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カテゴリー 様々な二重否定表現
配信日 09年10月21日
タイトル なかったら困る
備考 「ない」というのは否定形、「困る」は意味的に否定形で二重否定表現といえます。
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、自分で何かを達成しようとは考えず、むしろ、何かを否定してばかり。だからその物言いに否定形が多くなり、そしてそれが重なって二重否定表現が多発することになる。
今回は、そんな二重否定表現のうちで、「なかったら困る」という物言いを取り上げましょう。「ない」というのは否定形ですし、「困る」は意味的に否定形でしょ?

この「なかったら困る」なる物言いは、以前に「二重否定としての新聞」という文章を配信した時に、言及いたしました。
新聞は、国民にとって、「なかったら困る」ものだ!
そんな感じで、言ったりする人がいるでしょ?

それはそれでいいとして、じゃあ、具体的にどのように困るの?
どの点が困るの?国民と言っても、具体的にどんな人が困るの?
アンタが困るのはともかく、ワタシは困らないんだけどなぁ・・・そんな見解もあるでしょう。
あるいは、「なかったら困る」のはいいとして、代替品はないの?セカンドベストという方法もあるのでは?

そんな疑問点が出てきますよね?

以前より書いていますが、「なかったら困る」なんて二重否定で書くよりも、「このような人に対して、このような点が役に立つように、我々は○○を制作している。」そのように肯定形で語るのがスジと言うもの。
どうして、そのように肯定形で語れないの?

それは、そのように肯定形で語れるための思考をしていないからでしょ?
普段から、ちゃんと自分自身の立ち位置なり、方向性なり、成果を認識していたら、ちゃんと肯定形で語れますよ。自分自身から逃避しているからこそ、「なかったら困る」はずだ・・・などと二重否定で漠然とした物言いしか使えなくなってしまう。

役に立つ、たたないは、相手次第のもの。本来は、「自分はこのようにやっている。」と言えればそれでいいだけ。逆に言うと、自分から逃避しているので、それが言えないわけです。
「なかったら、困る」と自称する存在は、逆に言うと、代替となったら、どのような点がどのように困るのか?それが明確にすることができないもの。

だから、そんな「なかったら困る」ものは、非常に排他的でしょ?
別の人が手掛けたら、その人以上に上手に出来てしまったら、「なかったら困る」を連呼していた人は立場がない。だから外部からの参入を必死で排除しようとすることになる。
本来なら、自分の成果が自覚できていたら、別の人による参入も排除しませんよ。
「できるものなら、やってみなよ!素人さんよ!」「このオレは、この面については、誰よりもわかっているんだ!」と高見の見物でOKでしょ?

その種の人たちが示す排他性は、その「なかったら困る」存在が、結局は、他の人がやる場合よりも上手くやっていないことの証明のようなもの。

まあ、新聞がどうなろうと、あるいは「もし、なくなっても」現実的には代替品が出て来るでしょう。だって本当に困るのなら、それこそがビジネスチャンスというもの。
必要は発明の母ですよ。

あるいは、このような「なかったら困る」なんて文言が登場するのは、韓国人。
「韓国という国は、オマエたち日本にとって、『なかったら困る』存在だ!」
そのようなことを言ったりするでしょ?しかし、じゃあ、具体的に何が困るの?
私にはさっぱりわかりませんよ。
あるいは、その「なかったら困る」という二重否定的な存在説明は、まさにダメダメ家庭の親がいつもやっていることでしょ?

「親というものは、なかったら困るものだ!」
「いてやっているだけでもありがたく思え!」

そんな物言いがダメダメな親には頻発しているもの。
マスコミの方も、そんな環境で育ったんでしょうね。ただ、それを自覚できるだけの知性がないので、結局は、フロイトが指摘する反復強迫状態に陥ってしまう。

「なかったら困る」と自称する存在は、恩着せがましいもの。
自分自身の言葉で自分の成果を語れずに、「オレは、アイツにとって役に立っている。」という形でしか言えないので、どうしても他者に恩を着せる必要があるわけ。
しかし、その「恩」とやらも、具体的ではない。
「いてやっているだけでも感謝しろ!」と言った漠然として強圧的なスタイルとなってしまう。
「なかったら困る」と自称する存在は、現実的には「いて困る」ようなジャマくさい存在でしょ?
他者にとって役に立つという存在説明なので、どうしても恩を着せようとするし、自分を高く売ろうとする。しかし、高く売ろうとはしても、自分自身の価値を高めようとは考えない。まさに「いてやっているだけで感謝しろ!」となってしまう。
「なかったら困る」という物言いと、「いてやっているだけで感謝しろ!」という物言いは、論理的にも感情的にも直結しているもの。

そして「なかったら困る」「いるだけでありがたい」という漠然としたスタイルと似たパターンとなると、「失いたくない」と言った物言いになったりします。

よく「今の生活を失いたくない!」なんて言ったりしますよね?
まあ、そんな物言いで相談を受けた方もいらっしゃるかも?

