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カテゴリー | ダメダメ家庭が持っていない発想 |
配信日 | 09年6月3日 (10年12月30日 記述を追加) |
タイトル | 最後を締める |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。 自分の目標を達成したいなんて思っていない。と言うか、自分の目標それ自体が存在しない。 そんな人は、何かを始めるにあたって「て・き・と・う」に始めてしまう。 本来は、求める成果を出すことが重要でしょ?色々とやってみても、結果として求める成果を出せなかったら、それはそれでしょうがない。しかし、その場合でも、「このような目標を持って、このようなことをして、結果としてはこうなった。」そのように最後に総括することは必要でしょ? 「とりあえず」で始めるにせよ、最後くらいはしっかりと締めないとね。 しかし、当事者意識がないがゆえに、つまり、そもそもの目標が明確ではない状態で物事を始めてしまうがゆえに、最後を締めようがないわけ。 だって、もともと想定している成果がないわけですからね。実際の成果と比較して、最後に総括するも何もない。 逆に言うと、物事において、最後がいい加減な人は、当事者意識がない人間であることが簡単に想定できるでしょ? 当事者意識がないがゆえに、自分自身の問題から逃避しようとする。 それこそ、自己逃避の症状の典型と言うと、「自分探しの旅」なる行為があります。 自己逃避であるがゆえに、自分探しとなる・・・って、言語的には矛盾している感がありますが、「自分自身とは何なのか?」ということに本当に答えを出したいと思っているのなら、わざわざ外国には行きませんよ。 外国に自分探しの旅をするのは本人の勝手でしょう。しかし、じゃあ、探した結果、自分はどんな人間だとわかったの?その結果が重要じゃないの?しかし、自分探しの旅について語るような人間は、結果として「自分はこのような人間だと判った。」なんて言いませんよね? 外国に自分探しに出かけるにせよ、だったらなおのこと「自分はこのような人間だと判った。」と、最後を締める必要があるのでは? あるいは、よく自身のボランティア活動について語る人もいますが、そんな人は「こんなボランティア活動をやった!」「こんな境遇の人と関わった。」とは言いますが、「このように困っている人を、こんな手段で助けることができた。」とは言いませんよね?ボランティア活動をするのは勝手ですが、結果として誰かを助けることができたの?助けられなかったの?そっちの方がはるかに重要じゃないの?助けることが出来たのならどんな方法で?そのことの方が他の人間には参考になることですよ。 自己逃避の人は、活動の総括を行い、最後を締める・・・そんな発想がないケースが多いんですね。 逆に言うと、しっかり最後を締めて、総括したのなら、そんな活動も、意味があったと言えるでしょ?少なくとも当人には、いい体験ですよ。それが今後の知見につながったわけですからね。しかし、知見につながらない体験は、する必要もないし、ましてや他者に語る必要もないでしょ? 活動の最後に当たって、その活動を総括する。 そんな発想がないがゆえに、そんな人の物言いは、「あれをやった!」「このことをやった!」とかの、体験自慢になってしまう。本来なら体験そのものではなく、体験から得られた知見こそが語る意味があることでしょ? そんな人は、「学校でこの分野を勉強した。」とか言ったりしても、「ワタシも昔はその分野をかじったから、その分野で分からないことがあったら、ワタシのところに気軽に聞きに来てね!」なんて言わない。言うとしたら「オマエはその分野を勉強していないんだから、語る資格はない!」そんな形で他者を否定するパターンになる。 自分以外の人間の語る資格を云々するよりも、その分野のエキスパートとして、傾聴に足る見解を表明すればいいだけでしょ?しかし、自分の活動の総括ができていない人は、「自分だったらこのように考える。」と自分の考えを表明することはできない。ただ、他者の見解をくさしているだけ。 そんな感じで、他者をくさすだけなので、なおのこと、自分では何もやろうとしなくなってしまう。他人のやっていることにケチをつけることに安住してしまう。 だから、ますます達成感とは無縁になり、ますます、自分の目標を持つこともなくなってしまう。 自分では何も達成していないので、内心ではコンプレックスを持ち、自己弁護に励むことになる。 「ボクは悪くない!」 「ボクって、いい子でしょ?」 