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カテゴリー ダメダメ人間の自己逃避
配信日 09年6月12日
タイトル 爽やかに過去逃避
「終わったことを、いつまでもグダグダ言うな!」
そんな言葉もあります。
「建設的に前を見ようじゃないか!」
その御説はごもっとも。
しかし、世の中には、別の言葉もありますよね?
「大きな成果も、小さなことの積み重ねだ。」

過去の成果や、現在の作業を通じて、将来の成果が得られるわけで、建設的と称される「輝かしい将来」を夢見ているだけでは、何も達成できませんよ。

しかし、ダメダメ家庭の人間は、抑圧的で自己逃避である。
このことは、このメールマガジンで頻繁に触れております。
画家のゴーギャンのように「自分はどこから来て、自分は何者で、何をするのか?」そんな思考には至らない。

過去のことからも逃避。
現状認識からも逃避。
将来について考えることからも逃避している。
それがダメダメ人間。

じゃあ、いっそのこと死んでしまえばいいわけですが、死ぬことからも逃避してダラダラと生きている。そうして、「あの○○のせいで・・・ワタシはうまく行かない!」と周囲にグチることになる。

まあ、過去も現在も未来からも逃避していたら、トラブルも起こったりして、さすがに周囲からの視線も厳しい。
私みたいに、「で、結局は、アンタはどうしたいの?」と聞いてくる人間だけでなく、それこそ「もう、オマエなんか死んでしまえよ!」と言い出す人も、現実にいるもの。

そうなると、グチグチとグチることもできない。自分について、なぜ死なないのか説明しなくてはならない。説明能力がないダメダメ人間にしてみれば、人に説明することは、死ぬよりも辛いこと。

だから、そんな人は、往々にして、現実離れした目標を掲げたりするもの。
それこそ以前より頻繁に言及しております、「約束の地」のような発想を持ち出してくる。
「あの○○になったら、すべて解決だ!」「これを持ったら、あっという間に解決だ!」
そんな理想郷を掲げ、周囲に語るわけ。そうして、現状から逃避する。

あるいは、やたら背伸びした目標を掲げることになる。
それこそ、以前に岡山駅で突き落とし事件を起こした少年は、「京都大学の医学部進学」とか言っていましたよね?希望は希望でいいとして、目標は目標でいいとして、現在の学力というものもあるわけでしょ?
将来の目標だって、現状を踏まえたものにしないとね。それにどうしても医者になりたいのなら、何も京都大学でなくてもいいのでは?
その少年は、本当はどうしたいの?
今現在は、どんな状況なの?
逆に言うと、それについて考えることから逃避するために、現実離れした高い目標を掲げているわけです。遥か彼方のものを絶対的に肯定することで、自分の目の前にある現実を否定しているわけです。だって、高らかな目標を掲げておけば、誰もそれを否定しようがないでしょ?「もっと現実を直視しろよ!」と言われることはあっても、そんなアドヴァイスに対しては、『なんだと!このボクの夢を否定するのか?!』とでも言えばいいだけ。
つまり、説明する必要がないわけです。
説明する必要がないがゆえに、逆に言えば、その夢について自分では考える必要がない。
つまり、自分の夢について考えなくても済むような夢といえるわけです。
その夢の高邁さは、別の言い方をすると、自分自身からの距離の遠さを意味しているわけです。

そんな人は、自身の過去を語っても、実に「爽やか」なものなんですね。
それこそ、子供時代に親との間に問題があっても、「過去には色々とあった。」の一言で片付けてしまう。過去をその一言で片付け、後は、壮大ですばらしい将来を延々と語ることになる。そんな人にとっては、語られる立派な将来像は、逆に言うと、過去や現在から逃避する手段となっているわけです。

爽やかというと、言葉としては聞こえがいいわけですが、別の言い方をすると、何も考えず、アタマが空っぽと言うこと。何もこだわりも引っかかりもなく、まさに、爽やか。

そんな人は、自分が掲げる立派な未来についての質問は結構したりする。
「ああ!どうすれば、あんな輝かしい将来に達することができるのだろうか?」と願望を語ることになる。
しかし、『アナタ自身の現状はどうなの?』『今までは、どんなことをやってきたの?』『どうしてそんなに、それを得たいの』などと相手の側から質問されると、爽やかにトンズラするもの。

どんな人だって、過去に色々とあったわけでしょ?それこそダメダメ家庭出身者にしてみれば、「色々」では片付かないほどに「色々」とありましたよね?
重要なことは、それを具体的な各論で認識することでしょ?
しかし、抑圧的なダメダメ人間は、各論での思考ができない。

それこそ結婚後すぐに離婚したような女性でも、「あの頃はワタシも若かった。」の爽やかな一言でオシマイになってしまう。ヘンな話になりますが、その出身家庭がダメダメであるほど、そのダメダメの各論が言えないものなんですね。
言えるとしたら、「昔はワタシも親を恨んでいた。しかし、今は恨んでいない。」こんな総括的なパターンになってしまう。感情面でオシマイになってしまっているわけです
「今は恨んでいない」のはいいとして・・・「もう恨んでいない」から、「何も考える必要もない」となり、結局は、「なじみ」の流儀であり、その人の親と同じようなことを繰り返してしまう。あるいは、「人生が二度あれば!」「もう一度、やり直しができたのなら!」などと壮大で劇場的な嘆きは語れても、『じゃあ、その2度目の人生において、何を修正するの?』『一回目の人生ではどの点が間違っていたの?』なんて聞かれても何も回答できない。