「今の生活を失いたくない」はいいとして、
「じゃあ、どんな生活を築きたいの?」
「どんな家庭を築きたいの?」
そんな加点方向というか肯定方向への疑問が出て来るでしょ?

あるいは、「どうしても失いたくないものは何?」
「それぞれの失いたくないもののプライオリティは?」
それが明確であれば、上手な対処もできるわけでしょ?
逆に言うと、「失いたくない」と言っている段階で、もうコケ始めているわけです。

「何を失いたくないのか?」「何を得たいのか?」
それが明確になっていれば、現実的には対処は可能だし、トラブルも減らせる。
何かの事件があって、働いている子供が死んでしまったら、「これから、どうやって生活すればいいのか?」「収入源がなくなってしまったわ!」などと親の嘆きがでてきたりするもの。
収入がそんなに心配だったら、自分の子供に保険金をかけておけばいいだけでしょ?

逆に言うと、そのような具体的な対処は取れることになる。だから、後になって収入についてグチグチ言わなくても済むわけですし、後になってグチグチ言う人は、そんな事件が起こる前にもグチグチと言っているもの。「オマエがいなくなったら、ワタシの生活が困るから、しっかり働け!」そんな感じになっている。そんな「会話」ばかりだから、現実としてトラブルが起こってしまうんでしょ?
一緒にいる人間としてみれば、顔を合わせるたびに「ワタシの老後の面倒をみろよ!」とグチグチと言われるよりも、さっさと保険金でも掛けてくれた方がマシですよ。「失いたくない。」もいいわけですが、具体的でないと対処は取れない。だからこそ実際にトラブルになってしまう。

以前に「HOLiC」というアニメ作品をみていたら、そんなシーンが出てきました。
パソコン依存症になった主婦が「今の生活を失いたくない!」と相談する話です。
パソコンを止めるとか止めないとか、今の生活を失うとか失わないとか・・・そんな否定形で語っているからこそ、依存症になってしまうもの。
「こんな家庭を築きたい。」という具体的な形で肯定形で表現できれば、逆に言うと、パソコンとの距離感も取れますよ。
・・・まあ、そんな話でした。
作品を作るような人同士は、割と似た視点を持っているもの。

「ワタシとしてはこのような家庭を築きたい!」
と、肯定形で表現できない状態だったら、当人は何もしようがないでしょ?
結局は、事前には何もせず、小さなトラブルが積み重なってしまって、ドッカーンとなる。
そうして、「ワタシはただ何も問題のない『ふ・つ・う』の家庭を築きたかっただけなのに・・・」と嘆きを語るだけ。

「なかったら困る」とか、「失いたくない」ということばかり言う人は、実に攻撃的なもの。
だって、視点がマイナス面だけであり、達成したいものがないんだから、適宜、自分で判断したりはしない。減点面に過剰反応しても、加点法的には何もしないわけ。
減点面が顕在化すると、パニック的に攻撃的になってしまうだけ。

「なかったら困る」はいいとして、本当に価値があり意味があるモノは、消そうとしても消えないもの。

心臓がなくなったら、本当に困るの?困ったりはしませんよ。だって、心臓がなかったら困るどころか死んじゃうでしょ?困るくらいだったら、現実的にはなくても何とかなりますよ。胃がなくなっても、腸が代わりをしてくれるでしょ?困るところもあるけど、所詮はプライオリティのマターですよ。空気がなくなったら困るの?いや!困ることすらできないでしょ?エアコンがなくなったら困るとは言えるでしょう。困るというのは、逆に言うと、困る止まりということ。実際に、新聞はなかったら困ると主張している人は、新聞のない時代に活躍していたソクラテスやキリスト以上の、知的な活動をしているとでも言うの?
なかったら困るなんて、所詮は、便利とかの問題でしょ?

ダメダメな親が子供に対して言う「親は子供にとって、なかったら困る存在だ!」と主張する親子の問題でも、そのように見ることができるわけです。
子供にしてみれば、親という存在そのものよりも、親との思いなり、親から得たもの意味があるわけでしょ?その思い出に本当に価値があるものなら、その思い出は消そうとしても消せないものでしょ?親の存在よりも、親との思い出に意味があるわけですし、たとえば、家族の写真はなかったら困るものといえるでしょうが、それより重要なのは、思い出そのものですよ。写真がなかったら困るもので、思い出はなくならないもの。たとえ家族の写真が何枚もあったとしても、「楽しい思い出」がなければ、その写真だって取り出して見たりはしませんよ。

なかったら困るはいいとして、じゃあ、消そうとしても消しがたいものは何なのか?
そちらの方が重要でしょ?
新聞でも、媒体そのものはなくなっても、伝えた情報そのものに価値があれば、情報は生き続ける・・・逆に言うと、そんな「力のある」情報をどうやって伝えていくのか?
本来はそういう問題じゃないの?

