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カテゴリー | ダメダメ家庭の金銭感覚 |
配信日 | 09年8月7日 (10年9月18日 記述を追加) |
タイトル | 見返り義務感 (遠慮の問題) |
芸術作品だと、ジャンルは異なっていても、割と似たことを言っていたりする作品も多かったりします。 そもそも創造的な芸術作品は、神からの霊感に基づいてできているんだから、根源は一緒といえるわけなんだから、結局は似てきますよ。 芸術作品でよく出て来るテーマとなると、選択の重要性というものがあります。 人は、常に選択をして生きている。生きると言うことは、そんな選択の積み重ねでしょ?社会だって、共産主義にするのか?自由主義にするのか?その選択はあるでしょう。どっちの選択でも、選んだ人の考え。ところが、抑圧的な人間は、その選択そのものを恐怖する。だから、常に「させられた」と受け身で受け取ることになる。 芸術作品を作るような人は、まずもって、ものが見える人。 だから自分の目の前に、いかに多くの可能性があるのか?あるいは危険性があるのか?それが見えてしまう。それを踏まえ、どのように判断していくのか?そんな選択の場面が多く見え、その幅が一般人よりも、かなり広い。 あるいは、それを作品にまとめる際にも、多くの選択が必要になってくる。 絵画だったら、「どの色を使うのか?」とか、「どんな構図で・・」とか・・・それこそ、無限の選択が存在する。 そんな選択の場に向き合う勇気がなければ、作品なんて作れませんよ。 もちろん、多くの一般の人が、芸術作品を作る人と同じくらいにものが見えるわけではないでしょうし、作品にまとめるための選択をする必要はないでしょう。 しかし、かなり鈍感な人でも、それなりに選択をしてきているでしょ? ダメダメというのは、その人が鈍感なので自分の目の前の問題が認識できないとか、アタマが悪いから行動のための判断ができないという能力の問題というよりも、現状認識から逃避し、判断し行動することから逃避する・・・そのような心理の抑圧の問題なんですね。「こんにゃくゼリー」を『購入しない』という選択すらできないんだから、それ以上の選択なんてできるわけがありませんよ。それは能力の問題ではなく、心理の問題といえます。人間なら誰でも、というかサルでさえ「こんにゃくゼリー」を購入しないという判断をするくらいの能力は持っていますよ。のどに詰まらせて苦しんでいるおサルさんを見た仲間のサルは、その食べ物はもう食べないでしょ?しかし、そのような判断は、おサルさんにはできても、ダメダメな人間はできない。 抑圧的な人間は、選択なり判断というものに対して恐怖心を持っている。 だから、対価を払って何かをするということが大嫌い。 だって、対価を払うとなると、獲得したいものと、支払う対価との間の判断が発生するでしょ?何回も書きますが、抑圧的な人間は、その判断が的確かどうかの問題というよりも、判断をすることそれ自体に恐怖心を持っている。 そんな抑圧的な人間は、対価というものに対して、異常に敏感だったりするもの。対価というのは、その判断や選択の重さや厳しさと直結しているもの。つまり、抑圧的な人間は、対価から逃避してしまう。対価というものに対して、自分が恐怖してやまない「判断の場」の匂いをかぎ取ってしまう。だからこそ、対価が不要な無料でもらえるものがあると、必要もないのに、群がってしまう。以前にこのメールマガジンで配信いたしましたが、「もらいたがり」なんですね。「無料」というものに過剰にこだわってしまうことになる。無料という言葉に、判断の場からの解放をイメージするわけです。そんな姿勢は「対価を払ってでも獲得したいものは何なのか?」そんな当事者意識の不在と繋がっているといえます。 対価というものと、選択や判断というものは、よく「対」になって様々な作品に登場したりいたします。皆さんも、今後は注意してみてくださいな。 対価というものに極端に鋭敏なので、「もらいたがり」になったり、あるいは「がめつく」なったりする。 お金が絡むと、異常に対価を意識してしまう。 そもそもダメダメ家庭の人間は、人に頼れないと切羽詰っている。そして、「信頼できるのはお金だけ。」などと言ったりする。しかし、そんな発想によって、信頼できる人をますます遠ざけてしまうのは当然でしょ? そして、ダメダメ家庭の人間は、会話の能力がない。人に対して自分について説明できない。 お金には説明しなくてもいいし、お金は説明不要の存在といえるでしょ? だから対価としてのお金には異常にこだわってしまう。 