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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター |
配信日 | 09年8月19日 |
タイトル | 他人の思考の消費者 (消費者目線) |
追記 | この文章には管理者による追加文章があります。(10年7月28日 アップ) |
ちょっと前に、皆既日食がありました。 観測のためのベストポジションを取るために、わざわざ、南の島に出かけて行った人もいらっしゃったようです。ただ、せっかく南の島に陣を取ったのに、天候が悪くて、結局は、待望の日食が見られなかったとか・・・ まあ、相手が天候じゃあ、しょうがない。 それに対して、それこそテレビ放送とか、インターネットのストリーミング放送だと、日食の映像が自宅にいながらにして見ることができたようです。 だから、「わざわざ南の島まで出かけなくても、日食の映像を見ることができた我々こそが勝ち組だ!」 なんて声もあったようです。 しっかし・・・ テレビ放送なりインターネットのストリーミング放送で、皆既日食の映像を見ても、そんなにおもしろいの?ただ「キレイだなぁ・・・」で終わってしまうでしょ?そんな映像なんて今だったらコンピューター・グラフィックス(CG)で、いつでも作れますよ。そして、次の日には、そんな映像のことなんて、忘れていますよ。それに対して、南の島に出かけて行って、結局は見ることができなかった人は、そのことをいつまでも覚えているでしょ?20年後も覚えていますよ。 それこそ1週間準備して、待ち望んで、待望のその日になったら土砂降り・・・なんてことになったら、その雨粒の痛さとか、空虚感を、いつまでも覚えていますよ。 確かに、希望していた日食を見ることができたら、もっとうれしい体験だったでしょうが、たとえ見ることができなくても、心に残る体験でしょ? このメールマガジンでは、「似て非なるもの」という観点から文章をまとめたりすることもありますが、似ているかどうかは別として、「体験と消費」は別のもの。 日食の映像を、テレビ放送で見た人は、日食の映像を消費しただけでしょ?それに対して、南の島で日食の映像を「見ることができなかった」人は、その「見ることができなかった」という体験をしたわけでしょ? ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。自分で何かをするという発想がない。だから他者がやったことを消費するしか能がない。 それこそ、そんな発想の代表となると、名文句「感動をありがとう!」がありますよね? 他人の業績に大きな印象を受けた・・・だから「感動をありがとう!」と感謝する。 しかし、それって、感動を消費することを、あまりに当然のことと認識していることでしょ?劇場においては観客どまりであって、「自分が舞台に上がったらどのように行動しよう?」という問題意識がないことでしょ?ヘタをすれば、「感動させてくれたことを感謝しているボクって、なんていい子なんだ?!」と自画自賛する境地でしょ? あるいは、「感動をありがとう!」なんて「言われた側」はそんなにうれしいの? 「感想をありがとう!」と言われている人が、大喜びしているシーンを見たことがありますか?往々にして居心地の悪そうな表情をしているものでしょ?立派な業績を上げる人は、「感動をありがとう!」なんて言われると、逆に、鼻白むものなんですね。 「感動してどうするのさ?」 「アンタ自身は何をしたいの?」 「感動して、涙を流して、ヨダレを流して、ハイさようなら!なの?」 感動させてくれたことに感謝する以前に、「自分は何をしたいのか?」「何ができるのか?」について、チョットは考えてもいいのでは? 業績に対して勝手に感謝するよりも、「どうやったの?どんな点に苦労したの?」と聞いてくれる方がまだマシですよ。 別に苦労自慢とか不幸自慢というわけでもありませんが、聞いてくる人が、当事者意識がない人だと、やり取りしていてもツマラナイものですよ。 テレビを見ながら、そんな場面で、親が「わあ!感動をありがとう!」と言うことと、「どうやったら、こんな立派なことができるのかな?」とつぶやくのとは、横にいる子供にとっては大違いでしょ? そんな問題意識だけでも、子供に見せれば、効果があるのでは? 「感動をほしいよ!」