として本当に親のことを心配していることが伝わるでしょ?

「親」という言葉を使った背景として、まさに「両親」でもなく、「母親」でもなく、「父親」でもない・・・そんな心理が見えてくるんですね。

何度も書きますが、一般の人は、表現のグラディエーションをそれほど意識しては表現してはいないでしょう。しかし、例えそうであっても、自分の親に関する表現くらいは、無意識的に色々と「使い分けて」いるもの。それこそ「父母」という言葉と、「トーチャン、カーチャン」という言葉は使い分けをしているもの。
「親に迷惑をかけたくない!」という言葉からは、その表現の抽象性から、「親について考えたくない!」という心理が見えるわけ。
だから、「親」という単語は、「仲がいい」家庭では、意外なほど使わないもの。

それこそ、青春時代?の情景として、男の子が女の子の家に遊びに行く、そんなシチュエーションを考えて見ましょう。
女の子が男の子にボツリと一言。
「今晩、親はいないの・・・」

そんなセリフの後で、どんなことは起こるのか?
まあ、それはいいとして、本来なら、上記のロマンティックなセリフは、
「今晩、ウチの家族はいないの・・・」
となるのが、的確な表現でしょ?
だって、何回も書いていますが、親ではなく両親という複数形が基本だし、それに兄弟だっているかもしれない。
気持ちや状況を伝えるにあたっては、「家族」と言った方が、明確に伝わりますよ。

じゃあ、どうして、「家族」という言葉ではなく「親」という言葉を使ったの?
ヘタに「親」なんて言葉を使ったら、「じゃあ、兄弟は?」なんて突っ込みも来るかもしれない。
女の子だって、そんな突っ込みがほしくて、そんなセリフを言ったわけではないでしょ?
最初から「家族」と言えばいいじゃないの?どうして「親」という言葉を使ったの?

逆に言うと、親という言葉を使ったことから、「家族」というと、親一人だけ・・・そんな状況が見えてくるわけ。「家族」=「親一人」が、基本となっている。
それに加えて、たとえば「お母さん」とかの具体的な表現をしたくない、それどころか、心理的には、その一人の親を自分の家族とは言いたくない・・・そんな心理が加わっていることが多いもの。
まあ、そんな女の子にヘタに関わってしまうと、入れ込まれたりして、ヤバイことになる可能性もあるわけです。

もちろん、「親はいない。」という物言いよりも、もっと危険なのが「あの人はいない。」という物言いです。そんな人にヘタに手を出したら、絶対にメンドウなことになりますよ。

たとえ「家族」=「親一人」という状況であっても、親というものは「両親」という複数形が基本であることを認識していればいいわけです。
誰だって事情はありますし、判断の間違いもある。

ただ、何気に「親」という言葉を使う人は、その点が思考停止になっていることが多いんですね。
だから「親」という抽象化された単数形の言葉を、そして、そんな状況を繰り返すことになってしまう。

そもそも、当人の親が「親」という単数形であっても、その人も成長し、大人になり、その人自身が子供を持ち、親になったりする。
当然のこととして、子作りは男女の共同作業なんだから、その人自身の親は「親」という単数形であっても、その人の子供にしてみれば、一般的には親は「両親」という複数形になるのがスジというもの。

だから、それまで「親」という単数形で表現していても、その人自身が親になったら、「両親」という複数形を使うようになるものでしょ?
だって、自分の横には、自分の子供だけでなく、子供にとってのもう一人の親、つまり「連れ合い」もいるわけですからね。
親という立場になったら、「親」という言葉を使わなくなるのが、本来の姿。
逆説的な言い回しになりますが、そんなものでしょ?
たとえ、自分の親を「親」と言う単数形で一般論的な言い回しで表現しても、自分が親になったら、「母親」「ママ」とかの具体的な記述にするのでは?

ある女性が、自分の子供の話をした後で、「親」という単語を何気に使ったら、ギャグではなく、本当に「おや?」と思ったりするもの。
「じゃあ、その子の父親は?」
って、やっぱり思いますよ。
そこまで明確に意識する人は少ないでしょうが、皆さんでも「何となく」の違和感くらいは持ったりするものでしょ?

