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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 09年2月20日 (11年2月7日 記述を追加)
タイトル 言葉とイマジネーション
このメールマガジンでは、たびたび韓国の問題に触れております。
私としては、別に民族的偏見があるわけではありませんよ。ダメダメ家庭に典型の発想を理解していると、韓国人の行動なり発想が、実に理解しやすい・・・だから、ダメダメの実例としてはこの上ないほどに有効である。そんな観点から言及しているだけです。

実際に、日本におけるダメダメ家庭の人間の珍妙な行動だって、韓国人の行動の背景となっている心理を理解していると、理解しやすいわけです。「そう言えば、韓国人も似たような大騒ぎをするなぁ・・・」そのような点に気が付くと、ダメダメに一般的な心理まで理解できるようになりますし、対策も立てやすいでしょ?実例を挙げないで一般論だけ書いてあっても理解しにくい。韓国人の行動で例示するのは、子供向けの本にある挿絵のようなものと思っていただければ結構です。挿絵は本筋ではありませんよ。まあ、確かに挿絵の方が印象に残りやすいことは事実でしょうが。

一般論だけだと分かりにくいし、あまりに身近な例だと、身につまされ過ぎてしまう。比較的ポピュラーであり、かつ直近でない実例・・・そんな観点から取り上げているだけです。
韓国なりイスラムの問題に言及するのは、我々自身の問題なり我々の目の前の問題を、認識し理解するための方法論に過ぎません。

そうなんですが、逆に言うと、自分自身の問題なり、自分の目の前の問題を認識し、理解しようとする意識のない人間にしてみれば、このメールマガジンで度々韓国の問題に言及しているのは、怪訝に思うことでしょう。このメールマガジンでは、その他、ボランティアの問題にも言及したりしています。私個人はその手の人に個人的に「恨み」があるわけではなく、その種の人たちの行動から、様々なダメダメを理解しようとしているだけです。もちろん、「恨み」はなくても、「嫌い」であることは確かですが。

自分自身の問題なり、自分の目の前の問題を認識しようとしない人は、自分が持っている考えと異なったことを言われた場合には、「それを非難と受け取る」傾向があります。私としては、ただ「見えているものを、見えるように」したいと思っているだけですが、自分自身で考えることから逃避する人間は、相手の話から、まずは「意見」なり「見解」なり「評価」を聞き取ろうとするもの。だから、提示された「評価」が、自分が持っている「評価」と違っていたりすると、「オレの考えを否定するのか?!」「ワタシを非難しようとしている!」と怒り出したりするんですね。

多くの視点なり思考から、自分自身の思考を発展させていこう・・・そのためには、自分自身なり自分自身の目の前にどんなことが起こっているのか?もっとちゃんと見ようではないか!私としてはそんな考えでこのメールマガジンを発行しています。

目の前のダメダメ家庭の問題を拡大鏡でスクリーンに投影した姿が韓国なりイスラムの問題・・・私が取り上げるのは、そんな観点です。

さてさて、その韓国の問題に関連して、かなり以前に、購読者さんから、こんな意見を頂戴いたしました。
それは下記のような文章です。

『韓国は歴史問題で日本に干渉しますが、
日本人は嫌な過去を水に流してさっぱり忘れてしまう、
一方韓国・朝鮮人はそれを執念深く恨み続ける、なんて言う人は
福島県会津若松市と山口県萩市の“歴史問題”を知っているのでしょうか。
幕末の戊辰戦争で長州の官軍は、
旧幕府側についた会津藩をボコボコに叩きのめし、
これをやりすぎて会津の人々の反発を買うことになります。
その後100数十年間、会津若松市と萩市の間には
わだかまりがあり、最近やっと和解したとか。
韓国併合は90年、会津戦争は140年ですから。
韓国が歴史問題で日本に干渉するのは、
彼らの民族性が悪いから、というなら、
その2倍会津若松の人間は悪い奴、
といわなければならないでしょう。
これは個人的な見解ですが、
140年経ってやっと和解したというから、
戦争の生存者から直接話を聞いた人々がほぼこの世を去ってから、
和解が可能になるんでしょうね。
植民地支配については互いの当事者から直接話を聞いた世代が
まだ当分生きているわけですから、
何でも反日教育のせいにするのは単純すぎる発想かな、と。』