そんな主張に熱を入れるようになる。 以前にこのメールマガジンで「努力のための努力」というお題で配信しております。 その「努力のための努力」は、別の言い方をすると、「弁解のための努力」とも言えるでしょ? 決して「成果を得るための努力」ではありませんよね? 成果について考えていないし、その折々の弁解のための活動だから、そんな人は、アッチコッチに手を付けて、「ああ!ボクはこんな立派なことをやったぞ!」と自慢して、そしてオシマイとなってしまう。 「求めよ!さらば得られん!」という言葉がありますが、色々なことに手を付け、その活動を自慢する人は、本気では何も求めていないわけ。求めているのは、弁解のための理屈だけ。逆に言うと、そんな人は弁解のための理屈は、活動すること自体ですでに得ているもの。 だから、成果を確認する必要もなく、最後を締める必要もない。 あるいは、以前にテレビを見ていたら、インターネットの掲示板に常駐している人が、「掲示板からどんな情報も引き出すことが出来る!」って自慢気に話していました。まあ、必要な情報が得られれば結構なことでしょう。では、その得られた情報から、どんなアウトプットがあったの? そっちの方が重要でしょ?「掲示板で得られた情報をまとめて、こんな文章に仕上げることができた!」「この文章をみなさんも読んでください!」と言うなら結構なこと。しかし、現実では、そんな人っていないでしょ? 「どんな情報も得ることができる!」って、それで終わってしまったら単なるデバガメと一緒の覗き趣味ですよ。 「これをやった!」とか「オレはあれもできる。」はいいとして、じゃあ、「結果として得られたものは何?」そんな最後を締める話にならないんですね。 そんな状態の時に、鋭い人から「で、結局は、アンタはどんな結果が得られたの?」なんて言われてしまう。 まさに痛いところをズバリと突かれてしまって・・・逆上したり、お得意の逃避。 そうして、そんな鋭いことを言わない連中が集まる場所にたむろすることになる。 そうして、「掲示板からどんな情報も引き出すことが出来る!」と相変わらずの豪語。 ネットを使いこなす知識は自慢できるものではないでしょ? ネットから得た知識は、それなりに自慢できるものもあるかもしれません。 しかし、自慢するとしたら、ネットで得た知識を使って自分で達成したものでしょ?しかし、達成したものがあるのなら、ネット云々なんてどうでもいい話ですよ。ネット云々と言っている時点で、達成したものがないということでしょ? 結果が得られることのないそんな日々の結果は、どのようなものになってしまうのか?そんなことについては、言うまでも無いことでしょ? 情報を得ることに意味があるわけではなく、その情報を元に自分で考えることに意味があるわけでしょ? あるいは、他者とのやり取りにおいても、本来は、達成したかったものがあったわけでしょ? あるいは、相談や質問などにおいて、相手からの見解やアドヴァイスを受けて何が解決したの?それが重要でしょ? あるいは、抑圧的な人は、トラブルになって、誰かとバトルになっても、結論を出したりはしないもの。 相手に対し、必死でクレームをつけたりしても、「で、結局は、どうなったの?」という点が何もない。以前に書きましたが、バトルの連鎖状態になっただけ。 そんなバトルによって、自分の問題が見ないことが可能になったというだけで、自分の判断は何もない状態。だから、どんな結論というか落としどころで終結とするのか?そんな判断もできない。だから、見ないという「なんとなく」最後となってしまう。以前に配信した文章だと「テンテンテン(・・・)」でのラスト。 そんな人は、過去のバトルについて語るとなると「あの人と色々とあったんですが・・・」「あの文章に対してクレームを付けたんですが・・・」そんな「テンテンテン」付のパターンになってしまう。 クレームをつけるのなら、最後まで付き合って、結論を出せばいいだけ。 途中でトンズラするつもりなら、クレームなど最初からつける必要はありませんよ。 そんな人は、結局は「ワタシはオマエによる被害者なんだ!」と自己確認しているだけ。 だから、そんな人は様々な分野で、同じような失敗を繰り返す。 知っている人が「こんにゃくゼリー」を買って食べて死んでしまった・・・次にはそんなものを食べないようにする・・・という自分なりの判断はしない。ただ「こんにゃくゼリー」を恨んでいるだけ。 自分では判断はしない状態のままだから、結婚相手の選択もミスる。 判断なり選択によって最後を締める発想がないので、結局は全部他者の側の問題になってしまうわけ。そして、その犯人認定した他者をつるし上げるだけ。 