なんて口を開けて待っているだけの姿を自分の子供に見せたいの? 「あ〜あ、いい感動はないかな・・・どこかに感動が落ちていないのかなぁ・・・」 「最近は、ワタシもいいことがないから、感動がほしいよ!」と周囲を見回しているだけ。 言葉ではそれではなくても、ダメダメ家庭を作る親がやっていることはそれと同じ。 人の業績なり、成果を消費することが大前提になってしまっていて、常に評価者然としている。勝手に感動したり、勝手に「満足できない!」なんて不満を表明したりするだけ。 「自分が何かを生み出すための参考になるかどうか?」という発想を持っていない。 当事者意識がないので、生産者として、あるいは将来的に生産者になるための、視点なり権利は考えないわけ。 たとえば、以前に奈良の遷都のキャラクターでモメましたが、騒いだ人たちが、そのキャラクターに満足できないのはいいとして、「じゃあ、どうすれば満足できるの?」という案を提示した人は、ほとんどいなかったでしょ?まあ、現実的には、対案を提示するよりも、一人で別のことをやった方がマシ。だからこそ、自分で何もするつもりがない人間が、対案も出さずに、被害者意識から大騒ぎするだけになってしまう。 人間は、生産者と消費者としての両側面を持つもの。何も経済の問題だけではなく、文化的な面においても、同じでしょ? 「自分では、何を生産しているの?何を生産しようとしているの?」 そんな意識がないと、他者の業績を消費し感想を言うだけの存在になってしまう。そしてその感想も「満足した」「満足しない」でオシマイ。 たとえば文章においても、小説までは書く必要はなくても、俳句でも短歌でもメールマガジンの投稿の文章でも色々とやれることはいっぱいありますよ。しかし、ダメダメ人間は、何もしない・・・というか、しようとしないわけ。 そんな人は、他者の業績を、デリヴァリーすることで、自分の業績としてしまう。 それこそ、なんとか動画とかの動画サイトに、放送されたアニメ作品をアップロードしたりする人がいたりするようですね。 それは著作権法違反というよりも、そんなことをしても、当人にしても役に立たないでしょ?お金が儲かるわけでもないでしょうし・・・ 自分自身で動画作品を作って、それをアップロードすればいいだけ。 そんなこともしないような人間が、他人の作品に対して、評価者然として上からコメントして喜んでいる始末。 当人が何かを生み出すための参考にするというのなら、自分の作品が無料で使われた著作権者としても、まだ許せるでしょう。あるいは、当人が将来的に著作権者の立場になるために利用するというのなら、まだ許せる。 そんな意識がなく、消費者に徹しているだけなのに、上の立場から感想をぶっこかれると、うんざりしますよ。 消費者どまりの人間が何を言っても安っぽい。 「消費者なら消費者に徹して、黙ってメシでも食ってろ!」と思わされるだけ。 最初から立派なものを作る必要はないにせよ、立派なものを作りたいという気持ちが重要じゃないの?その気持ちもない人が、他人の作品を論評しても、示唆的な論評ができるの? ダメダメ家庭の人間は減点法の精神であり、そんな精神だから、自分でものを作ると、自分の減点面が見えてイヤになってしまう。自分で見えるだけでなく、周囲の人から指摘されてしまう。だから、消費者に徹して、他者の業績にコメントを発していい気になっている。そんな人は、社会との接点が少なく、だからこそ自称事情通だったりするもの。だからこそ、その狭い「事情」を元に、なおのこと評価者然としてしまう。 たとえ感想であっても、生産者というか当事者としての感想なのか?消費者とまりの感想なのかは違っているもの。 消費者とまりの人間にとっては、生産者の視点を持つコメントなんて、理解できない・・・だから、結局は、消費者に安住する同類が集まってしまう。 そうして「これには満足できない!」「オレたちを満足させろよ!」「感動がほしいよ!」の大合唱。 当事者意識がないから、減点法の精神になるわけですが、減点法であるがゆえに、「怖くて」何も始められず、ますます当事者意識が育たない。 そんな自分にコンプレックスを感じ、ますます自分を大きく見せようと、消費者の権利を声高に主張するようになる。「この程度の作品では満足できないオレって、なんてスゴイんだ!」と、他者の作品をけなして大喜び。 思考の消費者は、自分が考えるための材料というよりも、考えないための手段を求める。 