ちなみに私個人は、このメールマガジンで、韓国の対日感情を、「反日教育」のせいにしていると書いたつもりはありません。バックナンバーを調べていただいても、そんな文言は出てこないはずです。それに、韓国人を「悪い」と言っているわけではありません。何回も書いておりますが、このメールマガジンは「評価」を目的としてものではなく、「見えているものを、見えるようにする」ことが目的です。

それはいいとして、上記の意見をお読みになられた購読者の皆さんはどう思われますか?
「なるほど!そのとおりだ!」
そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、「うーん・・・会津と長州に横たわる歴史問題と、韓国と日本の間の歴史問題って、一緒に扱えるものなのかなぁ・・・ちょっと違うんじゃないの?」
そう思われる方もいらっしゃるでしょうね。
そして、そんな方は、「何となく違うんじゃないか・・・とは思うけど、自分の違和感を上手く説明できない・・・こんな時は『この人』が、上手く説明しちゃうんだよなぁ・・・」なんて思ったのでは?

・・・ということで『この人』が説明してみましょう。
「歴史問題」という言葉は言葉としてあるでしょう。しかし、歴史の実体は人間でしょ?その人間が何を考え、どのように行動したのか?それが重要でしょ?
人間を考えるに当たって、「その問題とどう対峙したのか?」という問題とともに、「じゃあ、その問題『以外』においてはどう行動したのか?」そのような問題も出て来ますよね?

韓国人が日本にからむのはいいとして、アメリカと仲良くやっているのか?ヨーロッパと仲良くやっているのか?その他のアジア諸国と仲良くやっているのか?その面は重要でしょ?アメリカやヨーロッパやその他のアジア諸国とも仲がよくない・・・とりわけ日本と仲がよくない・・・ということだったら、単に日本との間の歴史問題とは言えないでしょ?
それは「自分たちはいったい何をしたいのか?」という当事者意識の問題であり、「相手に自分の意向をわかりやすく伝える。」というコミュニケーションの問題となってくるでしょ?

逆の、会津と長州の例から考えてみましょう。
会津の人は長州を嫌い・・・それならそれでいいとして、じゃあ、こんなケーススタディを考えてみましょう。
会津の人が中国地方へ旅行に出かけた。しかし、長州は嫌いなので、山口県は素通りして、有名な鍾乳洞も見ずに帰ってきた。
あるいは、山口県に本社がある会社から高給で誘われたが、山口県は嫌いなので、辞退した。

このようなケースと、
会津の人が、中国地方の旅行に出かけた、長州が嫌いなので萩市の市役所に落書きをして帰って来た。
あるいは、山口県の会社のホームページにハッキングを仕掛けた。

上記のケースは大きく違っていますよね?
一つは消極的な回避。
もう一つは積極的な嫌がらせ。
嫌いなら避ければいいだけでしょ?しかし、自分自身でいったい何をしたいのか分かっていないダメダメ人間は、消極的に避ければいいだけなのに、積極的に妨害したりするわけです。

たとえば、会津の人で、山口県の会社のホームページにハッキングを仕掛けたことを自慢している人がいたとしましょう。そんな人を周囲の人はどう評価するの?
「アンタ・・・他にすることないの?」と言われれば環境としてはマトモ。
しかし、
「おお!よくやった!積年の恨みを晴らしてくれた!!」
そう評価されたら?

あるいは、4人の集団があって、そのうちの3人までもが、そのような「嫌がらせ」に賛意を示したら?一人残されたアナタはどうする?
マトモな感性が残っていたら、「オイオイ!コイツら気は確かかよ!早いうちにコイツらから逃げないとマズイことになるぞ!」そう思うでしょ?

そうやって、マトモな感性を持つ人が、そんなダメダメな集団から、消極的な回避をするようになり、残されたダメダメ3人には、新たなダメダメメンバーが加わることになる。そうやって、ますますダメダメが濃くなってしまう。

韓国の問題って、このパターンでしょ?しかし、会津と長州の間の歴史問題は、実際は消極的な回避でしょ?だって、会津の人も、長州の人も、普段はお互いのことなんて考えていませんって・・・和解も何も、無視の方が近いわけでしょ?無視しているから、和解の必要がないだけでしょ?
しかし、韓国の人は普段から日本のことばかり考えているでしょ?それこそ2006年のサッカーのワールドカップで、日本とオーストラリア戦のテレビ視聴率が、東京よりもソウルの方が高いなんて珍妙な事態になってしまうことになる。
言葉としては、同じ「歴史問題」という言葉ですが、実態として、その人間の行動としては大きな差があるわけです。