自分が判断しなくても済むように、大元を廃絶しようとするわけです。 ドメスティック・ヴァイオレンスの周辺なんて、典型的にそんな状況になっている。 抑圧的な人間は、そもそも自分で判断することを恐怖しているので、判断しなくてもいい状態がほしい。 だから結論を得るための努力なり進め方ではなく、見ないためや目を逸らすための努力なり進め方になってしまう。結論を得るためには、厳しい現状認識が必要だし、自分自身の希望も明確化する必要がある。しかし、見ないという終結法しか持たないので、結局は、何かを犯人認定してつるし上げをして、犯人確定の儀式とするわけ。 ダメダメ人間が他者に要求するのは、ただ「ワタシをかわいそうな被害者だと認めてほしい!」ということだけ。 そうして「ワタシに構って!」と主張するだけ。 当事者意識がないので、結論などは無用。構ってもらうことが成果であって、やり取りや議論の結果には意味がないわけ。 そして事態がマズくなると、結局は逃避。 だから、スグに逃げられる状況にいたがる。 それこそボランティアのようなものが大好き。 だってボランティアだったら自分で判断する必要はないし、スグに逃げられるでしょ? そんなことだから、達成感というものがわからない。達成感がないので、最後を締める発想もない。逆に言うと、最後まで到達することを前提に、というか最後までやりぬくことを前提に、物事を始めない。 それこそ、以前に日本の首相をされた安部さんとか福田さんのような「ポイっ!」と投げ出すようなことができてしまう。最後のポイはともかく、彼らは、もともとは何をしたかったんだろう?最後でコケる人は、最初の決意がないものなんですね。 たとえば、インターネットの掲示板で、その掲示板(スレッドというのですか?)を、新たに作って、議論の場を作ったのはいいとして、「てきとう」に議論しているだけで、最後を締めることなく、そして、また別の掲示板を作ったりする人もいるようですね? 新たに掲示板を作るのはいいとして、じゃあ、前に作った掲示板での議論で何が得られたの?どんな知見に到達したの?どんな合意が得られたの? 最初に掲示板を作った側の人は、その点について自分なりに確認することが必要でしょ? そんなこともしないで、次に取り掛かるような人は、何をやらせてもうまくいくわけがないじゃないの? 新規の掲示板を気軽に作って、そして、てきとうに議論させ、結局はトンズラ。 そして、「ああ、どうしてみんなは真剣に議論しないの?」「どうして、ボクのことを分かってくれないの?」と嘆くのはいいとして、そんな人は真剣に議論する気がもともとないわけです。 あったら、主催者として、マトモな議論ができる運営にするし、結論や成果を意識しながらの運営をしますよ。そんな運営がされていれば、参加者もマトモな議論になるんじゃないの? 新たな掲示板を「てきとう」に作った人は、議論をしたという形を整えているだけで、別の言い方をすると、言い訳を作っているだけ。 だから、また別の言い訳がほしくなったら、別の掲示板を作ることになる。 そうして、最後を締めることなく、結論を得ることもなく、結局はトンズラ。 あるいは、メールマガジンの分野においても、いい加減に始めて、いい加減に終わってしまっているメールマガジンって多いでしょ? そんなメールマガジンは、もともと「ボクっていい子でしょ?」なんて雰囲気を漂わせた文章で、「あーでもない!こーでもない!」と議論のための議論をウダウダ書いてあって、そして、いつの間にか発行が終わってしまっている・・・そんなメールマガジンって、皆様も経験したことはありませんか? メールマガジンの発行も、始めたからには最後くらいは締めないとね。 強制されて始めたわけではないんだから、「最後をどのように締めるのか?」それくらいは想定していないと、ダメでしょう。 しかし、その手のメールマガジンは、そもそもの目的が自己弁護。だから自己弁護のための行動を記述することになる。しかしそんな文章を読んでも「いったい何が言いたいの?結局は、何をやったの?」と思わされるだけ。 自慢じゃあないけど、この私はこのメールマガジンの最後の文章は、今のところでは腹案が2つほどありますよ。文章のドラフトもできているし。だから明日でオシマイとなっても、スグに対応できますよ。 まあ、このメールマガジンの最後はともかく、尻切れトンボで発行が終わるメールマガジンを見るにつけ、「情けない人だなぁ・・・こういう人は、何をやらせても、尻切れトンボなんだろうなぁ・・・」と思っちゃうんですね。皆様もそう思うのでは? 