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カテゴリー | ダメダメ家庭が持っていない発想 |
配信日 | 09年2月27日 (10年6月6日,10年11月25日 記述を追加) |
タイトル | 部外者意識 |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。 このことは、このメールマガジンで、実に頻繁に書いていることです。だって、本当なんだから、どうしようもない。 自分でやりたいことなんて、特に持っていない。持っていないどころか、それについて考えることを抑圧している。だから、いつだって「て・き・と・う」に生きている。 自分では何も考えずに、ただ人に合わせているだけ。そして、そのようなライフスタイルを「ふつう」と言って称揚することになる。 自分自身でやり遂げたい目標があるわけでもないし、そもそも自分自身というものをわかっていないんだから、「人は人、自分は自分。」と言うわけには行かない。このことについては以前に配信しております。 「人は人、自分は自分。」と言う言葉の、「自分は自分」という後半部分が、まさに当事者意識とすれば、「人は人」という前半部分は、部外者意識とでも言うことができますよね? 「その点については、ワタシは関係ない。」 そんな言葉は、説教オヤジや正論オバンが、いかにもクレームを言い出しそうな言葉と言えますが、「自分自身はこのようなことをするんだ!」って、明確に意識していればいいじゃないの?関係あることと、ないことの区分けが明確に意識されていることが重要でしょ? 「人は人」と言っても、「この点について、ちょっとサポートしてほしい。」、そのように誰かから個別に依頼されたら、そして、その依頼が妥当なものなら、協力すればいいだけでしょ? 無下に断る必要もありませんが、あらゆるものに関わる必要もないでしょ? 古典的な言い回しをすれば「カエサルのものは、カエサルに。」ですよ。 言語感覚が鋭くない一般の人は、部外者意識と傍観者感覚の違いがわからない。 だから、「それについては、ワタシには関係ない。」という言葉に怒りを持ってしまう。 しかし、たとえば、モーツァルトの音楽の解釈学について、的確に述べる必要はほとんどの人にはないでしょ?一般の人は、そんな分野からは部外者ですよ。 「どうしてオマエはモーツァルトの音楽の解釈学について、もっと積極的に取り組もうとはしないんだ?!ケシカラン!」と怒られても、困ってしまうでしょ? 「この分野は当事者ではない。」が、じゃあ、「どの分野に主体的に取り組んでいるのか?」 それが明確に言えればいいだけ。 ところが傍観者感覚だと、あらゆる面において、「まあ、何と言うかぁ〜、オレには関係ないんじゃないのぉ〜」くらいの曖昧なニュアンスになってしまう。傍観者であるがゆえに、対象との関わりは、一応は発生しまっている。しかし、傍観者ではなく部外者だったら、そもそもその対象とは関わらないわけでしょ? 当事者意識がないダメダメ人間は、別の言い方をすると部外者意識もないわけ。 「この点は、自分に関係がある。」 「そして、あの点は自分に関係がない。」 そのような『区分け』ができないんですね。 関係あることについては、お手伝いすればいいだけですし、関係ないことについては、別の人を紹介すればいいだけ。 要は「自分自身はこのような人間なんだ!」「このようなことをやり遂げたい!」って、説明できればいいだけ。 しかし、自己逃避のダメダメ人間は、「自分自身はこのような人間なんだ!」なんて、相手にわかるように説明できるわけもない。と言うか、自分自身でもわかっていない。 だから、自分に関係あることと、関係ないものの区分けができない。 つまり、あらゆるものが、自分と関係ないわけではない・・・と言うことになるわけ。 「関係ないわけではない。」という表現は、実にわかりにくい表現と言えます。まあ、ダメダメ家庭におなじみの二重否定表現ですね。そんな言い方では何も伝わらない。しかし、そのようにしか言いようがない。だって、明確な形での「関係ある」とは違うわけ。 ということで、まさに「どーでもいい」ことに首を突っ込んでしまう。逆に言うと、「どーでもいい」ことの方が精神的にラクなんですね。だって、自分自身に直接関わるようなことは、自己逃避のダメダメ人間には耐えられない。 それこそ「ワタシに構って!」「アナタに構ってアゲル!」なんて感じで、アチコチにチョッカイを出すようになってしまう。チョッカイを出される周囲の人間にしてみれば、「そんなこと・・・アンタはどうしてもやりたいことなの?」