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カテゴリー 弁解と謝罪
配信日 09年8月12日
タイトル 断片化された正論 (とりあえずの正論,言い訳としての正論,自分を騙すための正論)
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。自分自身で問題を解決する発想がそもそもない。だからトラブルが起こっても自分で現状認識をしない。
ヘタに現状認識をしてしまって、問題点が自覚できてしまうと、何かアクションを起こさない状況になってしまう。
だから現状認識そのものから逃避して、「ワタシな何も知らなかったわ!」「ワタシは悪くないっ!」と弁解するばかり。

とは言え、そんな弁解ばかりしていても、同じようなトラブルが起こるだけ。トラブルばかり起こしているのに、何もしていないと周囲からのプレッシャーも入ったりする。だから、形の上では、人に相談することもある。相談して他人の知恵を借りるのはいいとして、そもそもの現状認識ができていないんだから、そんな人からの話を聞かされた方も困ってしまいますよ。

それこそシリアスなケースだと、児童虐待が疑われるような子供のケガなどの問題もあります。
子供が病院に行かなければならないような重症のケガをしている。ワタシが不在の間にケガをしたようだ・・・
子供と一緒にいた夫は、「子供同士がケンカしたようだ・・・」なんて言っている。

そうなると、ダメダメな妻は、アッサリと夫を信じてしまうんですね。
だって、夫の言葉を疑ったら、自分で考えないといけないでしょ?
「本当のところはどうなんだろうか?」
「もし、夫による虐待だったら、どうしようか?」

ダメダメ人間は、自分で考えること自体がイヤ。だから自分が考えなくても済む形にしておきたい。だから、通りがいいありきたりな説明に頼ってしまう。
実態に即していることよりも、自分に対する通りの良さや、周囲に対する受けのよさが優先されてしまう。

あるいは、思春期になって子供が問題行動を起こした。
こんな時に使われる説明が、「よくある子供の反抗期だよ!」というもの。
反抗期という言葉ですべてを説明させてしまうような事例は、それこそ以前に言及した山口県での双子を殺した母親の事例などがありましたよね?
その説明がありきたりで、通りがよければ、自分で考えることから逃避できる。逆に言うとその逃避を求めて、ありきたりな説明を求めてしまうことになる。

あるいは、似ているケースで、別のパターンとしては、母子家庭の出身者が自分の親について語る言葉が、実態から離れている場合も多い。
「ワタシは母親を恨んでいないわ!女手ひとつでワタシを育ててくれて感謝している!」なんて、ご立派なことを言う人もいます。まあ、実際に立派な母親もいるでしょう。しかし、グチばかり聞かされた後で、そんな感じで自分の母親の立派さを語られても、途方に暮れるだけですよ。

本当にその母親が立派な母親なら、育った子供がグチばかり言うわけがないでしょ?
散々グチった挙句、「ボクは今は幸せだよ!」などと堂々とのたまわれると、鼻白むだけ。まあ、離婚してシングルマザーになった場合には、その子供には、こんな物言いが頻発するもの。本当に立派な母親だったら、その子供は自分で達成したものをまず語れるものでしょ?その後になって、親への感謝の言葉ですよ。そんな流れだったら素直に聞けるでしょ?最初に、いわば親に対する抽象的な感謝の言葉が出てくるということは、その子供が具体的には何も達成していないということ。逆に言うと、だからこそ、必死で親の弁護をする必要がある。子供である自分しか、その親を弁護しないわけ。しかし、だからこそ、その弁護には無理がある。

そんな立派な言葉を聞かされると、言ってしまうのがコレ。
「アンタさぁ・・・それを本気で言っているの?」

子供同士のケンカでも、反抗期でも、立派な母親でもどれでも同じなんですが、相手に説明するというよりも、自分に納得させるための言葉のケースが多いんですね。相談された側が、本気で協力しようと思っていても、相談する側が、型どおりの言葉しか言わないんだから、イヤになっちゃいますよ。自分が考えなくても済む「型どおり」の考え方を、相手からオーソライズしてほしいだけ。
しかし、自分自身を納得させるための言葉を、「聞かされる」側は、当然のこととして不快に思い、それが雰囲気として出ることになる。

そうなると、立派な言葉を語った側は、悪化した雰囲気から、そそくさと逃げ出してしまう。
だから、相談によって、事態が改善どころか、より悪くなるばかり。

結局は、自分を納得させるための言葉しか言わないもの同士で、盛り上がることになる。
「まあ、なんてお気の毒な!」
『アナタもタイヘンねぇ・・・』
「ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

