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カテゴリー | 形への依存 |
配信日 | 09年3月27日 (10年11月12日 記述を追加) |
タイトル | 清廉潔白 (過度に倫理的,ウソも方便) |
ダメダメ家庭を作る親のライフスタイルとして「清廉潔白」なんて言葉を取り上げると、「オイオイ!何をネタやっているの?」と思う方も多いしょう。 まあ、そう思われるのは当然のことですよ。ただ、ヒネリが多いのはこのメールマガジンの特色なのでしょうがない。 「ウソをつかず、何事もマジメに・・・って、むしろ必要なこと。清廉潔白の何が悪いの?」 そう言いたいでしょ? もちろん、清廉潔白な態度が悪いわけがありませんよ。 私はここで、ちょっと別の考えも取り入れてみましょうと言っているだけです。 ダメダメ家庭を作る親は当事者意識がない。このことはこのメールマガジンで頻繁に書いています。自分たち自身で問題を解決していく発想がないわけ。だから、ただ人に合わせているだけだったり、「正しい」ご高説を盲目的に信奉しているだけなんですね。 もし、自分たちが直面している問題を自分たちで解決しようと思ったら、キレイごとだけで解決するの? 世の中には「ウソも方便」なんて言葉もありますよね? 以前にちょっと言及したフランスの映画監督のエリック・ロメール監督の作品で、そんなことがテーマになっている作品があります。 最後のシーンで、主人公の男性が、妻と子供と一緒に海岸に遊びに来ている時に、「昔関係があった女性」とバッタリ出会ったわけ。妻との間でちょっと気まずい雰囲気になり、妻が後で聞く「さっきの女は誰なのよ?」。ということで、男性がウソを言うわけ。「若い頃の火遊びさ!今は君一筋だよ!」妻はその言葉に安心する。 まあ、実際には火遊びのレヴェルを超えていたわけですが、ウソを言って妻を安心させることも夫の務めでしょ?何も正直に昔の関係を事細かに説明する必要はないじゃないの? まさに「ウソも方便」なんですね。「そんなウソはけしからん!」なんて思う人もいるかもしれませんが、その映画はカトリック団体の推薦映画。まあ、作品の内容をわかって推薦したかどうかは別として、ウソの重要性をカトリックは認めていることになるわけ。 あるいは、イタリア映画で、自分が現在進行中の浮気の話を、事細かに妻に相談する男性が主人公の映画がありました。ある意味においては正直と言えますが、これって「自分が家庭を運営していくんだ!」という当事者意識が欠如しているということでしょ? 『浮気なり、「若い頃の火遊び」は、そもそも、しなければいいじゃないの?』というのは、ごもっとも。 そんな正論をぶつだけの人間が、一緒にいて会話をしておもしろいかどうかはまったく別ですが。たとえば、女の子が料理を作ってくれたら、それを食べる側は、たとえどんな味でも「おいしいよ!」と言う必要があるでしょ?正直であることだけがいいわけではないでしょ? 信頼関係が出来た後になって、本当のことを言えばいいだけ。 あるいは、地方公共団体で、情報公開などの行政の透明性の問題で同じような問題が起こりますよね? 清廉潔白にあらゆることを公開することは、原理的にはいいことなんですが、逆に言うと、そのような組織は、「決められたことを、何も考えずにやっているだけ」の組織と言えるでしょ? 「自分たち行政の側が住民サービスを向上させるためにどうすればいいのか?」 当事者意識を持って、そんなことを考え、実行しているのなら、清廉潔白だけで片が付くの? 「法律にのっとって、決められたことをやっていますから、問題ない。」 と言うのは、確かにそうなんですが、それで住民サービスが向上するか?というと、別問題でしょ? 過去の浮気の問題だって、「妻が喜ぶ回答は何なんだろうか?」「家庭がまとまる回答はなんだろうか?」そのような視点から言葉を選んだ方がいいんじゃないの? 真実を全部しゃべってしまうと、結局は、相手に責任を押し付けることになってしまうでしょ?「オマエはオレのことを全部知っているのだから、これから起こった問題についてはオマエにも共同責任がある。」 そのような理屈になってしまうわけ。 夫と妻の間柄だったら、大人同士だから、まあ、しょうがない。 しかし、親と子供の関係でも、このようなことは発生したりするもの。 それこそ、父親の会社内での苦境を、事細かに子供に話したりするようになるわけ。 「会社が倒産しそうだ!」 「オレはリストラ寸前だ!」 「部長がオレをイジメる!」 そのように父親が会社内でどんな状態なのか?どんなに困っているのか?それを「包み隠さず」話すことは、原理的には悪いことではありませんよね? しかし、そんな真実を聞かされた子供はどうすればいいの? 