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カテゴリー | 自己への抑圧 |
配信日 | 09年11月2日 |
タイトル | 暴走するロボット |
映画やアニメにはよく登場するシーンで、こんなものがありますよね? ロボットに具体的な作業を指示する。そして、そのロボットは、その作業を忠実に遂行する。安心した周囲の人間はいつの間にかいなくなっている。その間に、周囲の事態が変化した。しかし、ロボットは相変わらず指定された作業を黙々とこなす。周囲の事態がますます悪化するが、ロボットは、指示された作業をこなすだけ。 結果として、不必要なものが山のように・・・ おいおい!出来ちゃったコイツ・・・いったいどうしよう?! こんなシーンは、誰だって見たことがあるでしょ? まあ、ギャグではおなじみのシーンですよね? そんな事態になって、ロボットを責めてもしょうがない。ロボットは指定された作業をこなしただけ。命令した人間が、もっと細かく指示したり、新しい状況認識を受けて、指定した作業を見直せばいいだけ。 人間は、周囲環境の変化があると、それを認識し、思考に取り入れ、指示された作業だって、ストップしたり、あるいは周囲に相談したり・・・そんなことが出来ますよね? かと言って、そんな状況判断はロボットには無理でしょう。ロボットはプログラミングされた作業をこなすだけ。 ロボットは与えられた命令は忠実にこなすけど、自分で考えたりはしない。 状況判断は、基本的には、周囲の人間の役割。 ロボットが状況判断をしないのはいいとして、すべての人間が状況判断をできるというと、それはまた別。 もちろん、当人の能力の問題もありますが、それ以外の問題もあります。 ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。当事者意識がないので、自分では考えない。それだけではありません。ダメダメ家庭を作る親には強い被害者意識がある。だから子育てだって、親である自分が被った被害であると考えている。そんな家庭で育ったので、子供は自分自身を抑圧するようになってしまう。 だって、親に対して自分の希望を言っても、あっさりと無視されるんだから、そもそも希望なんて持たない方が精神衛生上ラクですよ。無視されるどころか、「つまらない面倒を持ち込むな!」「いったい、誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?!」と逆ギレされるだけ。そんなことだから、子供だって「この門より入るもの、希望を捨てよ!」なんて状態になってしまう。 自分の希望がないんだから、当然のこととして、それを達成するために、自分で考えることはしない。そして、そんな状態が習慣化されてしまっている。 当事者意識の欠如によって、自分で考えなくなるし、親の被害者意識によって、自分の考えを抑圧してしまう。 どのみち、自分では考えなくなるわけ。 そのような、自分自身を抑圧し、自分では何も考えない人間は、周囲の人間に盲目的に合わせて行動したりするもの。 まさに「ふ・つ・う」で生きるわけ。 あるいは、別のパターンもあります。 指示待ち人間になるわけです。 「指示が与えられたら、それを遂行する。」 それに徹するわけ。 まさにロボット状態になるわけ。 自分の作業を指示するマニュアルというか作業標準があると、それを絶対視するようになる。それ以外の方法は認めない。 マニュアルなり作業標準は、ルーティーンな事態を解決するには有効でしょう。 しかし、事態が変化したり、新しい課題が発生したら、そんなマニュアルも通用しなくなるでしょ? しかし、自分で考えることから逃避するダメダメ人間は、自分を「思考することから解放してくれる」存在であるマニュアルを絶対視するばかり。 事態がどんなに変化しても、まったく新しい事態になっても、現実から目を背け、指示された作業を黙々とこなす。 自分自身を抑圧している人間は、課題を解決するという問題意識があるわけではなく、とにもかくにも作業標準を遂行することしか考えない。 指示された作業をこなすだけなので、周囲の人間から、「別の方法を取ったら?」なんて言われても無視。そうやって、どんどんと暴走することになる。 そんな人とのやり取りでは、まさにシュールなことになってしまう。 ほとんど、「不思議の国のアリス」でのやり取りのようなもの。 「このような書類を提出していただけませんか?」 『しかし、この問題を解決するためには、別の書類を作成した方がいいのでは?』 「いえ!決まりですから・・・この書類の作成をお願いいたします。」 『どうして、そんな無用の書類を作る必要があるの?』 「決まりですから。」 『アナタはその書類で、どうするの?』 「うーん・・・決まりですから、作ってください。」 『その決まりって、どの法律に書いてあるの?』 「えーとぉ・・・いつもそうやっていますから・・・」 ギャグを書いているわけではありませんよ。実際に体験したことがある人も多いでしょ? まあ、役所の窓口ではおなじみの光景ですよね? その手の人間は、抑圧的であり、適宜状況判断をすることができない。 いったん、決めたことを、とにもかくにも、やりとげようとするわけ。 