しかし、そんなグチの共鳴によって、事態がますます悪くなり、結局は誰かを犯人認定して、ますます心が貧しくなるばかり。自分が行った犯人認定を、誰かにオーソライズしてほしくて、今度は別の人にコンタクトを取ったりする。
そして、やっぱり、呆れられ、怒られる。

事態を改善しようと思っているのなら、本気で伝える必要があるでしょ?
その「本気さ」というものは、たとえ表現がヘタでも伝わるものなんですね。

前回配信の文章で書きましたが、本気で事態に向き合うのが怖いダメダメ人間は、常に「流す」ための言葉を求めるもの。とりあえず、「見ない」ようにできればそれでいいわけ。だから、話に一貫性がなく、その場しのぎの言葉の連発となってしまう。

自分自身に一貫性がないので、その一貫性を他者に依存するようになる。
それこそ、やたら倫理的な視点が多くなってしまう。第三者的に存在している体系といえる倫理を持ち出して、自分で考えることから逃避するわけ。べき論で、権威主義的に倫理を連呼し、相手からの質問なり、自分自身による認識から逃避する。相手に対して上からの物言いをして、議論を避けてしまう。

そんな人は、現実無視の正論をやたら主張しているものでしょ?
人間はみな平等で、階級など存在しないとか、地域はどこも同じとか、それこそ「子供を愛さない親はいない。」などと通りがいい言葉を展開するだけ。その正論に対し、質問があったら、「そういうものだ!」「偉い人もそう言っている!」と問答無用に言い渡すだけ。反論されない正論を主張し、自分に対して反論してこない存在を敵認定して、自分で勝手に納得してしまう。

そんな人は抑圧的であり、発想が減点法。認識から逃避しているので、状況を具体的に説明できない。ただ一般論をがなり立てているだけ。昨今話題の児童ポルノの問題でも、そんな子供の親の問題は無視して、何も考えない。売り飛ばす親の問題はアンタッチャブルのまま。家庭内暴力の問題でも実家の問題はアンタッチャブル。だから事態が何も改善せずに同じようなトラブルを繰り返す。そもそもその手の問題に対して、声を上げる市民団体等のメンバーも、自分自身の家庭の問題はアンタッチャブルになっている。いつも書いていますが類は友を呼ぶものなんですね。その手の人は、親子関係を絶対視し、アンタッチャブルにしてしまって、現実を何も認識しない。いわば、倫理というものが逃避先として機能し、抑圧の道具として機能しているわけ。

倫理的な視点は、自分自身からの逃避であり、それゆえ、自分が目標を立てることから逃避する人間は、必要以上に倫理を口にするもの。そんな使われ方をされる倫理は他者を評価するのに使われるわけですが、自分を律するのには使われない。それに、倫理によって自分の目標が達成されるわけではないでしょ?だからこそ減点法の精神だと、倫理的な視点が登場していきやすい。
自分の目標を持たないことを倫理によって正当化してしまう。ダメダメ人間にとっての倫理とは、自己逃避で減点法の精神の高貴な形象なんですね。倫理を持ち出すことによって、「ワタシは悪くない!」ということに権威筋のお墨付きをつけているだけ。

倫理を掲げている減点法のいい子ちゃんなので、親を嫌っているというマイナスの感情を受け入れられない。
親を嫌ってはいけない、親に迷惑をかけてはいけない・・・と切羽詰っている。
本来なら、親を嫌いなら嫌いでいいけど、それを自分でしっかり確認することが重要なわけですし、親と和解したいなら、明確に和解する必要があるでしょ?しかし、自分から逃避しているから、「何となく」の和解しかできない。親を語る際には「嫌いではない」「恨んでいない」などという二重否定でしか語れない。何となくの和解で、現実的には思考停止状態だから、結局はダメダメな親と同じことをしてしまう。

そんな人の言っていることは、ただ、その場その場で人に合わせているだけ。倫理という第三者的な一貫性がないところでは、当人自身に何も一貫性がないまま。そして、ますます事態に対峙する意欲なり覚悟がなくなってしまう。

ダメダメ人間は、人に合わせてばかりなので、言葉が軽い。
状況に応じて矛盾してしまう。ただ、とりあえずの言葉があるだけ。
聞いている段階でウソっぽいのがまるわかり。

