トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ家庭の雰囲気 |
配信日 | 09年6月15日 |
タイトル | 機械仕掛けのリスペクト |
以前に、ダメダメ家庭では「敬意というものに縁がない」という内容の文章を配信しております。当事者意識がないダメダメ家庭では、「わあ!スゴイなぁ・・・ワタシはとてもじゃないけど、こんなことをできないや!ホント!スゴイ!」なんて、他者の業績を敬意の念を持って見ることはない。 敬意とは無縁であっても、ダメダメ家庭においては、序列意識が強い。 コミュニケーションが命令と服従の関係のみなので、「どっちの側が命令を下す側なのか?」その点が明確でないと、その後の扱いができなくなるわけ。 序列意識は非常に強いのに、敬意とは縁がない、というか敬意というものを理解できない・・・ダメダメ家庭では、そうなっているわけです。 じゃあ、敬意を理解できないダメダメ人間は、どうやって、「自分が上の序列なんだ!」と主張するの? 本来なら、敬意に値する自分自身の業績を示せば、それで「それなりの」敬意が得られるでしょ?逆に言うと、自分の業績を示して、敬意を持ってくれないのなら、そんな相手は放っておけばいい話ですよ。自分自身の業績は自分で何とかなっても、他者の感情や判断は何ともなりませんよ。まずは自分でできることをやればいいじゃないの?他者から敬意を得るとか得ないとかは、たまたまの付随的な結果であって、本来の目的ではないでしょ? しかし、何度も書きますが、当事者意識がないダメダメ人間は、本質的に「敬意」というものが理解できない。敬意という言葉を使っても、「上の序列」という意味であることもあるわけです。上の序列の人間との関係は、「支配・被支配」の関係でとらえ、そこには敬意がない。逆に言うと、ダメダメな環境においては、一般的に見て敬意に値する立派なことをして、それを相手に示しても、それによって上の序列を獲得するわけではない。 ダメダメ人間としては、「敬意」とか「敬う」とか「尊敬」とか「リスペクト」とかの言葉は、序列意識に基づいた「支配・被支配の構図」を記述するものとして理解しているわけです。「ワタシを敬え!」という言葉は、心理的には「支配者たるオレに従え!」という意味になっているわけ。 かと言って・・・それこそ当事者意識がない人なんだから、何も業績がない。 尊敬に値する業績もないんだから、要求されて、その人をリスペクトしたくても、できないでしょ? 結局は、相手からリスペクトを得られずに、だから問答無用に「ワタシを敬いなさい!」と序列に基づいて命令するしかない。 そんな要求を受けても、どうやって、リスペクトしたらいいのやら? しかし、そんな姿は、それこそダメダメ家庭の中ではおなじみの姿でしょ?ロクでもない親ほど「親を敬え!」と子供に要求するものですよね? あるいは、そんな姿は、韓国人がいつもやっていることでしょ?韓国人のいう「年長者を敬う。」という言葉は、意味的には「敬う」ではなく「従う」に近いものでしょ?だって、敬うも何も、具体的にどんな点を高く評価しているの? ダメダメ家庭においては、リスペクトに関しては「ワタシを敬え!」と命令するスタイルになっている。そして、このような問答無用なスタイルで命ぜられることは、ある種のダメダメ人間にとっては、ありがたいものなんですね。 自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、「命令される」ことを、むしろ望んでいたりするもの。 だって、他者から命令されれば、自分で考えなくてもいい。 抑圧的なダメダメ人間は、自らの認識を縛り、思考を縛ってくれる・・・つまり命令してくれることを、待ち望んでいる場合があるわけ。以前に言及したエーリッヒ・フロムがいうマゾヒズムを持っているわけです。縛られることが快感になっている状態。 何も縄で縛られるとかの物理的な拘束ではなく、たとえば「○○を学ぶ。」とか、「○○を規範とする。」という言葉を使って、知的な活動の面において拘束されたがったりするもの。「学ぶ」も「規範にする」も、別の言い方をすると「従う」でしょ?つまり被支配の立場を自ら望んでいるわけです。 命令されることを内心では望んでいる抑圧的なダメダメ人間と、序列意識が強い強圧的なダメダメ人間は、このように利害が一致することになる。だから問答無用の「ワタシを敬え!」