結局は、父親の精神的なストレスを、家庭内で子供が一緒になって受け止めていくことになるわけでしょ?だって、子供も親の「事情」を、全部知っているわけですからね。 父親が会社内で、どんなにツライ立場にあっても、子供には「うまく行っている。オマエたちは安心しなさい!」なんてウソを言ってもいいんじゃないの?清廉潔白に正直に言うことが必要なの? いつもウソというのは大問題ですが、いつも真実ということも、結局は当事者意識が欠如しているということなんですね。 その「責任」を自分で背負う覚悟があるから、ウソを言う・・・そんな場合もあるわけ。正直に真実を言うことで、真実を共有した人間に責任を押し付ける・・・そんなダメダメもあるわけです。 家族がどうやったら、幸福になるのか? そのようなことを当事者意識を持って考えることが基本なのであって、真実であればそれでいい・・・なんてことにはならないわけです。 当事者意識がないと、自分の現状を自分で改善して行こうなんて考えない。 そんな人は、当然のこととして、自分が考えなくてもいい「他者の見解」の受け売り状態となる。権威筋が「正しい」と認定したものを、盲目的に信仰することになるわけ。というよりも、自分で疑い考えることに恐怖心を持っているもの。 身近に存在する「正しい」と認定されているものにすがってしまうわけ。 判断から逃避するダメダメ人間は、まさに「上から流れてきたものを、下に流す」だけ。 それこそコンクリートで堤防が築かれた川のようなもの。 魚が泳いでいるわけではないし、あるいは堤防に並木があるわけでもない。 非の打ち所がないけど、何の楽しみもない。 しかし、判断を恐怖する抑圧人間には、それしかできないし、それで十分。 勿論のこと、人間は誰だって最初は手短な正義から始めますよね?それが軍国主義の場合もあれば、マルクス主義の場合だってあるでしょう。イスラム教のコーランを正しいと思う人もいるでしょうね。 しかし、人間も成長すると、そのような手短な正義から離れてくるもの。 何故かって? 人と会話した経験や、多くの現状認識が積み重なってくるからなんですね。 「ああ、この人は、こんなこと考えているんだなぁ・・・」 「なるほど、このような考え方もあるんだなぁ・・・」 「たしかに、この方法も悪くないや。」 その人の考えに納得し、賛同するかは別として、考え方は一つではないんだなぁ・・・と思ってきますよね? しかし、これは会話ができ、現実を直視し、自分で考えることのできる人の場合。 会話ができない人はどうなるんでしょうか? 最初に習得した「正義」を絶対視することになりますよね? 共産主義を習得したのなら、それを絶対視する。 コーランを習得したのなら、それ以外を認めない。 しかし、自然科学ならいざ知らず、共産主義もコーランも本来は「人間の幸福」についての考えですよね?しかし、会話ができない人間は、本来の「人間の幸福」を置き去りにして、最初に習得した「正義」の実現に突進することになる。 まるで、鳥が最初に見た動くものを「自分の親だ!」と認識して、終生疑うことのないようなインプリンティングのような状態。むしろ、疑いにつながるような事例を破壊する方向に発想が向かうわけ。 こうなるとテロリスト一直線でしょ? また、ちょっと変形パターンとして極端から極端に走る場合もあります。 「子供時代は骨の髄まで軍国主義者だったが、今は骨の髄まで平和主義者だ!」 そのような人もいらっしゃるようです。テレビで堂々と公言なさっていた人もいました。 しかし、そのような骨の髄まで軍国主義者も、骨の髄まで平和主義者も同じなんですね。 だって、人と会話していない状態なんでしょ?現状認識から逃避している人と言ってもいい。 だから極端から極端に走ることができるわけ。人の考え方の多様性を認められない人であるわけです。 例えばそのような骨の髄まで平和主義者が、家で子供とどのような会話をしているのでしょうか? 子供が「どうして戦争なんて起こるの?」と聞いてきたら? 『あいつらがバカだからさ!』あるいは、『悪い心を持っているからさ。』 これでオシマイになってしまうでしょ?それぞれの人間の考え方を認められない人間は、自分以外の考え方をバカ呼ばわりしてオシマイになっちゃうんですね。 そうなったら子供だってイヤでしょ? そのような親は子供の話だって本当には聞いていないわけですね。自分の価値観というか、考えない状態を子供に押し付けているだけ。規範認定した対象が変化しても、規範認定し、その規範に盲目的に従う姿勢は変わっていないわけ。 精神的には自己逃避の抑圧状態のまま。 一方的な主張のみを聞いて育った子供は、当然のことながら会話ができませんよね? このようにしてダメダメの連鎖は続いていくことになってしまう。 