このメールマガジンでは、「言われていること、書かれていること」から考えるより、「言われていないこと、書かれていないこと」から考えた方が思考は進むと頻繁に書いています。
韓国の問題だって、「日本以外の国との関係はどうなのか?」あるいは、「日本が統治する以前はどうだったのか?」その面から考えた方が思考が進むものなんですね。
実際に、「長州が憎い。」からと言って、山口県の会社にハッキングを仕掛けるような人間の行動を、「歴史問題」と捉えるのが妥当でしょうか?それは、むしろ人格問題でしょ?「長州が憎い。」というのは、単なる自分への言い訳でしょ?
そのようなことは、直接的に言及されている問題「以外」における行動を考えた方が理解しやすいわけです。

あるいは、通り魔事件があった際に、犯人が「アイツらは虫けらだから、殺してもいいんだ!」なんて、よく言っていたりしますよね?
しかし、本当に虫けらと同じと思っているのなら、わざわざ追いかけて行って殺さないでしょ?
虫けらとして名高いゴキブリを、わざわざ隣の家まで追いかけていく人はいないでしょ?
殺してもいいということと、殺す必要があるということは別物ですよ。
『殺してもいい。』という言葉だけ見ていると、その行動の意味を取り違ってしまう。
そんな状態は、相手に敵意を持っているというよりも、相手に向けている敵意に自分自身が依存している状態と言った方が近い。
つまり、それだけ自分自身から逃避しているんですね。
その自己逃避こそが問題になるわけです。

今ではインターネットも発達して、多くの文章が簡単に読めるようになっています。もちろん昔ながらの書籍からの情報もあります。
それらは言葉によって表現され、我々に伝達されています。
しかし、それらの言葉から、「実体としての人間の思考や感情まで思考が及ぶのか?」というと、それは受け手次第なんですね。
表現されたものを理解するには、イマジネーションを持って、言葉を受け取ることが必要になってくる。
そうでないと、自分が発した言葉にもイマジネーションが宿りませんよ。生きた言葉だけが「生きた思考」につながり、それが相手に伝わる。そんなものでしょ?

たとえば、韓国の反日教育に言及するのなら、「そのシーンをどれだけ心の目で連想できるか?」そんな問題になってきます。

その教員の心理。
生徒の心理。
生徒の保護者の心理。
教科書執筆者の心理。
政治家の心理。

そんな心理まで視点を伸ばすと、実態がより明確になるわけです。
キライという感情と、敵認定は違うもの。
言葉を突っ込んで理解していないと、その違いが分からないことになる。
様々な言葉から、その言葉が使われたシーンにおける人物の心理を読み解くには、普段から自分の目でちゃんと見ていないと、そんなことはできませんよ。
自分の目で見て、自分のアタマで考える習慣がないと、どうしても言葉が軽い。

たとえば他者の苦悩だろうと、喜びだろうと、あるいは体験だろうと、それに言及するさいに、ちょっと参考になったとか、示唆的だったとかの言葉による感想と、「自分と同じ苦悩をそこに見出した。」という表現なり感情とは全然違うでしょ?
言葉の通りのよさが優先されてしまうと、その言葉は現状認識なり思考には寄与しなくなってしまう。
通りがいい言葉によって、自分自身の認識なり思考が「流されて」しまう。
他者の言葉から、自分の認識が広げるようにできるためには、自分の目で見て、自分の頭で考える必要がある。
逆に言うと、自己逃避人間は、自分が考えなくても済むように、自分の目で見なくても済むように、「流してくれる」ような「通りのいい」言葉を求めるようになってしまう。

それこそ「△△症」とかの、病名を付けて分った気になる人とか、「○○主義」とかのもっともらしい言葉で何事も語ってしまう。それらは考えるための言葉ではなく、「流す」ための言葉なんですね。
死んだ言葉や軽い言葉が集まった文章って、何となくまとまっているけど、インパクトが弱いし、当然のこととして説得力もない。
ヘタをすると、「あーでもない、こーでもない」と議論のための議論で終わってしまう。