という命令が通ってしまうことになる。 そうやって、問答無用に命令することでリスペクトを勝ち取ったダメダメ人間は、「ワタシは、あの○○から敬われているんだ!」などと周囲に豪語することになる。 ダメダメ人間にとってのリスペクトとは、「支配・被支配の構図」の一部なので、その手の人は、異常に「肩書き」にこだわるようになったりするもの。肩書きを持つことによって、「リスペクト」を得ようとするわけです。そして、その得られたリスペクトによって、命令系統をさらに固めようとする。 それこそ国連の事務総長になって「オレたちは偉いんだ!」と大喜びしていた人たちがいましたよね?あるいは、以前に話題になったオウム真理教では、わけのわからない肩書きをつけて喜んでいたでしょ?彼らも曲がりなりにも宗教団体なんだから、そんな俗っぽいことしてはダメでしょ?しかし、抑圧的な人間は、自分を認識や思考から解放してくれる道具と言える肩書きにこだわってしまう。 肩書きがあり、それにより命令系統の流れは固まっても、それが精神的なリスペクトになるか?というと本来は別問題でしょ? しかし、命令の流れと精神的なリスペクトの区別がつかないんだから、「肩書き=オレは偉い!」となってしまうのは当然のこと。 そして、いったん肩書きとか役職を得たら、まさに問答無用に命令することになる。 問答無用に命令するための肩書きなんだから、それを行使しただけ。 それこそ、「ワタシはアナタたちの大臣なんだから、ワタシを敬いなさい!」と部下に命令した大臣がいましたが、そんな発想も、ダメダメ家庭の発想を理解していれば、簡単に理解できるわけです。そんなリスペクトを要求するスタイルは、「ワタシはアンタの親なんだから、ワタシを敬いなさい!」というダメダメな親とか、「オレはオマエたちの先生なんだから、オレを敬え!」と生徒に命令する教員の発想とも同じなんですね。一般的な意味での敬意を基にしているのではなく、支配・被支配の関係性を基にしているわけです。 肩書きを元に、つまり権力を背景にリスペクトを要求しているので、逆に言えば、そんな要求が通ってしまう。 だって、そんな要求に対する反論は、現実的に、できませんよ。それが肩書きというもの。 ヘタに歯向かったりすると、権力を背景に弾圧されたり、「どうしてワタシを尊敬してくれないの?キーっ!」と被害者感情が爆発し逆上されるだけ。 肩書きだけでなく、支配関係を確認する儀式によって、リスペクトを得ようとする発想もあるもの。極端な例となると、先週取り上げましたが、陵辱行為をすることで、支配・被支配の関係を確定させ、相手からリスペクトを得ようとするわけ。 支配・被支配の構図で物事を見る人間にしてみれば、陵辱することで、支配権を確立し、それにより陵辱の被害者からリスペクトを得られると、無意識的には思っている。 そんな発想は、とんでもない発想と思われる方も多いでしょうが、それこそ北朝鮮なり韓国なんて、相手をいたぶることでリスペクトを得ようとしている・・・と言われると、「そう言えば、そんな見方があるかも?」と思ったりするでしょ? あるいは、肩書きだけでなく、立場を得ることによって、リスペクトを得ようとする場合もあります。 それこそ、そんな人間は「恵んでやる!」という立場に立ちたがるもの。ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?本来なら何かを恵んだからと言って、精神的な敬意に結びつくわけではないんですが、「恵んでやる」という行為によって、支配・被支配の構図は実質的には確立するので、それをダメダメ人間はリスペクトと捉えてしまうわけ。 ダメダメ人間の言う「リスペクト」は支配・被支配の構図の要素であり、命令の流れを意味している。だから、それを被支配者に言わせるようになる。 「ワタシはお母さんを尊敬している!」と子供に言わせたり、「先生を敬っている!」と生徒に言わせるように命令する。だって、そもそも命令するためのリスペクトなんだから、それを被支配者に言わせることは当然と思っているわけ。そうやって、支配・被支配関係をより強固なものにしていく。命令系統がより強固になったんだから、よりいっそう「ボクは親を敬っている!」と子供に命令し言わせることになる。それがスパイラル状に進行してしまう。 もちろん、そんな姿は、マトモな人が言う「リスペクト」とか「敬意」とかとは無縁のものであることは誰でもわかること。