あるいは、音楽ホールはなかったら困るとかで、不必要な建物を建設したりしますが、本当に価値があるのは、そこでの音楽そのものでしょ?本当に価値のある音楽なら、聴衆はその体験を忘れようとしても忘れられないものでしょ?
なかったら困ると言っている段階で、どーでもいいわけ。

失いたくないと言っている人は、具体的には何を失いたくないの?あるいは、現時点では何を持っているの?
面白いもので、「失いたくない」と言っている人は、本当の意味での喪失感がない。
だって、現実的には、もともと何も持っていない。
そんな人は「失いたくない」という気持が先にあって、「失うもの」の具体は後に来る。
「失うもの」については、具体的にはどうでもいい

その理屈が周囲に通りやすければ、それでいい。
「なかったら困る」と日頃から言っている人は、たとえば、自分の両親が死んでも、本当は悲しくないのに、喪失感が先に来る。
だから、そんな人は、両親との思い出がない。
ただ、親という肩書きの存在がいなくなったというだけ。
まさに、「親という、なかったら困る」存在がなくなったから、とりあえず「困った」だけ。別に悲しいわけでも、深い喪失感を持ったわけではない。

「なかったら困るもの」と、「消そうとしても消えないもの」とは対極なんですね。
芸術作品のテーマは、まさに「消そうとしても消えないもの」。
芸術家のトラウマのようなものから、神からの啓示のようなものまで・・・
そんな体験は、「消そうとしても消えない」でしょ?
そして、そんな消しがたいものに対する、自分自身のまなざしこそが、その人の本質であり、まさに「消そうとしても消えない」レヴェルの芸術作品を作ることになる。

消そうとしても消えないという、一線を越えたもの・・・そのために芸術はあるわけです。
以前に言及した「ニュー・シネマ・パラダイス」という作品でも、女性への愛も、映画への愛も、「消しがたい」までに一線を越えていることがテーマとなっていました。あるいは、これも以前にちょっと言及したF.トリュフォーの映画「隣の女」のそのパターンです。妻が言う「アンタがうらやましいわ。」も、そんな意味なんですね。一般人にはうかがい知れない「消しがたいほどの」「一線を越えた」世界。

それらは、決して、「なくなったら困る」というレヴェルのものではない。
「なかったら困る」程度のものは、それが一見「表現したいもの」であっても、所詮は逃避であり、自分への言い訳なんですね。失いたくないと語る人は、失いたくない対象を少しずつずらしていって、結局は、最初に「コレを守りたい!」と言っていたものも捨ててしまう。「なかったら困る」とか「失いたくない」対象が、変化してしまう。ただ漠然とした減点が心に残っているだけ。

何も芸術作品にまで結実するケースばかりではなく、本当に強い印象を受けたら、「忘れがたい」もの。だから避けようとしても、避けられずに、また強い印象を与えたものを求めたりする。
それこそ、以前に石原東京都知事の「ババぁ」云々の文章を「読めば読むほど腹が立つ。」とコメントして裁判をしたオバサンがいましたが、「読めば読むほど腹が立つ。」というのは、「読まない」という判断ができないほどに、強い印象を受けたということでしょ?
つまり「読めば読むほど腹が立つ。」という非難の言葉ほど、その文章の「圧倒的な力」を証明しているものはないわけ。
そんな読者への力は、決して「なかったら困る」ものからは到達しませんよ。

何かを選択することは、何かを捨て、あるいは失うこと。それこそ何をするにも時間を失うものでしょ?失うことが怖いという言葉は、選択することが怖いという発想であり、その人の心理的な抑圧なり、当事者意識の欠如を現しているわけ。
「失いたくない」とは、現実的には、「何も考えたくない」との同義の場合が多い。

自身で達成したいものがあれば、どうしてもプライオリティの問題が発生しますよ。
逆に言うと、失いたくないということばかり言う人は、何も達成したいものがない人。
あるいは「なかったら困る」なんて文言を繰り返す人は、「あるだけでありがたい。」という名目を掲げ、結局は何も達成することがない人でしょ?

(終了)
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発信後記

今週は、様々な「位置づけ」に関する文章を集中的に配信しております。
今回の「なかったら困る」ですが、そもそも、そんな二重否定で表現しているということは、実質的には価値がないということ。

本文中にも書いておりますが、ダメダメな親ほど「親は、なかったら困るもの」と言ったりするでしょ?逆にいうと、「なかったら困る」はいいとして、「あっても困る」ものなんですね。
それこそ、韓国なんて、当人たちは、「なかったら困る」とのいつもの二重否定ですが、たとえその主張を肯定しても、「なかったら困る」以上に「あっても困る」存在でしょ?

そんな「なかったら困る」なんて文言が、自然に出てきてしまう・・・そんなところからダメダメも見えてくるものなんですよ。
R.10/12/28