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カテゴリー | ダメダメ家庭問題の考え方 | |
配信日 | 09年10月7日 | |
タイトル | ないもの、見えないもの | |
以前に韓国の新聞の記事で「日本人はインド人が好き。」との記事がありました。 しっかし、日本人の嗜好について、どうして韓国人がそんなに関心を持つの? まあ、それはいいとして、じゃあ、我々日本人はインド人をどのように見ているの? インドというと、往々にして思い出すのは仏陀とか、ガンジス川の雄大な流れとか、何となくスピリチュアルな雰囲気でしょうか? 日本にもインドから来た人が結構いますが、往々にしてそんなインド人は、穏やかな人たち。まあ、別の国からの人のように、スグに逆上して騒いだりはしない。 それに日本にいるインド人は宗教的にも、穏健。 以前にインドからの人とお昼ご飯を一緒したことがありますが、そのインド人は、「焼き肉丼」を注文したので、一緒にいる私が慌てたことがあります。しかし、そのインド人は「いいんだよ、ここはインドじゃないだから・・・」とか言って、お箸を使って、焼き肉丼の牛肉を旨そうに食べてたっけ・・・インド人にビックリですよ。 インド本国のインド人は過激な人も多いでしょうが、日本にいるインド人は、出身階級の影響か、穏健な人が多いので、日本人はインド人に対し、好感を持つことも多いんでしょうね。 まあ、インドというと、真っ先に言われたりするのは、数学に強いということ。 インド人は、大昔に、0(ゼロ)を発見したとかで、歴史で出て来るでしょ? 以前にたまたまニュースを見ていたら、インド人はゼロという数字を発明したとかの紹介があったので、呆れたことがあります。「マル」というか「0」という数字に意味があるのではなく、ゼロが指し示す概念にこそ意味があるもの。 まあ、ニュース番組を作る程度の知能の人には、そんなこともわからないのかな? ゼロというのは、結構難しい概念です。 「ゼロがある」ということと、「何もない」ということの違い・・・その点を明確に説明できないと、ゼロが指し示すものも、理解していないことになる。 実際に皆さんが、「ゼロがある」ということを、誰かに説明してみてごらんなさないな。 「ゼロって・・・何もないということよ!」なんて説明だったら、ちょっと問題ですよ。 そんな説明だったら、それこそ大昔のインド人もビックリですよ。 実際問題として、ゼロということ、あるいは、「ゼロがある」ということと、「何もない」ということの違いを説明するためには、マイナスという概念を導入する必要があるわけ。 それこそ学生時代に、数直線なんてやったでしょ? プラスがあって、マイナスがあって、そのプラス分とマイナス分が、たまたま相殺して、ゼロになっている・・・ゼロを説明するためには、そんな説明が必要になってくる。 マイナスという状態が認識できてこその、ゼロという概念なんですね。 ゼロは、プラスの状態とマイナスの状態を含んでいるからこそのゼロ。 大昔にそこまで見通したインド人はスゴイものですよ。ちなみに物理学においては、ゼロとなると、真空が該当するでしょうが、真空がいかに多くの状態を含んでいるのか?それを語れるようになったのは、やっと20世紀のことです。確か・・・ディラックがそんな業績を残したんじゃないかな?ディラックの海とか・・・アニメにも出てきましたよね? このメールマガジンは科学史のメールマガジンではないので、導入はこれくらいで・・・ 私が申し上げたいのは、ゼロという状態だと、確かに見えないわけですが、だからと言って「何もない」ということではない・・・そんなことです。 何回も書いていますが、マイナスがあってこそのゼロなんですね。 さて、今年09年の7月において、様々な心理的枠組みの問題を集中的に考えてみました。 人が物事を認識するに当たっても、思考するに当たっても、そして行動するにあたっても、座標軸というか枠組みのようなものを使って、認識し、思考し、行動するわけ。 そして、その座標軸というか枠組みは、発達心理学者のボウルビィが言うように成長後の可塑性が低いわけ。 今回は、そのシリーズのちょっとしたまとめというか、アペンディックスのようなものです。 その一連の文章を配信した時にも例示いたしましたが、そのような問題は、たとえば外国語の習得の時に意識されたりするもの。 日本人は、フランス人のように16の母音の違いを聞き取れない。 これは人種的で身体的な問題というよりも、フランス人は、幼少時からのやり取りによって16の母音を聞き取れる認識の枠組みを作りあげていて、会話においてそれを使っているので、特別なことをしなくても16の母音が聞き取れるわけ。 16の母音を聞き取れるそのような枠組みがないと、聞き取ろうとしても、どうしても無理をしてしまうし、結局のところは、完全にはわからないもの。大人になってしまうと、新たな外国語の習得も難しいって、よく言われますよね?