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カテゴリー | 会話のスタイル(聞き手側) |
配信日 | 09年10月2日 (10年9月13日,10年11月4日 記述を追加) |
タイトル | 読んでやる |
以前にこのメールマガジンで「してあげる」というお題を取り上げております。 当事者意識がなく、被害者意識だけがあるダメダメ人間は、何かをする際に、「してやった!」なんて言いたがるわけ。 「教えてやった!」とか「育ててやった!」とか、そんな、もったいぶって恩着せがましい物言いをするんですね。 その際取り上げた、「してやった」は、どちらかというと、「与える」側の心理。「人間として当然のこと」だから、当事者意識を持って、その人に対して提供するという意識ではなく、そこに被害者意識があるので、何をするにせよ、自分の「持ち出し」に注目し、「与えてやった」なんて物言いになってしまうわけ。 被害者意識が強いダメダメ人間が、与える側において「してやった」なんて言うように、「受け取る」側の際も、往々にして「してやった」という物言いや心理を示すことがあるものです。 と言うことで、今回は「読んでやった」という言葉を取り上げましょう。文章を読む側は文章を受け取る側と言えるでしょ?今回は「読んでやった」という言葉そのものというより、心理を考えてみます。 ダメダメ人間は、文章を読む際にも、「オマエの文章を、読んでやったぞ!」なんて、恩着せがましい態度なんですね。 まあ、このメールマガジンの文章だって、「オマエの文章を読んでやったぞ!」と思って読んでいる人もいるかもしれません。 発行している私としては、何も、「ありがたや〜、ありがたや〜」なんて感謝の気持ちで読んでほしいなんて申し上げているわけではありませんヨ。 文章を読むにあたって、ある程度は目的意識なり問題意識があるわけでしょ? 自分が直面している問題の解決法のヒントを得たい、とか、 自分自身の問題を顕在化したい、とか、 トラブル予防のための知識を得たい、とか、 あるいは、単純な好奇心、とか。 「いったい、いつまで続くんだろう・・・よし、こうなればガマン比べだ!負けるモンか!」などと覚悟を決めて読んでいたりする人もいるかも? 重要なことは、読んでいる人の役に立つことでしょ?知識が増えるにせよ、考える視点が増えるにせよ、長文読解力が強化されるにせよ、忍耐力が強化されるにせよ、当人に役に立てばそれでいいのでは? 役に立てば、それでいいわけですし、役にたたないと判断すれば、もう読まなければいい話。どうせ無料なんですしね。とは言え、ダメダメ人間は自己逃避であって、自分で判断することからも逃避するもの。だから往々にして、「購読解除」という判断もイヤがったりするものなんですね。 このメールマガジンの文章にどう接しようとそれは購読者の自由。しかし、一般的にも「読んでやる」なんて雰囲気の人って多いでしょ? それこそインターネットの掲示板なんて、そんな人でいっぱいじゃないの? 「オマエの書き込みの文章を、オレ様が読んでやる!」 そうして、今度は、読んだその人が、上から目線で「しょーもない」感想を書き込む。 しかし、そんな「やり取り」で何が得られたの? 知識なり知見が得られたの? そもそも、どんな目的があって、そんな掲示板をのぞいているの? 情報交換が目的だったのなら、求める情報が得られたのなら、それでOKですよ。 そもそも「読んでやる」なんて上から見下ろすくらいにつまらないと思っているのなら、最初から読まないほうがマシ。時間のムダですよ。 当事者意識なり、あるいは知的好奇心がないがゆえに、「読む」という行為に被害者意識が付随しているわけ。 これは、「読む」ことばかりではなく、映画などを「見る」場合でも同じでしょ? ダメダメな人間ほど、作品を「見てやる」なんて態度がありありですよね? 「ワシが自分の金を払ったんだから、その分を楽しませろよ!コラ!」 ・・・そんな雰囲気。 