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カテゴリー | 判断と選択 |
配信日 | 09年4月29日 (10年5月17日に記述追加) |
タイトル | 選択を恐怖する |
ダメダメ家庭の人間は自己逃避であることは、このメールマガジンで頻繁に書いています。 そもそも当事者意識がないんだから、「自分はどうしたいのか?」ということを考えない。 それだけではありません。被害者意識が強く「子育ては親である自分が背負わされた被害」と確信して疑いがない親に育てられたので、ダメダメ家庭の子供は、自分自身の希望を抑圧するようになっている。 子供の側がどんな希望を持っても、親は何もサポートをしないわけですしね。 子供だけでやれることなんて限界があるでしょ?親が子供に対してサポートするからこそ、一般的には親と言う存在は、「保護者」と言われるわけでしょ? 子供が希望を持っても、実現の可能性がない状態なので、子供としては希望そのものを抑圧するようになってしまう。 「この門より入るもの、希望を捨てよ!」 これがダメダメ家庭の門の銘。 希望を捨てているんだから、その希望を実現させるために、自分で考え選択をすることもしない。しないと言うか、そのような選択の場そのものが嫌い。キライというか、恐怖している。 だって、自分で選択したのなら、その選択の結果の責任を取らないといけないでしょ? 自分で判断した後になって、その判断に起因して、何かトラブルが発生してしまったら「ワタシは悪くない!」なんて言えないじゃないの? そうなると今まで自分自身を抑圧してダメダメ家庭を生き抜いてきた人間の処世術が崩れてしまう。そうなると、今後は生き抜けるかどうかも危なくなってしまう。それでは恐怖感を感じるのは当然ですよ。 だから抑圧系のダメダメ人間は、選択の場そのものを恐怖するようになるものなんですね。 かなり以前に話題になった「こんにゃくゼリー」の問題ですが、たとえ事故があったとしても、何も製造中止にする必要はないでしょ?商品の注意書きを、より適切な表記にすればいいだけ。あるいは、もっとドラスティックな方法だと、購入に当たって免許制にでもすればいいだけ。 「こんにゃくゼリー」なんて主食と言うわけではないんだから、危険を冒してまで無理に食べる必要もありませんよ。 しかし、抑圧的な人間は、「自分は買わないし、食べない。」という判断なり選択そのものがイヤなんですね。まあ、「こんにゃくゼリー」の問題は、たかが嗜好品ですよ。 しかし、このような選択を恐怖する精神だと、結婚相手の選択まで他者に投げるようになってしまう。 以前に書いた「オトコだったら誰でもいい。」なんて言葉になってしまう。 あるいは、「偉大なる教祖様にワタシの結婚相手を決めてもらおう!」なんて発想になってしまう。あのような珍妙な集会も、「選択の場を恐怖する」人間にしてみれば、精神的な安寧につながるもの。 だって、結婚後にトラブルがあっても、それこそ「だってぇ・・・だってぇ・・・ワタシが決めたわけじゃないんだから・・・ワタシは悪くないもん!」「ワタシは言われたことをやっていただけだわ!」って言えるでしょ? 後になって言い訳ができる、いわば保険がかかった状態。だから精神的に安心できる。 それこそ、このメールマガジンに対しての逆上メールでもそんな感じ。 読んで不快なら、購読解除すればいいだけ。 しかし、そのような購読を解除するという判断なり選択が、怖いわけです。 だから、「どうして発行するんだ?!」なんてクレームになってしまう。 「どうして発行するんだ!」というクレームと、「どうして製造販売するんだ!」というクレームは、対象が違っているとは言え、そのメンタル面では同じなんですね。 本来なら、自分の希望を自覚して、そのための選択をすればいいだけ。 しかし、抑圧系のダメダメ人間はそんなこともしない。 抑圧系のダメダメ人間は、自分で判断してトラブルを避けることはしない。というよりも、避けるという判断そのものを、避けたいという心理を持っている。 逆に言うと、「こんにゃくゼリー」とか、メールマガジンの購読解除の問題での対応を観察すると、その人の精神的な抑圧状況もわかることになる。 これと同じような事例としては、政治でもあったりします。 