言葉が軽いと言うことは、その背景となる実感性が乏しいわけです。
自分の言葉ではなく、人の言葉をコピー&ペーストで使う雰囲気になってしまっている。
言葉の持つ実感性というのは、見る人が見るとスグに判ってしまうもの。
だから、どうしても、実感性のない言葉しか使えない人が集まってしまう。
コピー&ペーストで片が付く、インターネットの掲示板のようなところが居心地がいい。
信念を持って自分の考えを語ることができず、第3者的な理念に頼ってしまい、その理念をコピー&ペーストして、自分が立派になった気分でいる。
実感性がないことに抵抗がないので、妙ちきりんな陰謀史観が大好き。
実感性のない陰謀史観は語れても、「自分としてどうしてもやり遂げたいこと。」「どうしても分って欲しいこと。」は自分でも分っていない。

あるいは、やたら理念的になってしまい、右翼とか左翼とかのカテゴリー分類で分かった気になっている。
そして、「敵vs味方の構図」で何事も説明してしまう。
そんな二項対立的な構図は語れても、自分の信念は語れない。
そんな人とのやり取りでは、「この人・・・言っていることは、一応は筋が通っているんだけど、なんだか薄っぺらいんだよねぇ〜」と思ってしまうことになる。
そんな感想を持たされるやり取りを、皆さんもやったことがあるのでは?
過激な言葉や権威筋認定の言葉を使えば、実感性が出て来るというものではない。
言葉に実感性を持たせたかったら、まずは自分の目で物事を見て、自分のアタマで考え、自分の心で感じないとね。

ちなみに、私は意見を寄せられた方を非難しているわけでは、当然のこととしてありません。むしろ感謝の念を持って取り上げさせていただきました。まあ、上記の文章はダメダメというよりも、新聞の社説程度と言えるでしょう。新聞の社説って、まさのそんな感じの文章が多いでしょ?私としては、思考の結果について言及しているわけではなく、思考の道具である言語の重みの観点から見ているだけです。
私としては、お互いが「見えているものを、見えるようにしたい」と思っているだけです。
まあ、もうちょっと実感を持って物事を見てみると、より深くまで理解できようになりますよ。
言葉と言うものは、人間の心理や行動の表層を指し示しているだけ。
その奥底にあるものへのまなざしをむけることにより、より多くのことが見えてくる。
私としてはそう考えています。
言葉から思考を出発するのであって、言葉は終着点ではないでしょ?

現実を認識するためには、言葉の裏側を見る必要がある。
そのためには、まさに詩人のリルケが言うように、日頃から見る訓練・・・「まず見ることから始めるつもりだ!」となるのは当然のこと。洞察力なんて努力だけで獲得できるものではありませんが、観察力くらいだったら、意識すればかなり向上するものなんですね。

日頃から自分の目で見ている人だけが、言葉から実態を掴み取ることができるわけですし、自分で考えていないと、言葉から認識なり思考が広がっていかないもの。
流れやすい言葉だと、すべってしまって思考が組み立てられない。問題を認識し、解決するためには、その道具としての言葉も重要なんですよ。

(終了)
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発信後記

最近は文章が長くなってしまっていて申し訳ありません。
数多くのドラフトの文章のうちで、重複した記述のあるものを、1つにまとめたりしているので、その分だけ長くなっております。

文章の読み手というか、作品の受け手は、「一つの視点からサラっと書いた」作品を喜ぶもの。これは何も文章だけでなく、美術でもそういうものです。
あのピカソだって、比較的サラっと描いている初期の時代、いわゆる「青の時代」の作品だと一般的に親しみやすい。
より多彩な表現手法をとった「ばら色の時代」はともかく、そもそも視点からして多くの視点を取り入れ、それを再構成した「キュービズムの時代」になると、「わけわからん!」なんて言われてしまう。

美術の世界はともかく、ダメダメ家庭を考えるにあたっては、多様な視点は必須でしょうし、それを表現するにあたっても、単一的な表現では不十分。
長い文章が負担とお考えの方は、間引き購読をされるといいかと思います。
あと、最近は、土曜日に総集編のようなスタイルで配信しておりますから、そちらだけという方法も取れると思います。

長い文章ですが、あまり「流して」読むクセをつけてしまうと、観察力が付きませんから、その点はご注意くださいな。
R.11/2/7