「読んでやる」とか、「見てやる」なんて、そんな発想だからこそ、発し手の考えを受け取ろうともせず、だからこそ、その文章や映画の意味もわからない。だから実に気軽に「あれはつまんない!」なんて感想を持ってしまう。そんな「つまんない」という感想が積み重なるから、ますます「読んでやる」「見てやる」 なんて態度になってしまう。 あるいは、「わけわからない」「何が言いたいのか?わからない」なんてクレームを言い出すパターンもある。 その人が、その作品をわからないのはいいとして、じゃあ、その人は、それまでに、どんな作品をどのように理解したの?そっちの方が重要なのでは? 理解した作品があるのなら、その内容を書けばいいだけ。 わざわざ、「わけわからない。」なんて大々的にコメントしても意味がないのでは? その人がわかった作品とか、理解した作品は、具体的に何なの? あるいは、その作品から何を得たの? ただ、「このキャラ・・・萌〜」とか、「泣けたよ!」とか思っただけなのでは? それのどこが理解なんだか? 「読んでやる」という態度に安住しているがゆえに、逆に言うと、自分が「読んでやる」という立場に立てるようなレヴェルの低い文章だけを読もうとするわけ。 「石にかじりついても、この本を読み通して、何とか理解したい!」 なんて気迫がなくなってしまう。 「読みやすい文章」ばかりを読むようになり、的確な説明なり、しっかりとした内容を持つ「中身が理解しやすい」文章は敬遠してしまう。 「何とかして理解したい。」と思っても、理解できるとは限らない。 しかし、その意欲がそもそもないのだったら、理解なんてできるわけもありませんよ。 ちょっと読んだだけで、「なんとなく」わかった気になれる文章ばかりを相手にしているので、ますます「読んでやる」なんて態度に安住してしまうことになる。 読んでやるという発想だから、その文章が理解できなくても、当人の読解力の問題ではなく、書き手の文章力の問題になってしまう。 逆に言うと、それなりの文章力がありそうなことが歴然としている人が書いた文章には近づいていかない。文章の内容を理解できないことが自分の読解力の不足となってしまうような文章は、最初から読まないようになるわけ。後で言い訳ができるような、程度の低い文章ばかりに接するようになってしまう。 対象がヘタクソな文章だからこそ、読み手としては、「読んでやる」という立ち居地が得られるわけでしょ? だからこそ、読解力も進歩しないし、つまらない文章ばかりを読んで、ますますオバカになってしまう。 まあ、そんな人が自分自身を何様だと思っているのかはわかりませんが、そんな発想の積み重ねがどのような結果につながるのか? 「読んでやる」「見てやる」なんて言う人が一番、ツマンナイ人間でしょ? そんな人は、まさに上からの立場で他者に対し得意気にコメントをしたがるもの。 以前に書いた表現だと、「評価者然としたコメント」を発していい気になっている。 人間は誰だって感想を持ったりするでしょう。それを伝えたいと思ったりもしますよね? 感想は自由としても、本来なら、作り手の意図を踏まえた上での感想でないと意味がないでしょ? 自分がその作品についてのコメントを残したいのなら、作り手の意図を踏まえ、受け手なりの感想を、人にわかりやすい形でまとめる・・・いわば作品の紹介に近い形にした方がいいのでは?しかし、「読んでやる」という発想の人は、そんな考えはしない。 作り手の意図をどの程度理解できているのか? そのような点については作品の受け手としては個人差があるでしょう。しかし、「基本的に作り手の意図を踏まえる姿勢」でいることは誰だってできることでしょ? 作り手の問題意識と、受け手の問題意識の間で、会話の精神でやり取りをすればいいじゃないの? 映画などで、いくら観客がお金を払ったと言っても、勝手気ままに感想を書き綴っても、何が楽しいの? 「読んでやる」「見てやる」なんて態度で、作品に接して、後になって「得意気にコメント」を発する。 