それこそ、スポーツ選手とか芸能人が国会議員の選挙に立候補する事例もありますよね? そんな立候補の発言を受けて大騒ぎする人もいる。 「芸能人ふぜいが、政治に携わるんじゃないよ!」 その考えは、その人の自由でしょう。 だったら、選挙で芸能人候補者を落選させればいいだけですよ。 立候補に問題があるのではなく、当選することが問題なのでは? 有権者が判断して落選させればいいだけですよ。 むしろ、有権者としては選択肢が多い方がいいといえるでしょ? しかし、選択することが怖い人間は、立候補すること自体を問題視してしまって、当選することを問題視しない。立候補に対して大騒ぎしていた人は、実際に当選してしまうと、何も言わないものでしょ? 立候補を問題視するよりも、政治的な信念や能力を何も持っていない芸能人を見事に落選させて、「身の程を知れよ!このアホ!」と言えば済むだけ。 あるいは「今回は楽しませてもらったよ!次も頼むよ!」と笑っていればいいだけ。 それこそ、いつも立候補している「木下藤○郎」さんだったら、そんな扱いでしょ? 芸能人の立候補だって、そんな扱いでいいのでは? もし、芸能人が当選してしまうからマズイということなら、その当選してしまうこと自体が問題なのであって、それは有権者の問題になるわけでしょ?だって、「木下藤○郎」さんと、芸能人とかスポーツ選手の差を有権者が認めたから、選挙結果の差となったわけでしょ? つまり、有権者の判断なり選択の問題ですよ。 立候補すること自体を問題視することによって、有権者の側を厳然たる被害者の立場にしてしまう。 「アイツが立候補したせいで、ワタシたちはうまく行かない・・・」 「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くことになる。 逆に言うと、嘆いていればいいだけなので、落選させるための努力はしない。 そんなにその候補者が気に入らないのなら、インターネット上で騒いでいるだけでなく、対立候補として、立候補すればいいじゃないの? 選択それ自体を恐怖するそんな心情は、メールマガジンに対して、「どうして発行するんだ?」というクレームを付けても、購読を止めるという判断ができない人間の心理と共通しているわけです。 自分の希望を自覚して、そのための適切な選択を自分でしない人は、あらゆることが、他者のせいになってしまう・・・これは論理的にわかるでしょ?だって自分で判断して選択したわけではないんですから、すべて他者の問題ですよ。当人としては当事者意識がないので「やらされている」という受け身の意識となっている。もともと被害者意識を持っているんだから、うまく行かなくなると更に被害者意識が進行するのは当然のこと。 そんな人は、まさに他者を犯人認定するようになる。 自分の希望がないがゆえに、他者を犯人認定『できる』ことになる。 逆に言うと、他者を犯人認定するためには、自分で希望を持たない方がいい。 希望を持たないスタイルとなると、何も「ワタシは希望を捨てている!」なんて決意がこもった端的な言い回しではなくても、ダメダメ家庭だったら、こんな言い方をするものです。 「ワタシは、ただ、ふつうの家庭をつくりたいだけ!」 そんな言い回しで、自分が希望を持つことから逃避してしまう。 自己逃避なので、「避ける」という『判断』がイヤ。 自分の問題と向き合いたくないので、他者の問題にしたい。 しかし、被害者としてしか自分を語れないので、被害がないと困ってしまう。 だから、誰かを犯人認定するために、犯人として認定しやすいダメダメな人の元に寄っていき、以前に書いた「故意のあら探し」をすることになる。 そのような状況における犯人探しは、選択の場に対する恐怖に根ざしたものなので、自分が選択していないものを犯人認定したりすることになる。自分では何ともできない対象を犯人認定して、「あの○○のせいで・・・オレって、なんてかわいそうなんだ?!」とグチる。 この代表例が、以前に書きました「時代が悪い。」というもの。まあ、生まれた時代は当人が選択したわけではないので、時代のせいにしておけば、「ワタシは悪くない!」と言えるだけでなく、「みんなも悪くない!」となり、「いい子ちゃん」系のダメダメ人間にしてみれば、非常に好都合となる。 もちろん、政府を犯人認定したり、特定の外国を犯人認定するパターンも、実にポピュラーですよね?