かと言って、ダメダメ家庭の人間は、お金の使い方を知らないことは以前に配信しております。そして、自分自身から逃避しているので、お金の使い方が分からないこと、それ自体を認めることから逃避している。 自分自身から逃避しているだけに、逆に言うと、外面にはお金を使ったりする。 しかし、自分ではお金を積極的に稼ごうとはしない。支出に対してがめついだけ。 だから周囲に、そのケチぶりが目立ってしまう。 お金がほしかったら、自分で稼げばいいのに、それをしないでケチ一辺倒。 細かいところではケチで、大きなところでは大雑把。そんな姿を周囲の人間は呆れて見ている。そんな侮蔑のこもった視線を受けて、周囲の人間は頼れないとますます切羽詰まった心情になり、機会があると、やたら「たかる」ようになってしまう。 たとえば、以前に取り上げたマルグリット・デュラスの作品である「ラ・マン」においても、フランス人家族が、中国人の男性に対して、「たかる」シーンがありました。そして食事中もガツガツと食べる。 そんな姿は、その「たかる」側の被害者意識の反映なんですね。 被害者意識を持っているからこそ、子育てを親の被害と認識し、当然のこととして、子供に対し子育ての費用の回収を要求することになる。いわば、子供に「たかっている」。 対価に対して敏感であって、判断から逃避するくらいなら、当人の勝手といえますが、ことは簡単じゃない。そんな態度だと、当然のこととして、社会生活にも不全をきたすことになる。 対価に対して敏感なので、「他者との関わりが発生すると、常に対価を求められる。」という恐怖心なり警戒心を持っている。 それこそ、ちょっとしたプレゼントに対しても警戒してしまう。 そんな人は、バレンタインデーやホワイトデーなんて、まさに恐怖のイヴェントとなってしまう。 「ヘタにもらってしまったら、どのようにお返しをしなくてはならないのか?」それが心理的なプレッシャーになってしまう。しかし、そんなことだから、人付き合いが広がらない。 中途半端に「お返しはいらないわよ!」などと言われると、逆にプレッシャーになってしまう。「見返りはしなくてはいけないし・・・かと言って、何をしていいのかわからない・・・」そんな葛藤は、抑圧的な人間にはシャレにならないもの。 「お返しとしてはコレをちょうだい!」と見返りが明確になっていれば対応がしやすいわけですが、それは社会一般の常識ではない。見返り義務感を持っている人間に対しては、その義務感に配慮しないと、本当にプレッシャーになるわけです。 そんなことだから、周囲の人も、当人と同類の「もらいたがり」ばかり。無料イヴェントでの顔なじみ集団。実際に顔を合わせなくても、それこそパソコンのファイルの違法ダウンロード仲間とかの連中になってしまう。 そんな人が、親になってしまったら、その家庭の子供も、プレゼントに対して「ぎこちない」対応となってしまうでしょ?ダメダメな親は、プレゼントを渡した後になって、「あ〜あ、オマエのために、こんな出費をするハメに!」などと、文句を言ったりする。スグに自分の被害を考える習慣なので、プレゼントをすることによる被害を考える。そんな習慣があるので、プレゼントに対してどう接していいのか、精神的にわからない。結局は、プレゼントとは縁がなくなってしまう。 そしてさらに一般化して、親切そのものにも、ぎこちなくなってしまう。 親切したことに見返りを求めたり、あるいは、見返りを求められるという恐怖感なり警戒感を持ってしまう。だからこそ、「スグに成果を出さないといけない。」と意識する。以前に使った言い回しをすると、「功を焦る」ようになってしまう。功を焦る姿勢は、見返りをしなければならない負債を背負った状況からの脱却なり解放という意味になっている。 加点方向への視点ではなく、減点方向への反応の症状なんですね。 プレゼントのようなものも、以前に書きましたが、交流継続のメッセージと捉えれば、気軽に受け取ることができるわけですが、ダメダメ家庭においては、交流継続なんてこととは無縁。だから、スグに見返りを出さないと・・・と心理的に切羽詰まってしまう。 「いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」「育ててもらった恩を忘れるな!」と口癖のように言っている親の元で育った子供は、常に「見返り」を要求される感覚を持つのも当然でしょ? 被害者意識が常識化した環境だと、見返りが標準となってしまう。ダメダメ人間にとっての見返りは、サポートに対する対価ではなく、被害に対する補償に近い役割といえる。 だから、その見返りを要求する行為によって、「ワタシは、かわいそうな被害者だ。」