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カテゴリー ダメダメ家庭出身者のキャラクター
配信日 09年10月30日
タイトル 弱い子
「あの子は弱い子だった・・・」なんて言葉は、それこそドラマなどには出てきたりします。
じゃあ、どんなシチュエーションで出て来るの?

今までそんなセリフが出てきたシーンを思い出してみると、まあ、使われ方は決まっているでしょ?
まあ、子供が自殺して、その親が、「あの子は弱い子だった・・・」と、しみじみと述懐するわけですね。

皆様はどんなドラマや映画を見たりしているのかは、私としてはわかりませんが、テレビなどで、そんなシーンを一回くらいは見たこともあるのでは?フィクションではなく、ライブでその言葉を聞いたことがある方は、いくらこのメールマガジンの購読者でも、実に少数でしょう。
もちろん、「あの子」という言葉ではなく「あのお子さん」くらいの距離感がある人物の事件に関して、「あのお子さんは弱い子だった・・・」という述懐が出てきた場合は、皆さんだって実際に聞かれたことがあるかも?

じゃあ、その「弱い子」って何?
身体が弱かったの?だから死んでしまったの?しかし、違うでしょ?じゃあ、「弱い子」って何?疑問に思っても、聞きにくい。
たとえ、目の前の人からライブでその言葉を聞いた場合においても、状況が状況だけに、言った当人に対してはサスガに聞けないもの。
ドラマでその言葉を言われても、テレビ画面に聞いても、当然のこととして答えてはくれないでしょう。

もし、その「弱い子」という言葉について、誰かから説明を求められたら皆様はどう答えますか?
たとえば暴力団のメンバーで、対立する組を襲撃したメンバーは、弱い子なの?まあ、強い子とは言われないでしょう。しかし、弱い子とも言われないでしょ?
しかし、秋葉原の通り魔事件のように、無関係の人々の集団に突入する人間は、弱い子と言われるものですよね?

行動そのものに弱さを感じるものではない。
むしろ、その行動の背景にある信念の欠落とか、減点部分への過剰反応とか、マイナスとの付き合い方がわからない心理とか・・・そんな心理が見えた場合には、弱い子と言われるわけでしょ?
別の言い方をすると、いい子のキャラクターを持っているがゆえに、弱い子という言い方ができるでしょ?弱い子というものは、いい子になろうとして、なりきれなかった存在・・・そんな感じですよね?

いい子という存在は、減点がない子。
しかし、子供の頃からどうしてそんなに減点がないの?
それって、それだけ、子供が減点を引き起こさないようにと必死だからでしょ?
そんなに必死だったら、精神的に疲れてしまいますよ。しかし、子育てを親が被った被害と認識しているダメダメな親は、子供のことなど眼中にない。
「ああ!子供を育てなくてはならないワタシって、なんてかわいそうなの?!」と自分を憐れんでいるだけ。自分で勝手に憐れんでいるばかりではなく、それを子供に語っている。

親として、子供の困りごとをサポートするという発想がないがゆえに、自分の子供が自殺した後になって、「どうして、それまでに相談してくれなかったのか?」などと言ったりはしない。逆に言うと、そんな自責をするような親は、事件後にも、弱い子という言葉は使わないもの。
「弱い子」とレッテルを貼るそんな親は、自殺に至った子供の心情を思ったりはしない。
子供に自殺されてしまった自分への被害に発想が行くだけ。
「ああ!世間体が悪いよ!今までの養育費がムダになってしまったよ!」

そして「あの子は弱い子だった。」と断定してオシマイとなる。
「ああ!あんな弱い子を持ってしまって、ワタシってなんてかわいそうなの?!」と嘆くだけ。
いわば、手っ取り早く評価してしまって、それにより思考停止するわけ。
「弱い子」とレッテルを貼ることにより、親としての自分の問題は何も考えない。

このような流れは、「あのお子さんは、弱い子だった・・・」という距離感を持った述懐の場合でも当てはまるものです。その対象となっている「お子さん」がまったく関係ない第3者ならともかく、多少なりともやり取りがあった人だったら、本来は「こうなる前にワタシに相談してくれればよかったのに・・・」と述懐するのが、マトモな感性でしょ?
しかし、当事者意識がないので、「あのお子さんは弱い子だった・・・」と評価者然とした述懐でオシマイとなってしまう。そんな述懐を、目の前にいる自分の子供はどう聞くの?