ビジネスや学問の分野でのやり取りならまだしも、細かな音声的ニュアンスなり、細かな情緒的表現を聞き取るのは難しいわけ。 外国語だけでなく、それこそスポーツの世界なり、あるいは楽器演奏の世界でも、このようなことは常識でしょ? 小さい頃からやっていて、形というか枠組みをしっかり作っておかないと、プロにはなれないわけ。アマチュアとしての楽しみとしてテニスをしたり、ヴァイオリンを弾くくらいなら、大人になってから始めてもいいわけですが、プロになるためには、幼少時から始めないとダメでしょ? いわば形を、自分の身体に染みこませた状態でないと、プロにはなれませんよ。 プロテニスプレーヤーになるとか、プロのヴァイオリニストになりたいが、幼少時からのレッスンをしていないから、無理だ・・・そのようなことは、本人にも自覚しやすいし、周囲も理解しやすい。特別の人間になるためには、特別の準備が必要・・・それは、誰でも合意してくれる。プラスの方向だったら認識しやすいわけ。 特別の人間ではなく、じゃあ、一般人はどうなるの?「プロの一般人」というか「一般人のエキスパート」は、そのようなことはないの? 「一般人のプロ」という言い方は、ちょっとわかりにくい。まあ、このメールマガジンで書いていますがノーマルというかマトモな人は、言い方を変えると一般人のプロといえるでしょ? 一般人なんだから、何も努力しなくても、自然になれるはずだ・・・ プロのテニスプレーヤーやヴァイオリニストのような特別な存在になるわけではないんだから・・・ 多くの一般人はそんな考えなのでは? しかし、最初に書きましたが、「ゼロ」と「何もない」は大きく違っているわけ。 「ゼロ」と「何もない」は、まさに「何も見えない」という点において共通している。 しかし、特別なものが「見えない」からと言って、「何もない」とはならないわけ。 それこそ、取るに足らない一般のフランス人でも、それなりの環境で育った人なら、16の母音は聞き取れる。しかし、そんな環境ではない日本人が大人になってフランス語を勉強しても、そうはいかないでしょ?16の母音を聞き取ることにかけては、日本の環境だとマイナスを背負っている状態。 もちろん、日本にいるかぎり、16の母音を聞き分ける必要はないでしょう。 一般のフランス人は、幼少時からのやり取りの積み重ねによって、意識的な努力もなしに、16の母音を聞き分けることができるようになる。 「どうやって、そんな能力を身につけたの?」なんてフランス人に聞いても「そんなことは、知らんがな!」って言われるだけですよ。しかし、幼少時のやり取りの積み重ねはあったわけでしょ?それについて意識的には認識していないというだけ。しかし、大人になってからフランス語の勉強を始めた人は、そのマイナス面を意識することになる。 一般人のプロも似たようなもの。 一般人のプロになるためにも、一般人としての枠組みを形成するための幼少時からの訓練があるわけ、ただ、それが意識的には見えないだけ。つまり認識的にはゼロの状態。 「何もない」ということは、それこそ、赤ちゃんの頃から地下牢に一人で押し込められたようなもの。発音の聞き分けだって、たとえフランスで育っても、地下牢の中で一人で育てられたら、16の母音だってわかりませんよ。 プロのヴァイオリニストになるための訓練が、現実として必要であるように、一般人のプロになるための訓練も幼少時から必要なんですね。それが意識のレヴェルでは認識されていないからと言って、多くの一般人は地下牢で一人で育ったわけではないでしょ?つまりそれなりのやり取りの積み重ねを経てきているわけ。 「一般人のプロ」となると、ダメダメ家庭の人間は、「ふ・つ・う」なる文言で語るもの。「ふ・つ・う」な状態とは、「可もなし、不可もなし」状態。それはまさに「マイナスもなく、プラスもない」状態と言えるでしょ?つまり「何もない」というよりもゼロの状態に近いわけ。 だから、その状態としては、マイナスの状態を含んでいるもの。 本来は、微妙な均衡の元に成立している危うい状態なんですよ。 だから「ふ・つ・う」というよりも「標準状態」とか「平衡状態」と言った方がいいでしょう。 特別なことはしていないと言っても、何もしていないというわけではないでしょ? 「最低限、これくらいはやっておかないといけない。」 「現在が、こんな状態だったら、後々マズい事態になる。」 そんな感覚は、ある種のマイナスを意識している状態。 「今のところはプラスマイナスでゼロだけど、注意しておかないと・・・」 つまり、そんなゼロの状態を維持するためには、注意なり努力が必要になってくるわけ。 しかし、当事者意識がないダメダメ家庭は、何もしない。 何もしないことが、「ふ・つ・う」への直行便だと思っている。 現実的には、ダメダメ家庭というものは、出発点として、いっぱいマイナスがある状態なんだから、相当努力しないと「可もなし、不可もなし」の状態まで到達できませんよ。 