と自分自身に確認することになる。だから「してやった」という物言いが頻発し、ますますその補償を求めることになる。韓国人なんて、その典型でしょ? このメールマガジンでは、ダメダメな親は「自分は子育てという被害を子供から受けた、かわいそうな被害者」という自己認識を持っていることを、頻繁に書いています。 それを論理的に矛盾していると言っても、どうしようもない。 そんな人ができるのは、子作りだけ。そんな人間の相手をしてくれるのは、自分の子供だけ。だから、そんなダメダメな考え方が、その家庭の常識となってしまう。 当然のこととして、そんな親は「オマエを育ててやった!」と子供に対し常に語り、子供に対し見返りを求めることになる。そもそもそんな「育ててやった」という物言いをしている時点で、子育ては被害であると公言しているようなもの。ダメダメ家庭においては、無償の愛、なんて感覚は存在しない。プレゼントくらいならともかく、実際には、子育てに対する「見返り」という話題も日常化している。 社会学者のテンニース的に言うと、ダメダメ家庭、つまり機能不全家庭は、ゲゼルシャフト(いわば、機能集団)であって、ゲマインシャフト(いわば、友愛集団)ではない。構成員がそれぞれの機能や経済的な役割を果たすことが求められていて、それゆれに、「成果を出し続けないと・・・」と常に切羽詰まった状態となってしまう。そんな状況なので、家庭内では、とてもじゃないけど、ノンビリというわけにはいかない。家庭の中こそが戦場のようなもの。24時間戦う企業戦士どころか、24時間戦う家庭戦士のようなもの。 見返りを求められるという警戒感を持っているので、ある意味において、遠慮がちになる。 ダメダメ家庭の人間が持つ遠慮というものは、謙譲の精神からきているのではない。見返りに対する恐怖心からきているわけです。 だからこそ、ドメスティック・ヴァイオレンスのような状況になっても、親にサポートを求めない。だって、ヘタにサポートをしてもらったら、後々面倒なことになるばかり。だから自分一人で対処しようとして、相手を殺すことも辞さない。 前にも書きましたが、見返りに対する鋭敏さを持っているので、基本的に「もらいたがり」であり、無料というフレーズには異常にこだわることになる。それこそ高校の授業料の無料化とか・・・最近でも、あったりするでしょ? 授業料が有料でも、保護者からの申請があれば、無料にしたり、あるいは奨学金で相殺したりする手法もとれるわけですが、それだと個々の判断が必要になってしまう。しかし、そもそも制度的に無料にしておけば、判断はしなくてもよくなる。抑圧的な人間は、実質的に無料であることが重要なのではなく、そんな判断や行動から解放される状況を待ち望んでいる。判断して、対処して、実質的に無料になったとしても意味がない。 ダメダメ家庭においては、遠慮というものは謙譲ではなく、判断からの解放という意味なので、見返りが要求されない「無料イヴェント」のような状況になると、遠慮もなしに、暴走することになる。 そもそも、そんな家庭の子供は、常日頃から見返りを要求する親に対して、のべつまくなしに遠慮をしていたので、他者に対し遠慮の仕方が分からない。本来は最も見返りとは無縁といえるはずの子育てというものにすら見返りを要求する環境だったら、見返りの程度なり相場がわからなくなるのも当然でしょ? 自分は一番かわいそうな人間と確信している親に育てられたので、そんな家庭で育った子供は、遠慮の対象は常に自分の親になり、他者に対して遠慮のしようがないし、遠慮の意欲もないし、能力もないし、経験もない。だからどんな人に対し、あるいはどんなシチュエーションで遠慮する必要があるのかがわからない。遠慮に対する感覚が麻痺している状態。遠慮の程度とか、あるいは甘え方の程度とか、そんな程度問題となると、まるで分からない。 無償の愛というスタイルは何も理解できなくても、依存関係は認識できたりする。 「ワタシには、あの人が必要だ!」「あの人にはワタシが必要だ!」そんな関係性で、認識してしまう。 しかし、人間関係で、いきなり「必要」も何もありませんよ。 結局はトラブルになって、後になってから、「こうすればよかった!」とか「あんな言い方をしてはいけなかった!」と後悔し、落ち込んでしまう だから、人付き合いがますますダメになる。不必要なシチュエーションで、不必要な相手に遠慮してしまい、『そんなに遠慮するなよ!』『オレのことが信用できないのか!』と怒られてしまう。そもそもダメダメ家庭においては、子供は親を信用していないのだから、「○○さんのことが信用できない。」のではなく、信用そのものがわからない状態。