しかし、自分で認識し、考えることから逃避する人間は、手っ取り早くレッテルを貼りたがる。このような手っ取り早くレッテルを貼る行為は、その他にも色々と例があるもの。

「ワタシは幸福よ!」
「アタシは被害者よ!」
「ワタシはフツーよ!」

そんな断言をお聞きになった方も多いでしょ?その中でも「自分は被害者である。」との主張は、「ワタシは被害者なんだから、あとは加害者のアンタの側でやってよ!」と主張できるので、最も有効なんですね。逆に言うと、自分では何も考えたくないので、「ワタシは被害者だ!」と真っ先に主張するわけです。

真っ先に「ワタシは被害者だ!」と主張するスタイルは、ダメダメの周辺では実に頻繁に見られるでしょ?まさに長崎の小学校での事件なんてその典型でしたし、あるいは、以前に話題になりました、児童ポルノの問題もあります。

児童ポルノにおいて、商品とされてしまった子供は純然たる被害者でしょう。
しかし、そんな場に子供を売り渡す親は被害者なの?
しかし、その手の親は、真っ先に「自分たちは、こんな社会による被害者なんだ!」「なんてヒドイ時代なんだ!」と主張する。
そんな被害者主張には、同類のダメダメ人間が寄ってきて大盛り上がり。

しかし、逆に言うと、そんなに真っ先に被害者主張ができる姿から、子育ての被害を子供に対し常に主張し、子供の側が親に対して気を遣っている家庭内の状況が見えてくるでしょ?
結局は、そのツケは子供に集約してしまう。

児童ポルノの問題も、その手の活動家は、子供を守るという名目は掲げても、結局は、誰かを犯人認定してつるし上げをして喜んでいるだけ。そしてつるし上げそのものが目的化されてしまうので、子供を守ったり、事態を改善することはどうでもよくなってしまう。
親が真っ先に被害者主張しているような家庭は、たとえ児童ポルノなどに関わらなくても、そのツケが子供に集約し、ドッカーンとなってしまいますよ。

そうして、ドッカーンとなった後で、ダメダメな親は、「ああ、子供に、こんなことをされてしまって、オレってなんてかわいそうなんだ?!」「なんてヒドイ時代なんだ!」とやっぱり真っ先に被害者主張。
子供の心情など、相変わらず何も考えない。

そして、「あれほど言ってあったのに・・・」と、やっぱり被害を語ることになる。
しかし、そんな「言ってあったこと」というのも、問答無用に命令しているだけ。権威筋認定のご高説を、「まっ、これくらいを言っておけばいいかぁ・・・」「とりあえず、形は整っているし・・・」と何も考えずに言っているだけ。

それこそ、岡山駅での突き落とし事件の犯人の親なんて、「通り魔事件を起こすなよ!」と、子供に命令はしても、「オマエは何か困っていることはないか?」と子供に聞いてはいない。
通りのいい、反論されにくい、子供からの反応が起きにくい、立派な言葉を言って、「ハイ!これでおしまい!」「ああ!オレはなんて立派な親なんだ?!」となっている。

それこそ、子供が実際に困っていて、そんな具体的な話を親に伝えると「生きていれば、そのうち、いいこともあるさ!」と型どおりの説教はしたりする。
しかし、じゃあ、その「いいこと」って具体的に何?あるいは、「いいことって・・・じゃあ、お父さんは今まで生きていてどんなことがよかったの?」と子供の側から、突っ込みがあると、そそくさと逃げ出してしまう。

家庭内で、そんな習慣があるので、子供としては、そんなご高説を聞いても、生返事で聞き流すだけになってしまう。子供が生返事なので、つまり子供から何も反応がないので、逆に言うと、ダメダメな親は、自分の説教が受け入れられたと勝手に認定してしまう。
そして、「ウチはうまくいっている!」「何も問題がない。」と周囲に豪語することになる。

とは言え、子供の中では、何も解決しないわけだから、小さなストレスは積み重なっていくもの。だから結果的に事件となってしまう。一見は小さなストレスで大きな事件が起こったように見えても、実際には小さなストレスが長時間に渡って積み重なっていったわけです。以前に配信いたしましたが、「理由」が積み重なっていって、あとは小さな「きっかけ」で爆発しただけ。

逆に言うと、ちょっとした刺激に対する反応を見ると、現状において、どの程度まで「理由」が積み重なっているのか?結構見えてくるものなんですよ。いわば、免疫における抗体の蓄積のようなもの。
それこそ春になると話題になる花粉症もそんなものでしょ?