気晴らしができないといって、他者の作品にケチをつけて、そんな感想を書き込んでいても、何が楽しいの?「オレ様は、つまらないぞ!」と熱く語るなんてバカですよ。 オタク云々が事件を起こして話題になったりすることもありますが、単にマンガやアニメを見て感想を言っているだけの人が事件を起こしているでしょ? 同人誌を作っているくらいの人は、事件は起こしていないんじゃないの? だって、事件を起こすよりも、同人誌をまとめていた方が楽しい・・・んじゃないの? 人の業績をケナして喜んでいるだけの人間が、人の命を奪って喜ぶようになる・・・ちょっと極端な論理ですが、実際にそうでしょ? そんなことよりも、自分でサクサクと何かをやっていった方が楽しいはずでしょ? しかし、消費者であることが、あまりに大前提になってしまって、そこから抜けだそうとしないわけ。 以前に携帯電話とパソコンでのインターネットの閲覧の問題について書いた文章を読んだことがあります。携帯電話でパソコン用のサイトを閲覧することはできるわけですが、携帯電話用のサイトも、作成はやっぱりパソコンでやっているもの。携帯電話用のサイトも、携帯電話では作れないし、文章の推敲もやりにくい。情報発信をするのなら、やっぱりパソコンが必要なもの。発信する気がないのなら、携帯電話だけで十分といえますが、自分で何かをやってみる場合には、やっぱりパソコンが必要になってくる。 ・・・そんな文章でした。 実際にそんなものでしょ? 逆に言えば、携帯電話だけの人は、発信する意欲が少ないわけ。消費することに安住しきっていて、やたら評価者然としている。 まあ、これはサイト云々の問題だけでなく、個人同士のメールでもそんな感じでしょ? 何も携帯電話だけの方々を非難しているわけではないんですよ。文章を発信しないにせよ、どこかの分野では発信するようにした方がいい・・・そのように申し上げているだけです。 消費することだけに徹している人は、文章を書かせても、心象風景ばかりになっている。 それこそ「つまらない」とか「つらい」とか「楽しい」とか・・・そんな言葉ばかり。 客観的な事象を伝えられないわけ。あるいは、自分の考えを客観化して表現することができない。聞いていて、広漠たる、霧の濃い、心象風景なんだろうなぁ・・・と思うけど、「だから何?」と思うだけ。 それは本人にもわかっていないわけ。 心象風景はあっても、明確なイメージがない。 心象風景を文章化すること自体は、一応はできたりするけど、そんな文章を読まされても、わけわからないだけ。 心象風景を伝えるにせよ、ある種の客観化された表現にまで持って行く必要があるでしょ? それこそE・ブロンテの「嵐が丘」という作品でも、ヒースクリフなりキャッシーの言動によって、その場所の荒涼さが伝わるもの。ただ、心象風景の言葉を並べただけでは、「・・・荒涼とした風景なんだろうなぁ・・・けど、だから何?」となるだけですよ。 日本の私小説なんて、一人称でグダグダとグチったり、不満を書き綴る類のものがありますが、読んでいてジャマくさいだけですよ。 事実を客観的に描写するわけでもなく、 深い情感を記述するわけでもなく、 信念もなく、 熱意もなく・・・ 漠然とした心象風景どまり。 それによって表現されるのは、当人の抑圧のみなんですね。 どうでもいいような感情表現ばかりで、それこそ自分の実家について語る際には、「昔は、親を恨んだ、今は恨んでいない。」そんな言葉ばかり。恨むという感情が問題ではなく、どの点が問題なのか、知覚することが重要なのでは? しかし、感情次元で片付けてしまって、思考や認識が停止している。 まさに黙示録のヨハネが言う「熱くもなく、冷たくもない」状態。そんな人は、消費した結果の感情は言えるわけですが、消費前の自分の状態については何も言えない。 他人の思考の消費者に徹していて、人の考えを受け取る際に、それを自分の思考の参考にするという発想がない。そもそも当事者意識がないので、ダメダメ家庭は敬意がない。 だから平気で他者の言葉を「笑え」たりするもの。やたら他人の業績を評価したがる。評価する際にも、ポジティヴな評価の場合は「満足した!」「感動をありがとう!」「良質だ!」、ネガティヴな場合には「満足できない!」「くだらない!」・・・それはいいとして、結局は、自分の問題は解決したの? 良質云々よりも、その問題が重要でしょ? 自分の問題にさえ対処できないような人間から「感動をありがとう!」なんて絶賛の言葉をもらっても、苦笑いするだけですよ。 