そんな繰り返しだと、いつまで経っても、そんなことの繰り返し。 もちろん、そのようなことは、当人の自由でしょう。 すべての作品が面白いわけではないでしょうし、作品と受け手の相性だってある。 作品に接して、つまらないと思うこと自体は、誰だってあるでしょう。 しかし、そんなつまらなさをコメントしても、それこそつまらないでしょ? しかし、ダメダメ人間は、様々な確認行為を行っているもの。 「アイツは自分の敵だ!」とか、 「あの○○は、味方だ!」とか、 「あの☆☆のせいで、オレは損をした!」とか、 「うまく行かないのは、全部△△のせいだ!」など。 そんな関係性や感情を、自分に確認する行為をしているものなんですね。 得意気なコメントもまさにその典型。それって、他者ではなく、自分自身に発しているわけ。 主観と客観の区別がつかないダメダメ人間にしてみれば、そのようなことは、実際に起こってしまうわけです。 と言っても、そんなコメントは読んでも面白くないもの。それにわざわざちゃんとした文章にまとめ上げるものではない。だからこそ、公表する場所は、インターネットの掲示板なり、ブログ程度になってしまう。 そんな得意気なコメントって、どうしても人に伝えたいというものではないでしょ?だから、そんな得意気なコメントを読む人のレヴェルも低い。誰かが発した得意気なコメントを読んで、不快な気分になると、「こんな程度のコメントを、このオレ様が、せっかく読んでやったのに・・・」と被害者意識。その被害者意識から、コメントを書き込むことになる。 まあ、そんなことが無限ループ状になってしまう。 だからこそ、そんなことで満足している内は、「人の意向を聞き」、「自分の意向をわかりやすく伝える」という会話の精神が、ますます身につかなくなってしまうわけ。 結局は、ダメダメが加速するだけなんですね。 そのような状態って、ちょっと様相はちがっていますが、ダメダメにお約束のグチの共鳴と実態は近いもの。だって双方とも、その基本は被害者意識。 そんなことで盛り上がっているうちは、ダメダメからは脱却できないわけです。 それどころか被害者意識が刺激され、文章の書き手に対して、ストーキングなどをやる人もいるようです。 以前にアニメの声優さんへのブログへの書き込みで逮捕された人がいて、その書き込みの文章を読んでみたら、見事なまでにお約束の文章スタイルでした。 「オレ様が、せっかく、コイツの文章を読んでやっているのに・・・」と被害者意識を持ち、ヘタクソな日本語で、かつ、上からの物言い。まあ、逮捕されるくらいになるとシャレになりませんが、被害者意識とヘタクソな表現、上からの物言いなんて、程度問題は別にして、ダメダメにお約束でしょ? 読んでやるという姿勢の人は、一生何かを達成することはできない 誰かの文章を読んで「これは違うなぁ・・・」と思った際に、じゃあ、自分ではどのように考えるのについて、自分なりに思考し、必要に応じ、自分で文章をまとめればいいだけ。 しかし、心が弱い、そして当事者意識がないダメダメ人間は、そんなことはしないわけ。 ちなみに、私宛に相談のメールを寄せられる場合もありますが・・・ 私としては、「そのお便りの文章を読んでやる。」なんて上からの目線で見たりはしませんよ。まあ、「一緒に考えていきましょう。」くらいの感覚です。 表現の上手下手については、それほどこだわりません。ただ、曲がりなりにもこの私は書き慣れているので、相談の文章を書いた人が、どの程度「伝えようとする気持ち」を持って文章を書いたのかについてはスグにわかりますよ。 「伝えたい」「わかってほしい」という気持ちを持っていれば、表現も徐々に上手になっていくでしょうし、事態も改善していくでしょう。しかし、そんな気持ちがそもそもない・・・そんなパターンも残念ながらあったりします。そんな人の文章は、「オマエの文章を読んでやった!」「オマエに教えてやる!」なんて雰囲気の、上からの物言いなんですよ。 そんな人が、子育てをしたら子供に何て言うの? 「オマエを育ててやった!」 