しかし、一方的なスタイルではあっても、権威筋からは「正義」と認定されている。 だから、説明する必要もないし、問答無用の命令が正当化されているわけ。疑いを持つことの方が否定されるもの。 しかし、それによって実現されるのは「墓場の正義」でしょ? 正しいこと、清廉潔白であることが、ちゃんとした家庭を作ることとは言えないわけ。 というか、清廉潔白なスタイルは、ダメダメにつながりやすいもの。 汚れがないということは、ダメダメにお約束の「悪くはない」そのものでしょ? 汚れがいいわけではありませんが、考えることは、ある種の汚れがつきもの。 逆に言うと、頭がカラッポの状態だったら、実に「清らか」と言えるでしょ? 清廉潔白は、別の言い方をすると、人間不在。 抑圧的な人間は、会話や思考からの逃避をもたらしてくれる、そんなスタイルにすがってしまうわけ。 一方的であるがゆえに、当人にしても、周囲にしても、会話からも思考からも解放されることになる。それに、権威筋認定の、別の言い方をすると倫理的な行動は、周囲からは、賞賛を受けたりするもの。 しかし、ご立派な倫理を一方的にがなりたてる人って、やり取りをしても楽しい人ではないでしょ? 話はちょっと変わりますが、ドイツオペラで女性歌手における最高の役どころとして、フーゴ・フォン・ホルマンスタールが台本を書き、R.シュトラウスが作曲した「薔薇の騎士」という作品における元帥夫人という役があります。その元帥夫人は、まあ、倫理的な観点からみると、問題がある。 それこそ、オペラの幕が上がったら、ツバメさんとの情事の余韻に浸っているシーンなんですからね。お世辞にも倫理的とか清廉潔白とは言えませんよ。 にもかかわらず、その元帥夫人には品格がある。 自分自身を見つめ、現実を受け入れ、そして包容力がある。 知性もあるし、感性も豊かだし、相手への配慮もできる。 滅び行く自分を実感しながら、未来あるものへのまなざしも忘れない。 まあ、ウィーンという街のメタファーのような存在です。 倫理と品格は、意外なほどに結びつかない。 倫理を過剰に主張する人に限って、自分自身へのまなざしがないものでしょ? そんな人から品格がにじみ出てくるわけがないじゃないの? 品格というのは、単なるお行儀ということではなく、やっぱり自分自身を知っていることが必要でしょ? 倫理は倫理でいいとして、それにすがってしまって、自分自身を見失ってしまったら、結局は品格がなくなってしまうものなんですね。 どうせ、人とやり取りをするんだったら、倫理を一方的にがなりたてる人よりも、品格のある人の方が楽しいでしょ?倫理と品格を区別すると見えてくるものもあるわけですし、それは、その人の尊厳の問題に直結しているわけ。 現実的に見ると、「その人が、倫理的であるがゆえに、尊厳がある。」とは言えないことが多いもの。 だからこそ、尊厳や品格がない人は、ますます倫理に逃げ込んでしまうわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 ちょっと前のYAHOOのニュース欄に、ブラジルで、9歳の女の子が義父にレイプされて妊娠してしまい、母体の保護の観点から中絶をしたら、カトリック教会から破門されてしまったとかのニュースがありましたよね? もちろん、教会は所詮は宗教団体なので、内部の規準に基づいて行動すればいいだけ。 義父によるレイプ事件とカトリックの親和性の高さは、日本でも同じなのはともかく・・・ 少女を破門した教会関係者も、「どうしてこんな事件が起こる前に、事前に察知できなかったのか?」と、自分を責めるような姿勢があってもいいのでは?観察眼があれば、その義父の問題も事件前に察知できますよ。妊娠だって、レイプの1回目で妊娠したの?その少女が1回目のレイプで相談できれば、中絶も必要ないのでは? 少女を破門する以前に、そんな無能な教会関係者こそが問題なのでは? 逆に言うと、カトリックの側も、その問題にしたくないので、「悪いのは全部、少女や手術をした医者のせいだ!」と破門を決め込んだのでしょうね。 少女を破門した教会関係者は、実に清廉潔白といえるでしょ? だって何も悪くない。悪いことは何もしていない。 しかし、中絶前に、その少女から相談を受けたらどうするのかな? 「中絶はダメ!」とご高説を唱えるだけで、問題が解決するの? 解決しようと本気で思ったら、キレイ事では済まないでしょ? そのようなことは、それこそ学校でのトラブルでも同じですよね? キレイ事を連呼できるということは、事件前に何も相談されていないし、解決する気がないということなんですね。 |
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R.10/11/12 |