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カテゴリー 認識からの逃避
配信日 09年11月6日
タイトル 見ない技術、見せない技術
ダメダメ人間は、自己逃避であり、判断から逃避している。
そして判断から逃避している自分という、自己認識からも逃避している。
自己逃避状態であれば、自己逃避している自己を認識することからも逃避するなんて、小学生でもわかるくらいの簡単な論理でしょ?

さて、その自己逃避ですが・・・
自己逃避の「逃避」は、「逃げる」と「避ける」の2つの文字によってできていますよね?
このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の問題を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する必要があると頻繁に書いています。
「逃げる」と「避ける」は、一見似ているようですが、その実としては結構違っています。

「避ける」というのは、ある種の判断があるでしょ?
それこそ、「こんにゃくゼリー」を購入することを避ける・・・これも立派な判断ですよ。買わなかった人は、「こんにゃくゼリー」を購入することから逃げているわけではない。
あるいは、妊娠することを「避ける」のを、まさに「避妊」というわけで、妊娠することを「逃げて」いるわけではない。
「避ける」という言葉を、「逃げる」に置き換えると、意味が通じないことが多い。
つまり意味的には、かなり違っているわけです。

避けるということは、判断の結果であり、その前提として現状認識が必要になってくる。「こんにゃくゼリー」をどうしても食べたいのか?あるいは妊娠に関しては、「子供がどうしても欲しいのか?いつ欲しいのか?」そんな判断の結果として、その時は避けたわけでしょ?
避けるという判断をするためには、まさに「自分を知り、現状を知る」必要がある。

ところが「逃げる」となると、その必要はない。
逃げる発想となると、まさにトルストイが描くアンナ・カレーニナのように「ワタシに見せないで!」「ワタシに言わないで!」と言うスタイルになる。
判断の必要性そのものを、自分が認識しなくてもいいようにしてほしい・・・
そのように要望することになる。だからその手の人は「根絶」という言葉が大好き。

根絶されれば、確かに「見なくても済む」ことになる。本来なら、適宜判断すればいいだけなのに、「見ないで済む」ことが目的化されてしまうので、根絶されないと対処ができない。
それこそ「ドメスティック・ヴァイオレンスを根絶すべき!」という主張なども、言葉はご立派ですが、根絶されないと困ってしまうほどに、自分で認識し、判断することが怖いということなんですね。だから判断から逃げられる状況を作りたい。
「見ない」という発想をする人は、「逃げる」という発想と基本的に同じ。スグに逃げるということは、事態を解決する発想がそもそもない。根絶という言葉は、意味的には、解決というよりも、二度と見ないで済む・・・そちらのファクターの方が大きいわけです。
だから逃げ切れない、見なくてはならない追いつめられた状況になると、逆上することになる。何かというとスグに逃げる人間は、現実的には、スグに逆上する危険人物でしょ?

根絶という言葉がまさにそうですが、その手の人は、自分が判断を迫られる事態そのものを見ないようにしている。たとえば、その活動において、スグに逃げられる領域に首を突っ込みたがる。それこそボランティアの連中なんてその典型と言える。
自分が判断を迫られる事態になったら、その場を逃げてしまえば、そんな状況を見ないで済むことができますよね?だから常に逃げ場を意識することになる。

あるいは、判断が迫られる事態にそもそもならないように、あるいは、問題を見なくて済むように、「必死で空気を読んで」「人に合わせる」ことになる。問題が顕在化しないようにするわけです。
問題がそもそも存在しないように、自分が何も認識していないように、周囲に「見せる」ことによって、困った事態を「見ない」ようにしている。そして、周囲に対しては、単に人に合わせるだけでなく「ワタシは幸福よ!」と先制的に主張することになる。

「ワタシは幸福よ!」と先制的に主張しても、じゃあ、実際に幸福かというと、全然別問題。そもそも本当に幸福な人は、「ワタシは幸福よ!」なんて周囲に主張しませんよ。
しかし、周囲の人から、色々と言ってこないように、つまり自分自身の問題を相手から指摘されないようにするための幸福主張なんだから、必死にやらないといけない。