以前にライブドアの堀江さんが逮捕された際に、「額に汗して働くことが大切なのに、堀江さんは、虚業だ!」なんて言っている人がいました。
それはそれでいいわけです。その言葉を言った本人が、そのような価値観を本気で思っていればね。

ところが、ダメダメ家庭ではそんな「ごもっともな正論」が飛び交っていても、別のシーンでは全然別の考えが肯定されたりしているわけ。

「あ〜あ、世の中はズルくやらないとダメだ!」
「まじめにコツコツ働いてもいいことはない!」
そんな感じのグチが飛び交っているわけ。

そんなグチを常日頃言っているのに、サウロに突然に神の言葉が訪れたように「額に汗して働くことは大切だ!」などと、言い出したりする。

どっちの考えでもいいわけですが、どっちかに徹しないとね。
そんな話を聞かされている子供はどうすればいいの?
額に汗してコツコツと働けばいいの?
どっかーん!と大勝負したほうがいいの?
どっちが本気なの?

額に汗してコツコツ働くことがすばらしいことだと本気で思っているのなら、少なくとも子供の前では「ああ、今日もゲンキで働けた!いい一日だった!」とでも言えばいいじゃないの?
グチばかり言っている人間が、急に「額に汗して働くことは大切だ!」などと言い出しても、どの道、次の日には「ああ、マジメにコツコツやっても、いいことはない!」なんてグチるわけでしょ?

そんな親の姿を見ているから、親を頼りにできないわけでしょ?子供としては、自分のことは自分でやっていくしかない。「周囲からのバックアップが全然ない自分がビックになるためには、ちょっとヤバゲなことをするしかない!」なんて思いますよ。まあ、だからこそ堀江さんのようになってしまうんでしょ?

日頃から「額に汗して働くことが大切だ!」と常に言っていて、実際に実践しているのなら子供も安心できるわけ。
また逆に、「世の中を上手に立ち回らないとダメ。マジメだけではダメ!」と言い続けている親なら、子供だってズルく立ち回る方法を親に相談することもできるわけでしょ?
「マジメに働け!」と言った次の日に、「ズルく立ち回れ!」なんて言ったりするから、親を当てにできないわけでしょ?

堀江さんの逮捕の際に、「額に汗して働くことが大切だ!」と言った人も、本気でそう思っているのなら、その考え方に殉じないとね。
今日はあの考え方、明日は別の考え方。
ダメダメ家庭では、もっともらしい正論がそんな感じで扱われてしまっている。だからダメダメ家庭出身者は、ご立派な考え自体を、うそ臭く見えてしまうわけです。
ダメダメ人間にとって、正論とは、周囲に対して説明する必要のない通りがいい言葉という意味であって、その考え方を自分が納得しているという意味ではない。プラグマティックな発想から逃避し、自分から逃避するための正論なんですね。

自分自身の気持を見ようとしないそんな人とのやり取りだと、何も進展しない。
進展しないだけでなく、そんな人とのやり取りをしていると、だんだんと腹が立ってきて、相手を怒ったりする。そうなると、怒られた側は「ワタシは人の気持ちが分からない。」と言い出すもの。しかし、本当は怒り出した人の気持ちがわからないのではなく、自分自身の本気がわからない、というか見ようとしないわけです。

自分自身の本心から逃避しているだけ。
ただ、誰かに「構ってほしい」だけ、ただ、誰かから「被害者として認めてほしい」だけ・・・それを自覚しているのならまだしも、それすら自覚していない。

自分自身から逃避しているので、他者に対して過剰に期待することになる。だから自意識過剰になってしまう。だからこそ、周囲の目を気にして、ますます周囲に合わせるようになる。だからこそ、ますます話に一貫性がなくなってしまう。

そんな、話に一貫性がない人が親になるとどうなるの?
そんな家庭の子供は人の話を聞かなくなりますよね?
だって、今、言っていることも、明日になれば、逆のことを言ったりする可能性もある人の言葉など、真剣に聞くのはバカらしいでしょ?
そんな習慣なので、親の話だけでなく、他人の話も十分に聞かなくなるわけです。
それは態度として聞かないだけでなく、聞いていても疑ってかかることになる。
「コイツもどうせ明日になったら、逆のことを言ったりするんだろ!」と言ったところ。
以前に集中的に配信いたしましたが「信頼の心理的ベース」がない状態。