しかし、ダメダメ家庭は何もしないことで、一般人のプロになろうとする。だからこそ、それこそ地下牢に近いような環境に自分の子供をおいて、「さあ!これでふつうの子供になれ!」と子供に命令するようになる。 マトモな家庭は、特別に意識せずに、色々と対応するので、結果的に一般人のプロになれる。それにその出発点も、いわばゼロ地点の近くにある。ゼロ地点から近くにあるから、たとえマイナスが生じても、小さな対処で片が付く。だから、その対処は当人にとっても意識的には認識されていない。しかし、特別に意識していないとは言っても、何もしていないわけではないんですね。一般のフランス人がフランス語を習得するようなもの。それなりの積み重ねはあっても、そのことについて意識し、認識しているわけではない。だからといって、その積み重ね自体は、厳に存在するもの。見えていないのと、何も存在しないとは全く違うわけ。 ゼロ地点の近くにいるマトモ家庭の人間が、ゼロの状態を保つためには、特別な努力は必要がないのに対し、ダメダメ家庭の人間が現実として存在する多大なマイナス状態からプラスマイナスゼロの状態に持っていくのは、それこそ大人になって初めてヴァイオリンをさわった人が、プロのヴァイオリニストを目指すようなモノ。 多大なるマイナスを補うための努力も、ゼロ地点から多大なるプラスを達成するための努力も、努力の量としては同じでしょ? ダメダメ家庭の親は「ふ・つ・うの子供になれ!」なんて子供に要求するものですが、ダメダメ家庭の子供が親からのその要求に応えることは、そんな要求をしている親の側が、その歳からプロのヴァイオリニストになるくらいの努力が必要になるわけです。 当事者意識がなく、現実逃避のダメダメ家庭の親は、自分は何もしないで、子供に要求するだけ。 そして、「自分たちは、せっかく、何もしないでいるのに・・・どうして、ふ・つ・うになれないんだ?!」と周囲を恨むだけ。別の言い方だと、「ワタシたちは、幸福なんて望んでいない。ただ、ふつうであればいい。」という理屈をもちだし、何も対処はしないわけ。しっかし、地下牢に放り込んでいて、その子供が「ふ・つ・う」になるわけがないでしょ?そんなことは、本来は幼稚園児でもわかること。 しかし、ダメダメな親だけでなく、周囲の一般人もその点に関しては同じ。 ゼロと「何もない」の区別がつかないわけ。 ゼロ状態の背景には、広大なるマイナス領域があることがわからない。 ゼロと「何もない」との区別の重要性は、何も数学の問題ではなく、ダメダメ家庭で、結構発生しているものなんですよ。そして、マイナス状態から「ゼロ」の状態まで持っていくためには、まずは、マイナス部分を見えるようにする必要があるのは当然でしょ? ゼロという状態が持つマイナスとプラス。 それを見えるようにしないと、逆に言うとゼロ状態・・・別の言い方をすると「ふつう」を達成することはできないわけ。 このメールマガジンではミシェル・フーコーが言う「哲学の役割は、見えているものを見えるようにすることだ。」という言葉にたびたび言及いたしますが、ゼロの状態がプラスとマイナスという見える状態の相殺によって、たまたま見えていないだけということを、しっかり認識できないと、ダメダメ家庭の問題は理解できないものなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 前回配信の文章で、新約聖書の中の言葉を使いましたが、ヨハネの福音書の冒頭の言葉は、「初めに、言葉があった。」というものであることはご存じの方も多いでしょう。 ちなみに、ここでの「言葉」はギリシャ語で「LOGOS」となり、英語でいう「LOGIC」つまり「論理」に繋がっていくわけです。 購読者さんの中には、このメールマガジンの文章は、感情にまかせてメチャメチャに書いていると思われている人もいるかもしれませんが、文章を読み慣れている方は、むしろ論理的に詰まった文章だということに気づいておられるでしょう。 今回の文章は、普段以上に緻密な論理で書いています。とはいえ、何も哲学的な論理構築を目的としたわけではないので、高校卒業程度の読解力があれば理解できると思っております。 日本人は以心伝心とかで、言語能力が低くても通用する社会とは言えますが、最低限の言語能力なり論理能力は、問題を認識し、解決するためには必須のものでしょう。 まさに「言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」というわけ。だって言葉がないと人は認識することからしてできないでしょ? 逆に言うと、認識できないがゆえに、「問題がない」と言えてしまうわけ。 だから、問題が進行することになる。そして、お約束のドッカーンに。 そんな流れを記述した言葉なんて、このメールマガジンだけでなく、山のようにあるものなんですよ。 |
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R.10/9/18 |