それは意志の固さではなく、現状認識からの逃避であって、以前に書いた文章だと「引き返す勇気」の欠如なんですね。 教条的なスタイルを取ることにより、自分で考えることから逃避しているわけです。 そんな人は、たとえば、家族のために家を建てるなんてことを決めたら、家庭内がどんな事態になっても突っ走ってしまう。資金を貯めるために、レジャーも子供の教育も犠牲にし、部屋の中は殺伐とした雰囲気。やっとのことで家が建って、そして家庭崩壊。 そんなギャグのような例って、実際にあるでしょ? 本来はいい家庭を築くために、家族が安らげるようにするために立派な家を建てるもの。 しかし、いい家庭とは具体的にはどんなものなのか?家族は何を求めているのか?それを考えることから逃避するためにも、直近の目標を盲目的に信奉してしまう。 あるいは、子供の学力を向上させるために、塾に入れたけど、子供がその塾になじめない。だから子供が勉強がキライになってしまう。そんな状態なのに、親の側は強引に塾にその通わせる。子供は泣き叫ぶし、親も気持がすさんでくる。「もう、子供の勉強どころではないわ!!しかし、そんな困難にもかかわらず、子供をこの塾に通わせているワタシって、なんて立派な親なの?!」 ・・・しっかし・・・いったい、何のために、お金を使っているのやら? このような事例と実に似ていたのが、以前に世界中で猛威をふるった中国北京オリンピックの聖火リレーです。とにもかくにも聖火リレーを完遂させるために、反対するものを徹底的に弾圧し武力的手段も行使する。結局は、世界中から「アイツら、バッカじゃねーの?」「アイツら、怖いよ!」と思われただけでしょ?まあ、見事な「平和の祭典」でしたよね? そこまでのワールドクラスの暴走はレアケースにせよ、とにもかくにも、決められたとおりに・・・なんてスタイルの人は結構いたりするでしょ? その手の人は、最後で総括したり、あるいは中間的な状況をチェックして見直すなんて発想はないわけ。ただ流れに乗って行きたいだけ。だからこそ、その流れは、周囲の人に通りがいい立派なものにしたがる。反論されにくい大義に便乗しようとするわけです。 そもそも思考から逃避しているんだから、始めるもいい加減。な~んとなく始めてしまう。そうしてトラブルが目立つと、それを被害と捉え、周囲に対して逆上するようになる。そして、自分が受けた被害に対抗することが目的になってしまって、本来の目的がどこかに行ってしまう。聖火リレーがその典型ですが、日本の捕鯨もそんなパターンでしょ? いったい何のために、あんなに大々的に捕鯨をやっているのやら? 日本の伝統文化というのなら、日本近海で地味にやるのが、まさに伝統というもの。 彼らとしては、そんな判断から逃避しているだけ。 しかし、通りのいい大義を掲げることによって、現状を認識し適宜判断することから逃避できることになる。 それこそ、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ? 「自分は人助けをやっている。」と周囲に語っても、「で、最終的に、そのサポートした対象の人はどうなったの?」と聞かれても答えられない。だって、達成するまで、あるいは、解決するまで付き合わない。 自分が傷つかない範囲でしか付き合わない。 そのような姿は、暴走するロボットとは、行動の面では逆のパターンと言えますが、適宜状況判断をしながら、最終目標を達成するために進めていくという発想を持っていないという点においては共通しているわけ。 「これをやっておけばいいでしょ?文句はないでしょ?」 善意であれ、大義があれ、所詮は、そんな発想でしょ? よくある言い回しに、「金持ちケンカせず」と物言いがありますよね? ちゃんと自分の達成したいものが自覚できていれば、そのために無駄な争いは避けるもの。 しかし、抑圧的な人間は、現状認識や判断から逃避しているだから、あらゆる不都合なことを被害として認識することになる。だからこそ報復を考え、まさにケンカとなってしまう。 それにダメダメ人間は減点法の精神であって、減点部分への反応は鋭いものがある。ちょっとでも不都合なことがあると、まさに被害とみなして大騒ぎとなってしまう。 そんな人は、しょーもないケンカばかりして、自分の目標を達成するための戦いはしない。おまけにそんなことばかりしているので味方がいなくて、自分一人で何とかする必要があると切羽詰まっている。だからますますケンカ腰になってしまう。だからやっぱり実際にバトルが起こってしまう。こんなことでは、確かにお金持ちにはなれないでしょ? 目的と手段は、分けて考えないとね。目先のトラブルばかりに集中するから、ますますトラブルになってしまう。 しかし、抑圧的な人間は手段と目的の区別がつかない。 ロボットにはそんな区別がつかないのは当然のことですが、人間だって、状況判断から逃避すると、まさにそうなってしまう。 そんな人は、まさに手段が目的化して、暴走してしまう。 それこそ憲法9条の平和主義を守るためには、反対者を殺害してもやむを得ない・・・そんなことを真顔で言い出す人も実際にいますし、そんな事件があったりするでしょ? 最近の政治の世界だと、「マニフェストに書いてあるから、とにもかくにもやらないとダメだ!」と突き進む。現状判断を元に、取捨選択をすることは、思考停止の抑圧人間には心理的に難しいどころか、恐怖を伴うものなんですね。 