花粉で涙が出るくらいならともかく、たとえば卵によるアレルギーで、死んでしまうような事例もあるでしょ?それって、その人の体質の問題もあるわけですが、それ以前に小さな刺激による抗体が積み重なっていたわけです。それが爆発的に反応してしまう。

心理の問題も同じように見ることができるわけです。
いつも人から言われ、それが自分の中で精算されていないと、ある種の抗体ができてしまう。生理的な抗体による反応なら、それなりには、問題への対処と言えるでしょうが、心理的な抗体とは、いわば「問題から見をそむける技術」と言えるもの。それが積み重なると、すべての方向を塞いでしまって、出口が無くなってしまって、まさに爆発的な反応になってしまう。いわば思考や視点に対する抗体が、肥大化してしまっているので、まさに逆上状態になる。

具体的な例を挙げると、たとえば名前の問題があります。
「アンタの名前って・・・なんか・・・」なんて指摘を自分の名前に関してされてしまった・・・
そうなると、名前の由来を相手にわかりやすく説明できればいいわけですが、それができない。自分の言っていることについて、本心では自分自身が納得しているわけではない。だから自分を騙す形で、相手に言うことになる。だから逆上気味の反応をとってしまう。そんな「見ない」「考えない」「相手に言わせない」という反応が積み重なるから、何か別の刺激を受けても、それがちょっとした刺激であっても、爆発的な反応となってしまう。こうなると小さな逆上では済まないわけです。

あるいは、ドメスティッック・ヴァイオレンス(家庭内暴力)において、周囲からのよくある質問があります。「どうしてご実家にサポートを求めないの?」というもの。その質問に対して、お約束の、別の言い方をすると、思考停止の答として、「親に迷惑を掛けたくないから。」という言葉が出てきます。
その言葉はともかく、どんな雰囲気でその言葉を言い出したのか?
その点から抗体の蓄積状況が見えてくるわけです。「もうっ、鬱陶しい!」「いつも言われるけど、そんなことは分かり切ったことじゃないの?!」なんて雰囲気なら、逆に言うと、その回答に本心からは納得していないわけです。だから相手に対して丁寧に説明するのがイヤで、やり取りを打ち切りたいと思っている。そしてそんなストレスが心理的に積み重なることになる。

ちょっとした刺激への反応を見るだけで、心理的抗体・・・つまり「見ない」「思考停止」の蓄積状況が見えてくるもの。
そんな抗体が蓄積されてくると、小さな刺激に過剰反応し、まさに「弱い子」となってしまう。

あるいは、心理的抗体の蓄積という面以外にも、将来への希望がなくなってきた・・・そんな面もあります。いわば仮借無い現実が積み重なって、将来への希望が持てなくなってしまった状態。別の言い方をすると、免疫機能そのものが低下している状態と言えます。
子供時代に、現実の汚れを見すぎると、夢がなくなってしまう。その現実も、社会の現実だけでなく、ダメダメ家庭だったら、家庭というもの、家族というもの、人間というものの現実もあるでしょ?

ダメダメ家庭にいて見ることができる現実が積み重なっていったら、とてもじゃないけど、将来への希望なんて持ちようがありませんよ。まさに「この門より入るもの、希望を捨てよ!」とならざるを得ない。希望を持っていないんだから、我慢して何かを達成するということとは無縁となってしまう。ちょっとのことで、「もうダメだ!」「もう止めよう!」「どうせ、我慢してもいいことなんてないし・・・」となってしまう。そうなったら、まさに「弱い子」でしょ?

本来なら、親というものは、あるいは家庭というものは、仮借のない現実から子供を守るのがその仕事の一つでしょ?しかし、ダメダメ家庭では、親は子供を守ろうとは思っていない。
そもそも、ダメダメ家庭の親は、「自分は子供を育てるハメになったかわいそうな被害者」という自己認識なんだから、子供を守るも何もありませんよ。

仮借のない現実を子供の頃から見続けていたら、希望なんて持ちようがないでしょ?
そんな状態だったら、自分を騙しながら生きるしかない。
だからこそ「生きるのに疲れ」「自分を騙すのに疲れて」しまうわけ。
だからこそ、ちょっとの刺激で大きく反応することになってしまう。

親から守られていないわけだから、ダメダメ家庭の子供は、子供時代にリラックス体験をしていないし、リラックスという感覚もわからない。好きな人や信頼出来る人と一緒にいると安らげる・・・そんな体験もしていないし、そんな感覚も持っていない。
その手の人のリラックスとなると、むしろ逃げ場が近くにある・・・そんな状況が必要になってくる。
一緒にいるという観点よりも、スグにその場から離れられる・・・そちらの観点の方が優先されてしまう。

家庭内でいつも緊張しているので、家庭の外においても、ぎこちないリラックスをしてしまう。逃げ場の近くに自分の身をおこうとして、そんな半身の姿が周囲の人の不興を買って、周囲から厳しく見られ、結局は、リラックスどころか、緊張するだけ。

オマケにダメダメ家庭の人間は、話のネタがない。だからグチとか被害話しか言うことがない。だから一緒にグチることができる環境でないと、どうしていいのかわからずに、恐怖心を持ってしまう。あるいは、リラックスした「会話」の雰囲気を作ろうとして、グチを切り出し、周囲からバカにされる。結局は、そんなリラックス手段が通用する相手ばかりになってしまうので、被害話の共鳴ばかりになってしまい、結局は「どっちがより被害が大きいのか?」でモメて修羅場になってしまう。結局は、前々から準備してあった逃げ場に向かって一目散。そんな光景は、外から見ると、小さな刺激で大きな反応という、まさに「弱い子」の反応スタイルとなってしまう。