このような「自分の選択とは無縁のものを犯人認定したがる」心理の場合には、家庭の中でトラブルが起こった際には、犯人認定の対象は、配偶者よりも、子供に向かいやすい。 だって、配偶者は、少なくとも形式上は、自分で選択した結果でしょ?それに対し、子供は選択できない。 選択できないがゆえに、子供が悪いと認定しておけば、まさに「ワタシは悪くない!」と言えてしまう。「夫はダメダメだ!」と言うと、『じゃあ、どうしてそんなダメ男と結婚したの?』なんて突っ込みが必ずあるもの。そんな突っ込みを回避するためには、子供が悪いとしておいた方が都合がいい。 本来なら、一番選択していない人と言える実家の問題に目を向ける必要があるわけですが、その実家の問題はアンタッチャブルになってしまっている。様々なアンタッチャブルなものを避けながら、犯人認定を行い、その論理的な矛盾を、犯人確定の儀式によって、自分で納得させることをする。 「根絶」という言葉について考えた際にも触れましたが、当人が何も考えなくても、トラブルにならない・・・そのような状態が理想的な社会と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、逆に言うと、選択の自由がない社会と言えるでしょ? そんな社会は、本来なら息が詰まるものですが、「自分でやりたいことがない」「選択が怖い」ダメダメ人間にとっては、そんな社会が精神的にラク。 人々の精神が抑圧されて、希望を捨てている状態になってしまうと、「判断」や「選択」から解放してくれる「指導者」を求めるようになる。それこそナチスだってその典型でしょ?本来なら、ユダヤ人が嫌いなら嫌いで、避ければいいだけ。あるいは、以前に虚偽放送で問題になったテレビ番組があって「あの番組を廃止すべき!」なんて息巻いている人がいましたが、そんな番組なんて、視聴しなければいいだけですよ。しかし、判断するのが怖いので、「視聴しない」という判断もできない。だから根絶とか廃止とかの「元を断つ」方法になってしまう。 北朝鮮も、あるいはナチス・ドイツも、そんな精神的なニーズに応えているわけです。 まさにエーリッヒ・フロムが指摘する「自由からの逃走」が実現された社会と言えるわけです。 ホント、メールマガジンなり、「こんにゃくゼリー」なり、虚偽があったテレビ番組への対応を見るにつけ、その人の精神的な抑圧がよくわかるものなんですよ。 実際に、その手のクレームを叫びたがる人って、やたら「被害」という言葉が好きでしょ? つまりそれだけ当事者意識がなく、常に受身であるから、何事も被害となっているわけです。そんな人と一緒になって騒いでいると、いつのまにか犯人認定を受けてしまうもの。だから、そんな人の近くにいては危険なことは自明ですが、現実では、「一緒に被害を語り合いましょう!」と同類のグチ人間が集まることになる。 たとえば、マトモな環境だったら、子育てによる被害話に対して「それは、ちょっと違うのでは?親としてのアナタの育て方の問題なのでは?」と思われることになり、実際にそんな反応が帰ってくることになる。 それはダメダメな親にしてみれば耐えられない。 しかし、しょうもないグチでも、ダメダメな環境だと、通ってしまう。 それこそ「ワタシの夫はダメダメだ!」なんてグチに対して『まあ、なんてお気の毒な!』と同情の言葉が返ってきたりするもの。 だからこそ、安心して被害者意識に浸ることができる。 逆に言うと、ダメダメな人は、自分のグチが通るような環境を求めることになる。 そしてダメダメな親は、子供の出来の悪さを周囲に語ることになる。 被害話に乗せられやすい環境の中で、自分のグチが通ってしまうので、「自分はかわいそうな被害者」という更なる確信を元に、周囲に対して、更に自分の被害を語ることになる。 ダメダメな環境だと、もともと被害者意識が強い人ばかりなので、そんな被害話がいとも簡単に通ってしまうもの。 被害話が通ってしまうと、自分の被害が周囲に認定されたことになり、「自分は子育てによる被害者」という確信が、信念や自分のアイデンティティの根本の次元にまで到達する。そもそも、子供の出来が悪い方が、親としての自分の被害を認定するのに都合がいいので、そんな親はますます子供をダメにしてしまう。 結局は、周囲のダメダメな連中と一緒になって子供による被害話に盛り上がってしまい、「悪いのは全部子供のせいだ!」と、お互い同士で認定し合うことになる。 