逆に言うと、それなりに最後を締めて終わったメールマガジンは、最後だけでなく、途中も、結構充実していたでしょ?その文章の内容に同意するかどうかは別としてね。 とは言っても、最後を締めるというのは、現実的に難しいもの。 その「締め方」の上手さは別として、そんな発想自体がないと、常に「テンテンテン(・・・)」というか「なんとなく」で終わってしまうもの。大山鳴動はしても得たものは何もない。 それこそインターネットの掲示板とか、テレビでの討論番組などで、その人たちなりには「熱い議論」をしているつもりなのかもしれませんが、もし、その議論に意味があると当人たちが本気で思っているのなら、最後に報告書くらいはまとめるでしょ?何も形式ばった紙の報告書でなくてもいいわけですからね。どんな議論があり、どんな結論が得られたのか?後になって、それをまとめる意欲がわかない議論なんて、当人にとって、結局は無意味だったということでしょ? 最後を締めるとなると、芸術作品のラストというよりも、芸術家のラストでは、色々なパターンがあります。 意外に多いのは、「開いた形で、最後を閉じる。」というパターンです。 それこそ日本の俳人の松尾芭蕉の辞世の句は「旅にやんで 夢は枯野を かけめぐる」ですが、あえて六・七・五の文字数で、いわば未完成としています。最後を未完成とすることで、創作の旅が終了していないことを示し、最後としたわけです。 あるいは、「ソ連」の作曲家のショスタコーヴィッチの最後の交響曲である第15番は、いわば謎を残した最後ですが、これって、たぶん、自分自身の作品の価値や自分自身の創作活動について、作者自身が直面している謎を提示しているんでしょうね。「オレのやってきたことは、なんだったんだろうか?価値があったんだろうか?」そんな謎を提示しているわけです。 結論を出すのではなく、謎を最後として、終了するわけ。 あるいは、有名なシェークスピアの最後の作品は「テンペスト」ですが、最後に主人公のプロスペローはエアリアルを解き放って安息を迎えます。 このエアリアルは空気の精ということになっていますが、作者のシェークスピアにとっては、創作の霊感のメタファーと言えるもの。今まで自分のパートナーだった神からの霊感を、神に返して、終了とする。 あるいは、日本の作曲家の武満徹さんの最後の作品は、「エア」という曲ですが、エア(まさに空気)という曲を最後としたのは、シェークスピアの最後におけるエアリアルを意識していたんでしょうね。彼も創作の霊感を神に返して、永遠の眠りについたわけです。 巨匠たちは、そんな形で、霊感を神に返したり、あるいは、創作の旅に終わりがないことを示したりと、最後を「締める」ようなことはしていません。 まさに、ゲーテが最後の作品「ファウスト」のラストで言うように「絶えず勤め励む」「足らざるものが、ここに肯定される」という終わりなさ、いわば永遠の生成感を提示するわけです。 とは言え、そんな巨匠たちも、それまでの作品は最後まで纏め上げてきたわけです。人生最後の作品だからこその未完成となったり、開いた形になっているわけです。 しかし、抑圧的なダメダメ人間は、何をやらせても、最後までやりぬくことはないもの。そして、その過程や成果について、振り返ったりはしないもの。 そして、スグに別のものに取り掛かってしまう。 作品をまとめるくらいなら、そんないい加減な態度でも、いいのでしょうが、それこそ離婚のようなものでもそんなパターンになってしまう。一回目の結婚でコケたら、それを総括することなく、スグに次の結婚をしてしまう。そして同じような修羅場になってしまう。 巨匠たちが、まさに創作人生の総決算として、十分に考えた上で開いた形で閉じているのとは逆に、ダメダメ人間は、いつだって、放りっぱなしなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 最近は文章がやたら長くなってしまっていて、申し訳ありません。 なぜ長くなっているのかというと、まさに今回の文章で記してあるとおり。 私としても、いつまでもこのメールマガジンの配信をするわけにもいかない。 そのうちにネタがなくなるだろう・・・と昔は思っていたのですが、そうは行かないようです。 「この時点で終わらせる。」・・・という、意思がないと難しいんでしょうね。 ということで、ひとつの文章に、色々なネタを突っ込んでいるので、その分、長くなっております。 長文を読むのが苦手な方は、特定の曜日だけにするなど、文章を間引きしてお読みくださいな。 |
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R.10/12/30 |