「そもそもアンタには関係ないことじゃないの?」なんて思わざるを得ないもの。 それこそ、この手の人間は、陰謀史観を得意気に語ったりするもの。 何かと言うと、「あの事件はユダヤの陰謀だ!」とか言い出したりする人が、実際にいたりするでしょ?別にユダヤの陰謀が現実にあったとしても、ほとんどの人間には関係ないでしょ? しかし、当事者意識がなく自己逃避のダメダメ人間にしてみれば、「関係ないものはない」わけだから、「アンタのために言っているのよ!」と正論を並べ、どうでもいいご説を得意げに語り、堂々とチョッカイを出すわけ。 その典型が、このメールマガジンで頻繁に触れておりますボランティアの連中ですよね? あの手の連中は、自分自身の問題に「降りかからない」マターを狙い撃ちにして、チョッカイを出すものでしょ?関係が薄いものほど、狙いやすいわけ。 しかし、現実としては所詮は部外者なので、チョッカイを出して、事態をより悪くしただけでトンズラしてしまう。 「それって、アンタたちの問題でしょ?」 そんな決めセリフを残して・・・ メチャクチャにされた挙句、トンズラされて、残された側としては「しっかし、だったら、最初からチョッカイなんて出さないでよ!」 って、思ってしまうのは当然のこと。 アチコチとチョッカイを掛ける人は、明確な形で部外者意識はなくても、部外者感覚があるもの。「関係ないわけではない」という理由でチョッカイを掛け、「やっぱり関係ないわ!」となり、サッサとトンズラしてしまう。 明確な形の部外者意識があれば、最初の段階でしっかり考えるでしょ? しかし、ダメダメ人間は、部外者『感覚』はあっても、部外者『意識』がないので、「な〜んとなく」でチョッカイを掛けてしまうわけ。 部外者意識と、当事者意識は直結している。 当事者意識があるからこそ、本当の意味での部外者意識があるもの。 逆に言うと、明確な形の部外者意識がない人は、当事者意識が欠如した人でしょ? よくある物言いで「部外者のワタシが言っていいことではない。」という言葉がありますが、そのように言えるのは、その人に確たる当事者意識があるからこそなんですね。 部外者意識がない人は、ただ、漠然とした傍観者感覚があるだけ。 たとえ部外者意識ということでも、意識とついている以上は、当人自身がその立ち位置を説明できるはずでしょ?だてに意識という言葉がついているわけではないんですからね。 当事者意識を持つことは、当人にとっては結構厳しいもの。 だって、「これをやり遂げる!」なんて覚悟が必要になってくるわけでしょ? そんな覚悟を持ってしまうと、それが達成できなかった場合には、心理的には重荷になる。 覚悟と言うものは、その重荷を背負うことも意味しているでしょ? 抑圧的で自己逃避の人間には、そんな覚悟とは縁がありませんよ。だから「いつでも逃げられるような安全圏からご高説を垂れる。」ようなことになってしまう。 それこそインターネットの掲示板で、「教えてやる!」とかのスタイルで、何かと恩を着せようとするもの。 かと言って、他者の行動なり意見を参考に、自分で何かをやろうとは思わない。 常に傍観者感覚。 逆に言うと、だからこそ、陰謀史観とかの議論のための議論が大好き。 あるいは、芸能人のゴシップとかご近所のうわさ話が大好き。 あるいは、何かスキャンダルのようなものが起こったりすると、大喜びでコメントを書き込んだりする。 しかし、たとえば相撲協会に不祥事があっても、ほとんどの人にとってはどうでもいいことでしょ?しかし、どうでもいいことであるがゆえに、意見を開陳したがることになる。 それを遊びでやっているのなら当人の勝手でしょうが、そんなものに「入れ込んで」しまったら、その人の当事者意識が発揮される場所はどこにあるの? その人が本当に必死で何かをやり遂げようとしているのなら、傍観者をしているヒマはないでしょ? 当事者として使命感をもって取り組むのか、それとも部外者として関わらないのか? どっちでもいいけど、ちゃんと区分けをして自覚する必要があるでしょ? 政治に対して本当に危機意識を持ち、現状を変えたいと思っているのなら、逆に言うと、インターネットの掲示板で書き込んでいるだけではダメでしょ? それこそ、選挙において自分から立候補したり、特定の候補者を応援活動すればいいだけ。 そんな腰の据わった参加意識があれば、逆に言うと、「この件については、ワタシは関心がない。」と、部外者としての立ち位置を明確に言えるものですよ。 私の元に寄せられる逆上メールの中には、部外者意識が欠如して、傍観者感覚に満ちた文章も結構多いものなんですよ。 