そんなダメダメな親は、学校に対しても、子供による被害を語ることになってしまう。 ダメダメな親は、ダメダメな周辺環境を求め、ダメダメな学校を求めるもの。 だから、そんな「グチに甘い」環境や学校に惹かれて、ますますダメダメ人間が集まってしまう。 当事者意識がなく、物事を自分で考える能力がない学校も、そんな親からの被害話に簡単に乗ってしまう。だから子供の問題は解決しない。 学校側も、「悪いのは全部子供のせいだ!」としておけば、その生徒を怒鳴っていればいいだけなので、対応がラク。 結局は、家と学校のダブルバインドで追い詰められた子供が、爆発することになる。 周囲の人間も、他者の被害話に気軽に乗って共鳴することにより、自分自身の被害者意識を満足させることができる。そして「自分たちはかわいそうな被害者なんだから」と主張し何もしない。 ただ、気に入らない人間をつるし上げているだけ。 ボランティアや市民運動なんて、そんなパターンでしょ? そんな連中は、「根絶」という言葉が大好きでしょ? それだけ、「選択」とか「判断」が怖い人たちなんですね。 現状認識と判断から逃避した親や、そんな人間が心休まるダメダメな周辺環境によって追い詰められた子供は、長じた後になって「誰でもいいから殺したかった。」と、やっぱり判断逃避の通り魔になったりする。 事件が起こった後で、周囲の人間は「どうしてこんなことに?!」などと言ったりすることもありますが、そんなことは、本来なら誰でもわかること。だって、そんな事件の犯人が持つ被害者意識と判断逃避は、まさにその人の親の姿そのものでしょ?あるいは、周囲の人の姿そのもの。その手の事件は、親が語る被害話に周囲の人が乗ってしまっている時点で、導火線に火がついた状態といえます。本来はその時点で対処すれば、ドッカーンにはならない。と言っても、ダメダメ家庭の周囲には、同類のダメダメ人間ばかり。だからそんな爆発寸前の状態が見過ごされ、実際にドッカーンとなってしまう。 抑圧的なダメダメ人間は、判断するのがイヤというよりも、判断そのものに心理的な恐怖を持っている。だからイヤなら自分で避けるという判断もできない。 ドメスティック・ヴァイオレンスでも、相手方を「倫理的に」糾弾することはしても、避けるという判断はしない。 これは、未成年の妊娠でも同じ。未成年の性行為に対して倫理的な問題を指摘しても、妊娠を避けるという判断はしない。 倫理的な主張が過剰になされる状態というものは、心理の抑圧の一形態なんですね。 大昔の学生運動もそんなパターンなのかもしれませんが、精神的抑圧と、倫理的な視点からの犯人認定の心理は直結しているもの。逆に言うと、その手の人が主張する倫理は、犯人認定の方法論に堕してしまっている。 そんな人が周囲にいたら、ちゃんと認識して、そして「判断」して、避けた方がいいんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 今回の文章は、前回配信の文章に関係した文章にいたしました。 予定としては、次回も、この内容に関連した文章を配信する予定です。 前回でもちょっと言及いたしました、09年4月の大阪での虐待事件ですが、そんな事件を起こす犯人は「避けるという判断をすること」自体を避ける心理があるもの。 「どうやったら、トラブルにならないようにできるのか?」 事件を起こす人は、そんな発想がないわけ。 事件を起こす人は、「まあ、なんてお気の毒なの?!」とグチに共鳴する人間だけを、周囲に置こうとする。 だからこそ、何もせず、実際にドッカーンと行ってしまう。 当人が、避けようとしないから、実際にトラブルが発生する・・・って、論理的には非の打ち所のないほどに明晰ですが、ダメダメって、視点を変えれば、実に簡単に理解できるものなんですよ。 ちなみに、今回の大阪の事件ですが、実父の実家は、当然のこととして、登場したりしております。しかし、加害者である実母や内縁の継父の実家は、登場していませんよね? まあ、あの実母の実家がどんな状況なのか? 皆様だったら、見当は付くでしょ? まあ、ちょっと見ただけで色々とお約束がありましたよね? 逆に言えば、あの悲惨な事件も、見る人が見れば、防ぐことができるわけです。 |
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R11/1/21 |