何かを生み出すための目的意識があれば、いいわけ。 その目的が作品の制作者の当初の目的と違っていても、その心意気は、尊厳につながるもの。この「ダメダメ家庭」のメールマガジンも、読むに当たって、自分の家庭を考えるための目的意識があればいいし、あるいは、文章をまとめるためのテクニックを考えるためでも結構ですよ。 しかし、自分で何かを生み出す発想がない人間が、子供を産み出してしまう。 自分で何かをする当事者意識がある人ほど、逆に言うと、親としての資格を考えるわけですが、消費者に徹しているが故に、親になる際には何も考えない。 むしろ、子供から愛情をもらい、消費することを考える。 たまに言われたりする「子供を持って初めて愛というものを知ったわ!」なる言葉は、まさに子供からの愛情を、親として消費しているという意味でしょ? しかし、消費者に徹している親によって育てられている子供が、順調に育つわけがない。 そんな子供のトラブルを見て、「子供のこんな行動は、親であるワタシは満足できない!」などとグチることになるわけ。 マンガや映画や文章において消費に徹するくらいなら、大きな問題とは言えないわけですが、親が子供の行動の消費者に徹してしまうと、シャレにならない。 しかし、そんな光景はダメダメ家庭の周辺では、当然のことのように起こっているでしょ? ダメダメな親にしてみれば、親は子供の行動の消費者の立場なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 選挙がはじまりましたね? 何でも民主党の旗が、日の丸を切り貼りして作ったものだったとかで、麻生さんが文句を言っていたようですが・・・ 「分割するのはケシカラン!!」 ・・・なんて、徳川家康もどき。 しかし、あの手のイチャモンは、弱っている相手を完全につぶすには効果があっても、勢いに乗っている相手に対しては、むしろ安っぽいもの。 「おいおい!相手のあら探しばかりやっていないで、もっと自分がやらなければならないことをちゃんとやりなよ!」と思ったのは私だけではないはず。 組織のダメダメが進行してくると、外部に犯人探ししてばかりになり、そんなことが上手な人間がリーダーとして祭り上げられるもの。自分たちが納得できればそれでOKとなってしまい、結局、目の前の問題に対処せず、あら探しばかりが進行し、ますますダメダメが進行してしまう。 主義主張は人それぞれですが、ダメダメの進行は、お約束があるものなんですよ。 |
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管理者による追加文章(10年7月28日) | |
さて、2010年において、有名な日本のアニメ作家の宮崎駿さんによる、Apple社の情報端末機器であるiPadに対する・・・というよりも、そんな機器を喜んでいる人たちに対する批判の文章があったそうです。 いささか激烈な調子の文章なんだとか。 なんでも、「iPadは、人の作品を消費するだけじゃないか?!そんなもので喜んでいるのではなく、自分で何かを作り出そうとは思わないのか?!アホンダラ!」・・・とかの内容だったそう。 まあ、その憤怒は、私と共通しています。だから、いささか激烈な文章になってしまうんでしょうね。 宮崎さんの文章の、特に細部の面において、どのような記述があるのかは、ちょっとわかりませんが、この私の「他人の思考の消費者」という文章が、宮崎さんの文章に対する「解説」としては、最適の文章といえるのでは? まあ、逆も真なりとも言えるでしょうが。 私の文章の本文中でも書いていますが、作品を消費するくらいならともかく、消費者という立場が大前提となってしまうと、結婚生活なり、その後の子育てにおいても、消費者目線となってしまうわけ。 そして、子供に対して、「もっと親としての悦びを与えろよ!」と要求することになる。 当然のこととして、子供が通う学校に対しても、消費者目線で要求する。 そんな親は、最近では、ちゃんと名称もあるくらいのポピュラーな存在でしょ? 宮崎さんは、もっと大きなその問題を指摘しているのかな? あるいは、その手の心理の、欠落の一貫性まで見すえているのかな? 逆に言うと、私の問題意識は、宮崎さんよりも、明晰でありシリアスといえるわけです。 |
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R.10/12/26 |