いわば「オマエに教えてやる!」「オマエを指導してやる!」と言ったスタイルになっている。 本来なら、粗暴な言葉使いで、恩を着せるも何もないはずですか、逆にいうと、そんな言葉使いの人間だから、上からの物言いで恩を着せようとするわけ。 まあ、そんな人が自分の子供とどのように接しているのか? 「恵んでやる」、「教えてやる」なんて物言い人は、当然のこととして、子供に対し「オマエを育ててやっている!」と恩着せがましいことになるのは当然のこと。 当事者意識がなく、いわば傍観者に近いので、何かに参加するにあたっても、安っぽい。常に自分の逃げ場所を考えながら、参加している。 このような安手の参加意識は、「自分は、何をして、何をしないのか?」そんな区分けからの逃避なんですね。 そんな安手の参加意識に安住している人は、それこそインターネットの掲示板にいっぱいいるでしょ?いかにも得意気なコメントが踊っているものですよね? そんなコメントを見ていると「そんなマターにコメントをしているよりも、自分の直近の問題を直視しなよ!」って言いたくなるもの。 しかし、直近の問題は、自分にとって逃げ場はない。それに比べて、妙ちきりんな陰謀史観の話題は、自分とは関係のないゆえに、心休まるもの。だからこそ、そんな世界に浸りこんでしまう。 極端な例だと、「ウチの子供が登校拒否なのはユダヤの陰謀だ!」なんて言いかねない勢い。逆に言うと、自分の子供の登校拒否をユダヤの陰謀のせいにしてしまえば、当人は何もしなくてもいいわけでしょ?ただ、ユダヤ人を恨んでいればいいだけ。 しかし、そんな光彩陸離たるご高説を聞かされた側が思うのは、もっと単純なもの。 それは、いつもの問いかけ。 「で、アンタ、結局はどうしたいの?」 前にも書きましたが、傍観者感覚が板に付いてしまっているので、不特定多数を相手にしていることを特性としているインターネット上でコメントすることが大好き。それこそ、インターネット上の相談サイトに入り浸ることになる。 それこそ、「三人目の子供がほしいけど、皆さんはどう思うか?」という質問に回答のコメントを寄せたりしている。 しかし、そんな相談に対して、回答をする側も異常ですよ。 まだ、「そんな質問を、このような場で投げかけること自体が、アナタの親としての資質の低さを示している。」・・・とかの回答だったら、それなりの意味があるでしょう。 しかし、それこそ「子供が多いと楽しいよ!」なる回答をして、質問者がその回答を受けて、三人目の子供を作ってしまったらどうなってしまうの? 三人目の子供を作った親は、子育てにおいて上手くいかなくなったら、回答者のせいにできるでしょ?逆に言うと、そんな言い訳が確立しているので、「てきとう」に子供を育てることになってしまう。 その質問者が行う子育てについては、回答を寄せた人は、部外者であって、ちゃんと部外者意識を持つことが必要になるわけ。いい加減な気持ちで関わってはダメなんですね。 相談だったら、個別に相談されたら、その相談に対して真摯に回答すればいいだけ。 そんな回答は、自分の役割を意識した当事者意識に基づいているでしょ? 当事者意識がない人は、部外者意識もなく、参加意識も安っぽい。 部外者意識がないことは、あらゆる問題にチョッカイを出す根拠になってしまう。 そんな人は、現実的には、実にハタ迷惑な存在。 かと言って、そんな部外者意識がない人間は、自分自身の問題から逃避して、自分自身からは部外者になっている。 部外者意識が無く、無理に他者に関わろうとする人間は、自己に対しては、無意識的に部外者として振舞っている・・・ シュールなギャグのように思われるかもしれませんが、実にポピュラーな事例でしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 この手の「安手の参加意識」が顕著に見られるのがインターネットでのコメントでしょう。 「気軽に」コメントを書き込むことにより、「自分は参加している」と満足感を持てるんでしょうね。 ポータルサイトのYAHOOだと、その手の参加意識を満足させる試みがいっぱいあって、その手の人を取り込もうとしているようです。 しかし、そんなものへの参加で満足しているうちは、当事者意識にはつながらないわけ。 本当の当事者意識は、逃げ場とか退路を絶った感覚が必要になるもの。 安全圏からのコメントでは、むしろ当事者意識からは遠いものなんですよ。 |
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R.10/11/25 |