自分の親を「親」と表現するばかりではなく、やり取りしている相手の親を「親」と表現するケースにも結構注意する必要があるもの。
たとえば「アナタも、たまには、親に会いに行ったら?」
そんなお説教もあったりしますよね?
そんなお説教については、以前に文章をまとめて配信しております。

そもそも、やり取りをしている相手の親を「親」と表現するのはマトモではないわけ。
それこそ「ご両親」とか「親御さん」とか、あるいは会いに行くとなると、「実家」という用語の方が適切でしょ?ちょっと敬称を入れた用語を使うことの方が適切ですよ。

自分とは別の人間の親を「親」と表現している人は、往々にして、自分の親について思考停止になっているわけ。だからそんな人は、その物言いが問答無用のことが多いもの。
反論を許さないスタイルなんですね。

「親に会った。」でも、「親に迷惑をかけたくない!」でも、「親に会いに行け!」でも、言語的には、その中の「親」という単語を別の単語で置き換えることができるわけですが、そんな物言いをする人にとっては、心情的には、置き換えることができないわけ。
その人にとって、親という存在が、抽象化されて、そしてアンタッチャブルになってしまっている。
そんな思考停止状態を自覚すればまだ救いがあるわけですが、思考停止状態を自覚できないのが、まさに思考停止というもの。

だから、抽象化され、単数形の親のスタイルが世代に渡って繰り返してしまったりする。
あるいは、今のところは、とりあえず両親という複数形であっても、その実質的な面においては単数形に近かったり、あるいは、祖先という形のような抽象化されていたりするもの。

そんな人は、子供を呼称する際にも、その抽象性が出てきてしまったりするもの。
たとえば、「子供は、いつまでもかわいい。」という物言いと、「わが子は、いつまでもかわいい。」では、そのニュアンスが全然違うでしょ?「子供」と「わが子」って、似ているようで、使われ方は違っているものなんですね。

一般的な呼称しか語らない状態だと、そのうち、その子供の呼称が「それ」とか「うちの」とか、どんどんと抽象化されてしまうことに。
ダメダメ家庭においては、親は子供の名前なんて、使わない・・・それこそ1年のうちに1回も使わない・・・そんな状態になっていたりするもの。
その前段階として、その呼称が抽象化,一般化されているわけです。

あるいは、前にも書きましたが、親という言葉は、ある種の「肩書き」を表している。
それこそ「両親」という呼称は肩書きの側面は小さいけど、「親」という言葉は、役職なり肩書きの側面が大きいでしょ?
そんな「肩書き」呼称が飛び交う集団がどんな集団なのか?
そして、そんな場所に精神的な安らぎはあるの?

何気ない会話において、「ワタシの祖先は・・・」なんて言い出したら、「オヤオヤ!」と思うでしょ?
それと同じように、「親」という言葉にも、ちょっと注目してみると、色々と見えてくるものなんですね。

(終了)
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発信後記

ちょっとした言葉に注意すると、実に色々と見えてくるもの。
言葉に対する繊細さがある人は、使われている言葉の違いから、使っている人の心情が見えてくるものなんですね。
ただ、そのようなことは、パレットの大きさがある程度は似ていることが必要になってくるもの。あまりにパレットが違うと、お互いの言っていることがわからない。つまり誤解を生みやすい。

それこそ、信号機における「青色」と、12色の色鉛筆における「青色」は違っているでしょ?単に「青色」というのではなく、より正確に描写するためには「信号機における青色」と言わないといけない。

何回も書きますが、哲学者ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが言うように「もし、ライオンが人間の言葉を語っても、我々はライオンの言っていることがわからないだろう。」ということになる。お互いが見えている世界、体験している世界の違いを抜きに、言語だけで議論しても、誤解を生みやすい。

というわけで、今回のメールマガジンの内容は、「言葉なれ」しているものの見解であって、慣れていない人は、ピンと来ないでしょう。言葉に対する鋭敏さなんて、ダメダメの問題ではありませんから、そんな人は、ノンビリしていてくださいな。
R.10/12/19