そうなるに決まっているでしょ? あるいは、子供の意向を聞きとろうとするの? そんなわけないでしょ? ダメダメというのは、ちょっとしたことに気が付けば、簡単に予想がつくものなんですよ。 「読んでやる」というフィーリングで誰かの文章に接する人は、その時点で、ダメダメ確定と言っていいでしょう。 そんな人が子供を持ったりすると、「子供の話を聞いてやる!」という立ち居地になることは、簡単に予想できるでしょ? そんな恩着せがましい態度を見せられれば、子供だって、フランクにやり取りはできませんよ。そうやって、コミュニケーション能力が育たなくなってしまう。 実際に、「読んでやる」という立ち居地で、人の文章を読む人は、コミュニケーション能力が低い人でしょ?だって、読むことに被害者意識が付随しているんだから、ちゃんとしたコミュニケーションができるわけがないじゃないの? 「わかりたい気持ち」や「伝えたい気持ち」を持っていないがゆえに、「聞いてやる!」「読んでやる!」というスタンスになってしまう。 会話の目的は相互理解でしょ? 「読んでやる」とか「聞いてやる」というスタンスで、相互理解が達成されるの? そんな人に対して、わざわざ「熱く」語る人もいるようですが、逆に言うと、そんな人に熱く語る人も、「わかりたい気持ち」や「伝えたい気持ち」を持っていないわけ。 「言い放ち」や「書き放ち」の一方通行で済むやり取り?しかできないわけです。 読んでやるというスタンスの人に対しては、どんなに説明しても、理解しようという発想そのものがない人なので、逆に言うと、説明能力が低くてもいいことになる。 つまり、的確な説明は必要ない。 相手が「わかりたい」という気持ちを持ってやり取りをしているのなら、説明能力が必要となる。「わかってもらう」ために、文章をまとめる側も、色々と工夫をしますよ。 「わかりたい」という発想を持っていないがゆえに、「読んでやる!」という立ち居地にこだわるわけですが、同じように「わかってほしい」という発想を持っていないがゆえに、「読んでやる」という立ち居地の人に、わざわざ語ることになる。 「読んでやる」という人に対しては、どのみち合意を取れるわけもなく、だからこそ「どうしてわかってくれないんだ?」とグチっていればいい。 「どうやって自分の説明能力を向上させていこうか?」とか、「どうやってわかってもらうのか?」という思考はしなくてもいい。 だって、相手方はもともと聞く耳持たぬ人なんだから。 逆に言うと、「伝えたいこと」「伝える方法」について何も考えなくてもよくてラクになるわけ。 だからこそ、「わかりたい」という気持ちを持っていない人に、わざわざ近寄り、語ることになる。 そんな光景は、絵に描いたような会話の不全でしょ? しかし、会話不全のシーンであるがゆえに、会話の能力が欠如した人には落ち着くわけです。 会話などのやり取りにおいては、やっぱり「類は友を呼ぶ」ものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 このように上からの物言いをする人に限って、「ウチは子供とうまく行っている!」と言ったりするもの。 まあ、そんな物言いをする人とは、一般の人はやり取りをしたいとは思いませんよ。だから必然的に、自分の子供としかやり取りができない状態。 それは見方を変えれば、「濃密なやり取り」と言えなくもない。 しかし、やり取りはあったとしても、「子供の意向を受け取ろうとしているのか?」となると、全く別問題でしょ?日頃から相手の意向を聞き取ろうとしている人は、いきなり「上からの物言い」なんてしませんよ。 それに「〜してやった」という物言いは、被害者意識と繋がっている。だからそれが直接的に刺激されると、逆上することになる。 ホント、「〜してやった」なる物言いが出てきたら、素早く避難しないと危険なものなんですよ。 |
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R.10/11/4 |