そして、遠慮の加減や方法も分からない。 当人が過剰に遠慮するくらいならともかく、過剰に遠慮する人は、逆に言うと、他者からの大いなる遠慮も内心では期待している。だからその遠慮が得られないと、逆切れしたりする。それこそ神奈川県での知的障害者の施設への放火事件のようなことが起こってしまう。そもそも、この手の見返り義務感を持っている人は、ボランティアのような領域においても、ある種の「見返り」を前提としている。そんな人は、無償の愛のような高邁なレヴェルを持っていないのは当然として、ちょっとした無償の親切なども存在しないので、そんな人は駆け引き前提の行動を取ることになる。そもそも家族との間も駆け引き前提なんですからね。そんな家庭環境だと、友人との間も駆け引き前提となってしまう。 だからこそ「晴れた日に傘を貸す。」ようなことをする。 駆け引き前提なので、弱みを見せないようになってしまう。自分を実体以上に大きく見せようとしたり、自分のマイナス面を隠そうとして、相談においても、小出しが多くなる。 その手の人は、前にも書きましたが「信じられるのはお金だけ!」などと言ったりするもの。お金に対して信頼を持つのはいいとして、「じゃあ、肉親を信頼しているのか?」、「肉親と見返りとの関係をどのように考えているのか?」 そのことを考えることから逃避しているわけです。 肉親を信頼していないことを自覚すれば、もっと多くの対処が可能ですが、そのことを自覚することはアンタッチャブル。 無償のやり取りの経験がなく、見返りを求められるという警戒感を持ち続けているので、生きているだけで疲れてしまう。 そんな人をどうやって救うの? だって、親切にすると警戒し、ヘタをすれば恐怖する人なんだから、どうやって救うの? まずは、当人が自覚するように導くしかない。 プレゼントに対してぎこちない人、遠慮の程度がメチャクチャな人は、「見返り」というものに対して過剰に警戒しているわけです。その大元は、子育てに対する見返りを要求され続けた、子供時代の原体験なんですね。 自覚しないままだと、同じことを自分が親になって繰り返すことになってしまう。 対価を払わないからと言っても、何も失わないというものではないでしょ? 対価という判断から逃避しているので、結局は、尊厳を失ってしまう。 逆に言うと、対価に対する異常なまでのセンシビリティは、自分自身を知るいいきっかけなんですね。 そして当事者意識があれば、まさに対価を払ってでもそんな自分自身の問題点を知ろうとするわけですが、当事者意識がないので、無料イヴェントばかりに顔をつっこんで、どんどんと自分から逃避してしまう。 当事者意識があるからこそ、「対価を払っても何かをする」ことをするわけで、被害者意識しかないダメダメ家庭では、常に「見返り」という義務感が意識されてしまう。 だからこそ、結果的に、何も得られず、尊厳もなくなってしまうわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 前回配信の文章で、例の秋葉原の「耳かき」店従業員さんへのストーカー殺人事件に言及いたしました。 なんでも犯人は、 「わざわざ千葉から来ているのに・・・」 とか、言っていたとか。 上記の言葉をもうちょっと詳細にすると、「このワタシが、わざわざ千葉から来てアゲているのに、どうしてその持ち出しを認めないんだ!」となりますよね? まさにこのメールマガジンで頻繁にふれておりますダメダメ家庭のお約束がテンコ盛り。 それは購読者の皆さんもそう思ったでしょ? 「○○してアゲル」「被害を認められない被害」、 そして実体としての「人に入れ込み」「ストーキング」 その元にある「心理的緊張感」や「将来を考えることからの逃避」。 まさに、ダメダメ家庭出身者の「絵に描いたような」事件ですよ。 犯人の実家が重症のダメダメ家庭であったことはスグにわかりますよね? それを自覚すればこんな事態にはならなかったでしょうが・・・ その自覚から逃避するのが、まさに心理的抑圧というもの。 だから、残念ながらこの手の事件は、どうしても起きてしまうわけです。 せめて、そのお店も、このメールマガジンでも読めば、犯人の心理状態もわかるでしょうから、もうちょっと効果的な対応も取れたでしょうが・・・ 秋葉原のそのお店まで、これらの文章を持っていこうかな? 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この文章に関連した文章tとして「10年2月24日 配信 代価と見返りの違い」 という文章があります。 | |
R.11/1/21 |