人間というものは、最も身近なコミュニケーションの相手である、家族の間のコミュニケーションのスタイルを元に、他人とのコミュニケーションを行うものでしょ?家族との間に信頼がない状態でのコミュニケーションなんだから、別の人とのやり取りも、そんなパターンになってしまいますよ。

ちょっと話が外れますが、面白い実例があります。
アメリカで子供を育てた両親がいるのですが、子供の教育上、子供の前では家庭内でも日本語を使わなかったそうです。
すると子供は「日本人も家庭内では英語で話をする。」という信念を持ってしまったそう。だっていつも見ている日本人が、家庭内で英語で会話しているんですからね。そう思ってしまうのも無理ありませんよ。
日本に来てからその子供は、日本の学校の教員に「無理して日本語で話さなくてもいいから、英語で話してよ!」と抗議したそうな・・・

このように、家庭内でのコミュニケーションのスタイルで、社会全体もコミュニケートしていると思ってしまうのは当然なんですね。知識としては、修正しても、心理的にはずっと残っているものです。ですから親の話を聞かない子供は、他人の話も聞かないし、そもそも疑ってかかる習性があるわけです。逆に言うと、周囲の人の話を真剣に聞かない人間は、親とのやり取りも形だけだったんですね。

勿論、親の方としても記憶違いはあったりするでしょう。意見が時間を置いて変わったりもするはずです。
しかし、たまたま時間を置いて違ってくることと、元々から「いい加減」なのは違いますからね。「そのことを本気で伝えたいと思っているかどうか?」それは、子供にも十分に伝わるものでしょ?

いい加減なコミュニケーションの元で育った子供は、長じてもマトモなコミュニケーションができないわけです。このように「人の話を疑ってかかる」習性ですと、社会人になったら大変な困難に直面するのは当然のこと。
社会において、初対面の人の話をいきなり疑ってかかったら、とんでもないことですよね?
と言うことで、どうしてもトラブルが発生し、誰かに相談を持ちかけることになる。

かと言って、相談もコミュニケーションの一つなんだから、それもうまくいかない。
そもそも「どうやって、相談したらいいのか?」という相談は、どこに相談すればいいの?どのように相談すればいいの?
それって、論理的にも現実的にも不可能でしょ?
結局は、子供の頃に習得した、「いい加減」なスタイルで相談を持ちかけたりするもの。

私などは、そんな類の「相談」を寄せられたら、「アナタは、まず本気になる必要がある。」と言うところから始めます。
相談のメールの文章を読んでも「色々と書いているけど、アナタは本気ではどうしたいの?」そう言わざるを得ないケースが多いんですよ。

周囲に対して通りの言い言葉を使っても、この私に通るかというと別問題。
よりにもよって、この私にその場限りのかりそめの言葉は通じませんよ。
へたっぴな言い回しなら、何とも思いませんが、自分を騙すための言葉ならやっぱりその面を指摘する必要があるわけ。
「アナタは、自分自身を騙しているのでは?」
そんな指摘をすることになってしまう。その言葉を受けて、本気になればそれでいいわけですが、それができないのが、自己逃避人間というもの。
結局は、そんな人は、相談の場から、そそくさと逃げ出して、自分を納得させるための言葉を別の人に繰り返すもの。

「自分の言葉は、自分の本音なんだろうか?」
「自分は本当にそのように考えているのか?」
って、相談する前に、ちゃんと自分で考えてみる。
そのこと自体は、難しいことではないでしょ?
ただ、多くの事例では、倫理を語ることによって、現状認識から逃避し、そして自分自身の信念や本気からも逃避してしまう。
信念がないがゆえに、本気さもない・・・
だからこそ、トラブルが発生するわけですし、事態を改善することもできないわけです。

(終了)
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発信後記

今回の文章は、前回配信の文章と内容的には同じようなものです。
ダメダメというものは、基本さえわかっていると、あとはそのヴァリエーションにすぎないものです。

ただ、ダメダメ家庭の人間は自己逃避で抑圧的であるがゆえに、まさに、そのダメダメの基本を認識することができない。だからこそ、他者を犯人認定して、報復行為をすることで、自分を納得させることになる。
勝手に納得するだけでなく、周囲からの同調を得ることで、自分の納得をより強固にしようとするわけ。

倫理とか正論は、周囲からの同調が得やすい分、この手の自己逃避には利用されるものです。
ダメダメ人間にとっての倫理とは、実に安っぽいものなんですよ。
R.10/12/27