あるいは、事件があったりすると、「仲は悪くなかった・・・」なる言葉が登場したりするものですよね?それこそ、以前に東京で起こった歯科医師宅で兄が妹を殺害した事件でも、その兄妹の親はそんなコメントでした。「仲は悪くなかった・・・」という爽やかな一言でオシマイになってしまって、「じゃあ、どんな会話があったの?」「どんなイヴェントがあったの?」「今まで一度も諍いがなかったの?」なんて質問には答えられないわけ。結局は、ダメダメにお約束の二重否定表現で自分勝手に納得してしまう。

何も離婚とか、実家の中での親とのやり取りの記憶ばかりではなく、抑圧的なダメダメ人間は、「体験が断片化」されてしまっている・・・このことは以前に書いております。
過去の記憶が断片化されていて、積み重ならないので、ある意味においては、実に爽やかなもの。別の言い方をすると、何もこだわりがない状態。人とのやり取りでトラブルになっても、すべてをチャラにして、まったくゼロから出発しようとする。だから同じようなトラブルを繰り返す。

現状認識から逃避しているので、そもそも周囲の人に対して不快な気持ちを与えたことを認識していないし、自分自身の感情を抑圧しているので、嘆きの言葉は語っても、本当の意味で自分が不快にも思ってもいない。
過去の体験を語っても、感動した芸術作品とか、誰から受けた印象に残った言葉がない。
体験が断片化されているので、自分の心に根を下ろしているわけではなく、スグに忘れることができてしまう。

自分の過去から逃避しているので、その人の問題意識も切実なものではないし、自分の身になっていない。自分の過去の問題は、あっさり問題外にしてしまう。
だから他者の問題に首を突っ込みたがる。他者の問題を、自分の問題意識にしてしまう。
だから過剰なまでに他者への関心を示すことになる。
そうやって、自分自身の過去からどんどんと逃避してしまう。
だから、過去と同じトラブルを繰り返し、またもや、見ないという「爽やかな」対処を取る。

自分の過去なり子供時代のことは思考停止になっているわけ。
だから話をしていても、自分の子供時代のことはアンタッチャブル。
そんな人が何も考えずに、子供を作ったりする。
自分の子供時代のことは思考停止になっているので、自分の子供と接していても、常に大人の視点だけになってしまう。子供の視点を振り返るのが怖いわけ。
だから、自分の子供に対し、大人の事情への配慮を求めることになる。子供の事情は無視して「親に迷惑をかけるな!」「早く大人になれ!」と要求する。
自分の子供のことを考えるにせよ、本来なら、親となった大人の側が自分の子供時代の感情や考えを「思い出す」ことが、まずは最初に必要なことでしょ?
しかし、そこから逃避している。

昔はこんなことはなかった・・・そんな嘆き節を言う人は、自分自身の過去は説明できないものでしょ?本来は、サン・ディグジュペリがいうように、「誰でも昔は子供だった。」わけです。しかし、「そのことを忘れてしまっている。」わけです。単に忘れるというよりも、ダメダメ家庭の人間は、過去を抑圧しているわけ。過去を思い出せば、精神の失調が起こってしまう。だから思い出すのが怖い。

見ないようにしているだけなので、そんなアンタッチャブル領域がどんどんと増殖してしまうやがて、自分の身動きが取れなくなり、お約束のドッカーンに至る。

「今まで生きていて楽しかったことは何?」
そう聞かれて、何も答えられないのに結婚してしまう。そんな人ほど、結婚後になって結婚相手についてグチることになる。まさに、自分にとっての新参者を犯人認定して、うまく行かない理由を自分で納得させている状態。本来なら、自分が子供時代に楽しかったことを、自分で作った家庭において、繰り返せば、楽しいんじゃないの?そして、自分が子供時代に楽しかったことを、親となったら実現できるような相手と結婚すればいいだけ。しかし、そんな具体的なものがないがゆえに、何も考えずに「てきとう」に結婚して、結局は修羅場になるばかり。

マルグリット・デュラスが書くような「ただの一度も言わない、こんにちはも、こんばんはも、新年おめでとうも。ありがとうも、一度も。決して話しかけない。話す必要があるとは、断じて思わない。すべてが黙りこくったまま、遠くよそよそしいままだ。石で出来た家族、分厚い厚みがそのまま石化して、どうにも近づきようのない家族・・・」「わたしたちの家ではお祝いをすることはただの一度もない、クリスマストゥリーを飾ることもないし、刺繍のハンカチーフを使うこともなく、花が飾られることもない。そればかりか死者のための行事もない、墓もなく、思い出もない。」そんな家庭で育ったら、じゃあ、どうするの?将来だって、そんな過去を踏まえたものにしないと、浮ついたものになるだけ。
しかし、自己逃避のダメダメ人間は、過去を見ないという対処をするだけ。

以前にちょっと言及したウィーンの文学者フーゴ・フォン・ホフマンスタールは手紙の中で「生きるためには過去を忘れなければならない。しかし、過去を忘れないことにその人の尊厳は懸かっている。」と書いています。
過去というものは、忘れるものではなく、克服するものでしょ?
忘れるだけだったら、尊厳とは無縁の人間になるだけ。

自分の過去から爽やかに逃避し、すばらしい将来像を語る人は、語られる将来像も、自分の過去に根ざしていないがゆえに、スグに変化してしまうもの。
そんな人が語る未来は、自分の希望に根ざしたものではなく、単なる逃避の手段に過ぎないわけです。

(終了)
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発信後記

今週は、自己逃避人間が、その逃避の手段としてとる様々な方法について、集中的に取り上げました。
明日の土曜日の配信文章は、その内容ではなく、ちょっと前に起こった事件を取り上げます。
といっても、ダメダメというのは、基本的な考え方を押さえておくと、だいたいが理解できるものです。しかし、目立つ部分に目を向けると、肝心な点が見えてこない・・・しかし、本質は、常に我々の眼前にあるものなんですよ。
R.10/12/23