何かイヴェントがあったりしても、周囲に対して「楽しいように見せる」ことが優先され、自分の気持ちなどは度外視されてしまう。他者が「あの人は楽しそう!」と認識してくれることが成功であって、自分が楽しく思うことはどうでもよくなる。
しかし、そんなスタンスだと、当然のこととして、当人は楽しくないでしょ?
しかし、その楽しくないという自分の感情を「見ない」ことで乗り切ろうとする。必死で自分を騙してばかり。だからこそ、楽しいイヴェントやアトラクションは、気分が疲れてしまう。

認識すること自体から逃げているんだから、不幸を認識できないと同時に、幸福も認識できるわけがない。本来なら、幸福よりも不幸の方が認識しやすいでしょ?だって困っているんだから、それなりに認識するものですよ。お腹が空いたでも、アタマが痛いでも、その手のマイナスは自然と認識できるもの。しかし、幸福とは何も考えなくてもいい状態なんだから、幸福状態だったら、無理に認識する必要なんてありませんよ。
不幸を認識することから逃げるんだから、もっと高度な認識である幸福を認識できるわけがないじゃないの?

結局は、周囲に対し「ワタシは幸福よ!」と主張する無理が拡大するだけ。
とは言え、曲がりなりにも、「ワタシは幸福よ!」と主張しているわけだから、ボンクラな環境だとその言葉が通ってしまうことになる。
だから事件があったりすると、「いい家庭に見えた!」とか、「問題のあるようには見えなかった。」とかの「ご近所さん」のコメントになってしまう。

そんなボンクラなコメントは、問題を見せない技術の「たまもの」なんですね。
逆に言うと、「問題のあるように見せてはいけない。」と切羽詰まっているがゆえに、実際に問題になってしまうのは、誰でもわかること。

そんな感じで「見ない技術」「見せない技術」ばかりが発達して、実体面には何も手を付けない。
都合の悪いものは見ていない・・・それでOKとなっているので、たとえば、家族の中で兄弟がケンカばかりだったら問題視しても、1年間に一言も言葉を交わさない状態だったら何も問題視しない。
あるいは、実家と疎遠な子供に対し、「実家に来て欲しい!」と言って拒否されるのが怖いので、逆に、何も言わなくなって、結果的に音信不通状態となる。
音信不通状態だからこそ、「仲は悪くない」となる。だってケンカはしていないわけですからね。しかし、実体としては、毎日ケンカしている状態よりも、さらに悪い状態と言えるでしょ?結局は、当人が練達の技術で「見たくない」「見せない」ようにしているだけ。

しかし、そんな技術に引っ掛かる人間ばかりというわけではない。
この私のように、一番イタイところを突いたりする人間も、世の中にはいますよ。そしてイタイところを突かれて逆上し、逆上メールを出したりする。
しかし、そんな反応は、逆上している分だけ、その人の一番クリティカルなところがバレバレだったりするもの。

たとえば、以前に逆上メールをいただいた際に、私からのお返事の中に「アナタの物言いは、ご尊父とそっくりでしょ?」と書いたことがあります。

さあ!「あなたの物言いはご尊父とそっくりじゃないの?」なんて言われちゃったらどうするの?
簡単に予想できるのは、その指摘から「逃げちゃう」ことです。
そのことについて、もう見ないように、考えないようにしてしまう。

かと言って、「アナタの物言いは、ご尊父とそっくり!!」なんて言葉から逃げ切れるの?一生涯逃げ切れるの?しばらくは忘れて見ないこともできるでしょう。しかし、結婚して、トラブルになった。あるいは、育児でうまくいかない、あるいは仕事でトラブルになった・・・そんなことって必ずあるものでしょ?