本当のリラックスというか、心の安定状態と、一応の平衡状態は、違っているもの。曲面の上でとりあえず動かないボールがあったとしても、その曲面が凸状態のトップの位置なのか?凹状態のボトムの位置なのか?それによって全然違っているでしょ?
凹状態のボトムの位置だったら、まさに安定状態と言えますよね?ちょっと移動しても、スグに戻って来ることができる。しかし、とりあえずの平衡状態と言える凸状態のトップの位置だったら、ちょっとでもズレたら、大変なことになってしまうでしょ?
見た目では、大きな問題もなく、「あの人は『ふつう』の人だ!」なんて言われている人でも、ちょっとした想定外の事態で、精神の均衡が崩れてしまう。

そんな凸状態のトップの位置でとりあえず止まっているボール状態の人が、「弱い子」と言えるのでは?
何かちょっとのことがあったら収拾不能のメチャクチャになってしまう。そんな危機感を抱き続けていたら、心理的に燃え尽きてしまいますよ。剣を頭の上からぶら下げて戒めとしたシシリアの王様は、王様だからこそ、そのようなことができたわけで、子供にはそんな日々は無理ですよ。

そんな人はちょっとしたことで心の平衡が崩れてしまうことが分かっているので、何か想定外のことが起こると、それを見ないという対処しかできない。
だから、相手からの反応がないような一方通行のやり取りを求めるようになる。ボランティアをやって、恵んでやるという立場を取ろうとしたり、あるいはそれこそメールマガジンのような一方通行のみの発信しかできない。あるいは、何かを調べる際にも、「考える」のではなく、「学ぶ」という一方方向のスタイルになる。
考えるのではなく学ぶ人は、想定外の事態が起こったら対処できない。対応するマニュアルを必死で探したり、あるいは、そのような想定外の事態を「見ない」という対処をとったりする。見たくない部分を指摘されると、平衡が崩れてしまう。だから、見ない技術がどんどんと発達して、とりあえずの平衡状態は維持できる。

だからトラブルが何も解決せずに、スパイラル的に積み重なることになる。必死で平衡状態に留まっているがゆえに、逆に言うと、本当の意味での安定には到達しない。
結果的にドッカーンとなってしまい、その後に「あの子は、弱い子だった・・・」と結論付けてオシマイとなってしまう。

ドラマのようなフィクションの世界だったら、子供に心理的抗体を蓄積させているダメダメな親の姿を見て、呆れていたり、あるいは他山の石とすればいいわけですし、「弱い子だった・・・」と断定して思考停止になっているダメダメな親の姿は、とりあえず記憶に入れておけばいいだけ。しかし、ライブでその言葉を聞いた場合だと、もっとしなければならないこともあるわけです。

だって、子供が事件を起こして、親がそんな姿ということは、その親の兄弟姉妹も、往々にして、そんな子育てをやっているものなんですね。
ダメダメの程度においては、多少の違いはあっても、「子育ては親が被った被害」という基本認識は兄弟で共有していたりするもの。

本来は、自分の兄弟の子供がそんな事態になったら、スグに自分の子供の問題に目を向けるのが自然ですが、結局はダメダメ兄弟。
「あの子は弱い子だった・・・」『そうねぇ・・・ホントに弱い子だったわねぇ・・・』で納得し合ってしまう。結局は、その「一族」で、次の「弱い子」が誕生することになる。

そんな姿を見たら、そんな集団から、早めに避難しないとマズイわけです。

(終了)
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発信後記

今週は、長い文章で、かつシリアスな内容が続きました。
明日は、内容的には、比較的に軽い文章だと思っております。

ちなみに本文中にも書いておりますが、弱い子というものは、いい子になろうとして、なりきれなかった存在といえるでしょ?
つまり、弱い子という存在は、いい子であることを要求する環境において発生するわけ。ダメダメな環境ほど、発想が減点法であり、減点のない「いい子」であることを求めることになる。しかし、いい子になろうとしても、マトモな環境じゃないんだから、無理がありますよ。
その無理が積もっていって、「生きるのに疲れた」とか「自分を騙すのに疲れた」とかのお約束の言葉になる。
だから、その「疲れ具合」は、見る人が見ると、ある程度推測できるもの。

自殺予防とかで、色々と活動している人もいらっしゃるようですが、子供の頃からの蓄積に目を向けない限り、「死なない」という二重否定は達成できても、「生きる」という肯定にはならないわけです。もちろん、自殺予防のボランティアの人には、そんな洞察は無理でしょうが・・・
R.10/12/29