逆に言うと、判断をしなくてもいいような、立派な大義を掲げることになる。 それこそ、その手の人ほど、自らの「善意」を主張したりするもの。 そしてそれが善意からの行動であると、勝手に認識しているがゆえに、相手のことを何も考えなくて済んでしまう。 「オレは、アイツのためを思ってやっているんだから、アイツがどう思おうと、どうなろうと、どうでもいいんだ!」という、よく見てみるとシュール極まりないロジックを駆使したりするもの。 ギャグを書いていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際のそんな物言いをされる方もいるでしょ?善意があれば、何をやってもいいと思っている。逆に言うと、そんな問答無用の状況が獲得できる立派な「善意」を求めてしまう。 実際にあったパターンだと、使い古しの封筒に横線を入れて再利用して、その封筒でものを送ってきた人がいます。まあ、その人の心理の中では「使い古しの封筒でもいいや・・・だってオレは、アイツへの親切として、ものを送るんだから・・・」そんなロジックになっているんでしょうね。 とは言え、会社内の内々でのやり取りならともかく、使い古しの封筒に横線を入れて、それが自宅の郵便ポストに入っていたら心臓が止まりますよ。 「何なんだ?!この嫌がらせは?!」って、思うでしょ? 実際に、「アナタはこの私にいったい何を怒っているの?」と電話で聞くハメになりますよ。そうすると、『アナタに○○をスグに送ってあげたいと思っていたから・・・手元にあったもので送ったんだよ・・・へぇ・・・もう着いたんだ。ヨカッタ!ヨカッタ!』とやっぱり上からの物言い。 当人は恵んでやっているという意識だから、そんな行為もできるわけ。 逆に言うと、その手の「思いやりのない」「配慮のない」人は、恵んでやるという立場に立ちたがることになる。 逆説的ですが、恵んでやるという立場を得てしまえば、相手のことを考える必要がないわけです。ボランティアの連中がまさにそんなパターンでしょ? 認識や判断が怖いが故に、自分のペースで善意を展開しないと都合が悪い。善意からと称する行動においても、結局は、相手を支配し、「ワタシって、何ていい人なの?!」と自画自賛してばかり。 うまくいかなくても、「オレたちは善意があった。」と言い訳をする。 結局は、その人の善意で、周りの人間が疲れ果ててしまうだけ。 認識し、判断するのが怖いので、自分のペースで物事を進めないと、別の言い方をすると、自分の信奉しているマニュアル通りにことを運ばないと対応できない。 だからそんな人は、周囲からの指摘には過剰反応する。マニュアルを否定されると、自分の全存在が否定されてしまうように感じるわけです。 あるいは、反論されにくい大義を、スグに持ち出すもの。 それこそ愛国心とか、民族意識とか、平和とかのご立派な文句をスグに持ち出し、それを声高に主張することによって、相手の声を封殺する。あるいは、通りのいい言い訳・・・たとえば「時代のせい」などの言葉を、すぐに言い出すことになる。 自分のペースを守らないと対応できないというのは、信念の問題ではなく、現状認識や判断からの逃避なんですね。本来は、最終目的の実現のために、手段があるはずですが、認識や判断から逃避したいがゆえに、目的と手段が逆転してしまう。 ロボットが暴走したら、そのロボットを壊すしかない。まあ、ロボットなんだから壊したってたいしたことはない。しかし、自分自身を抑圧して、暴走ロボットと化したダメダメ人間は、曲がりなりにも人間なんだから、壊すわけにはいかない。 結局は、壊れてしまうのは、そんなダメダメ人間を相手にする周囲のマトモ人間の側なのは、皆さんも実例をご存じなのでは? (終了) *************************************************** 発信後記 政権運営において、マニフェストを絶対視する心理は、本文中で書いております。 それとは別に「いい人」という存在は、意外にも「人の話を聞く」ことが心理的に苦手なもの。 そもそも自分の都合の悪いものを、「見せられてしまったら」何かしなくてはいけない。ヘタをすると、自分の手を汚す必要もあったりする。それは「いい人」にしてみれば、心理的にプレッシャー。 あるいは、自分の考えと違った見解が出てきたら、どうするのか? 必要に応じ、相手の見解を否定する必要もあるでしょ? 見解を否定されたといっても、全人格を否定されたわけではない。その状況に応じて、あるいは、判断する人によって、採用する見解は違ってきますよ。 しかし、「いい人」というものは、相手の見解を否定することに心理的なプレッシャーを感じてしまう。 結局は、違う見解が出て来るような場所から逃げてしまったり、あるいは、自分とは違った見解を出しそうな人の存在そのものを排除することになる。 「いい人」だからこそ、強圧的になるわけ。 「人の話の聞き方」あるいは「自分とは違った見解」との対処というものは、「いい人」にしてみれば、非常に難しいわけです。 今の鳩山さんの迷走は、そんな観点から見ると、理解できたりするでしょ? |
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R.10/12/29 |