しかし、ダメダメ人間は、周囲のマトモな人たちと交流が少ないので、自分たちの認識を否定されることも少ない。周囲の人が、ヘタにそんな考えに疑念を呈したら、被害者意識が刺激され逆上されるだけ。だから、支配・被支配の構図でリスペクトを捉えていても、そのまま通ってしまう。 そんな状態だからこそ、被支配の側は、自分自身を抑圧するしかない。支配する側の肩書きを背景にして制度的に発言が封じられてしまうのと同時に、感情なり判断まで命令されてしまうんだから、精神的にも抑圧が進行しますよ。だからどんどんと思考停止状態が進行してしまう。リスペクトといっても、敬意とか、尊敬とか、尊重とか、敬うとか、微妙にニュアンスがあるわけですが、ダメダメ家庭においては「リスペクトする」は「従う」「服従する」という意味になっているわけ。 服従を要求され、その結果として、完全に抑圧状態になってしまっているのならともかく、命令され、要求されて、リスペクトの念を表明させられても、だからと言って、「内心から敬意を持っているか?」というと、別問題。別問題というよりも、心情的には軽蔑するに近い。まさに面従腹背状態に近い状態のケースもある。 自分への尊敬を強制する行為は、人からもっとも軽蔑される行為と言えるでしょ? 支配の側は、そんな軽蔑や反抗の感情が見えたりするので、なおのこと、リスペクトを命令するようになってしまう。要求され続けた側は、結局は、完全に自分自身を抑圧してオシマイになったり、逆に、臥薪嘗胆を決め込んだりするわけ。「あのクソババぁ!今に見てろよ!」と拳を握る。 ああ!すばらしいリスペクト風景だなぁ・・・ 当事者意識がないダメダメ人間は、信頼と好意の区別がつかない。 他者から信頼されるように、自分を律することはせずに、「ワタシを好いてよ!」と他者に好意を要求するばかり。逆に言うと、他者に要求すればいいだけなので、好意を得ることばかりを考えるわけ。 同じように、他者からリスペクトを得ることばかりを考えて、自分で何かを達成したり、自分自身の尊厳を高める努力などは何もしない。自分へのリスペクトを他者に要求するその人自身は、じゃあ、どんな人をリスペクトしているの?普段はどんなことをやっているの?どんな業績があるの? しかし、自己逃避で抑圧的な人間は、そんな人間的な思考はしない。 ダメダメ家庭にあるものは、人間的な尊厳不在の機械仕掛けのリスペクトなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 本文中にも書いていますが、ダメダメ人間にとってのリスペクトは、「従う」「服従する」という意味に近いわけ。 だから相手に対し暴行することで、相手からのリスペクトを得ようとする・・・なんて発想が現実に存在し、それを実行に移す場合もある。 よく、児童虐待の現場だと「懐かないから殴った。」という言葉が登場いたしますが、同じように「オレを敬わないから、殴った。」という物言いも存在するわけ。じっさいにその手のニュースに登場したりするでしょ? あるいは、前回取り上げた京都教育大学の事件ですが、そんな発想をアタマに入れておくと、その心理も理解できるようになるわけです。 ちなみに、あの事件に関して、新たに?「追手門大学」(大阪かな?)なる大学の学生がブログに加害者擁護のコメントを書いたとか・・・ 別に、信念があって、そのように主張したいのなら、それでいいのでは? しかし、だったら、ブログに「て・き・と・う」に書き込むのではなく、レポートに近い客観的な文章にまでまとめ上げるのがスジなのでは? そもそも学生だったら、たとえどんな程度の大学でも、ちゃんとしたレポートをまとめるようにしないとね。学生時代からブログとまりなんて・・・先が見えているよ。 その手のブログにある文章だと、「女性の方も悪い」なる主張のようですが、「どっちが悪いのか?」という観点こそがダメダメ。お互いの視点や考え方の違いを明確にして、それを踏まえた距離のとり方の示唆とする・・・それが一番重要なのでは? しかし、抑圧的になると、倫理的な視点が重視され、それによって、「自分はどうしたいのか?」ということについて考えることから逃避するわけ。 逃避しているんだから、まあ、ブログとまりになってしまうんでしょうが。 内容の適切さ云々よりも、ちゃんとした文章をまとめられないことから、見えてくるものもあるわけ。 |
|
R.10/12/24 |