そんなときに、ふと「アナタの言動は父親とそっくりだ!」なんて言葉がアタマの中を駆け巡る。さあ!そんな時どうするの?
逆上するの?「違うんだ!違うんだ!オレはオヤジとは違うんだ!!」と叫ぶの?
しかし、そんな逆上こそが、まさにオヤジ譲りでしょ?

結局は、見ないための方法論がさらに進化するだけ。だから実体としては何も変わらない。

そんな人間は、どうしても見えてしまうものだけを考慮して、見えないで済むものを無視する習慣ができてしまっている。そんな光景は、ちゃんと認識できる人から見ると、珍妙なもの。

それこそ、近海で打ち上げられた瀕死のクジラは必死で保護するのに、南氷洋のクジラは捕獲したり、少子化対策の補助金を支出するために、多額の国債を発行したりする。見えてしまうものには対処しても、見ないで済むものに対しては無視を決め込むわけ。
気に入らない見解を見せられれば、まさに逆上メールを出したり、あるいはブログの炎上などのつるし上げにいそしむことになる。
しかし、つるし上げでも逆上メールでも、そんなことを「された側」が考えを変えるわけがないでしょ?結局は自分が「見たくない」「考えたくない」だけ。
いわば相手を攻撃する形で「逃げている」わけです。そして、その攻撃性がさらに進化していくことになる。
市民運動なんて、まさにそんな流れでしょ?

一時的には、逃げるという対処も有効なケースもあるでしょう。しかし、自分にとって重要な問題から逃げてばかりではダメでしょ?
とりあえず、逃げたと思っても、肝心な時にぶり返すだけですよ。
そんな爆弾を抱えて生きるより、気持ちを入れて自分と実家の問題について考えておく・・・そんな必要があるのでは?必要に応じ、その時点での考えを後になって修正すればいいだけでしょ?

しかし、被害者意識が強いダメダメ人間は、「だって・・・ワタシは、かわいそうな被害者だから・・・」という名目を掲げ、逃げ回る。しかし、爆弾は生きているので、いつバクハツするかわからない状態。

さて、そんな心の中にバクダンを抱えた危険人物が近くにいたら?
そんな時は、その危険を認識し、「避ける」必要がある。そんな人の存在を無視するわけにはいかない。だって無視して、その人の存在を忘れてしまっていたら、突然現れて、いつ何時「絡んで」くるかもしれないでしょ?その人の危険性を意識した上で、避ける必要があるわけです。

あるいは、よく学校でイジメの問題があったりしますよね?
そもそもそんな問題が多発する学校は、避ける必要がある。その学校の改善に努力する必要なんてありませんよ。みんなが避ければ、そんなダメダメ学校なんて廃止されるだけですし、そんな学校を避けようともしない人間が集まっても改善なんてされませんよ。

ただ逃げるだけだったら、その逃げた先の学校のダメダメの可能性だってあるわけでしょ?ちゃんと判断して、どの点が問題なのか?ちゃんとわかった上で避けないといけない。

トラブルを回避するためには、それなりの現状認識や判断が必要になるわけです。
しかし、ダメダメな集団というものは、排除の論理はあっても、回避の論理はない。

「あの人はダメ!」
「あの○○さんは、仲間に入れない!」
「この△△さんには、出て行ってもらいたい!」

そんな感じで、人を排除していると、当然のこととして、味方が少なくなるわけですから、そんな集団は、何も達成することはできない。そんな集団は、結局はクレームを言うだけで終わってしまう。
排除という名目であっても、要は「見たくない」「考えたくない」というだけ。さて、その「排除の論理」ですが、「回避の論理」とは違うものです。「排除の論理」と「回避の論理」は、まさに「逃げる」と「避ける」の違いに対応しているわけです。

排除の論理は、誰か他者を、排除する・・・いわば「見ない」ための処置であるのに対し、回避の論理は、誰か他者なり問題から、自分の方から回避する・・・そのような態度です。
多くの人は、あまり厳密に使い分けてはいないものでしょ?

排除の論理はよくないにせよ、あらゆる人たちと、あるいは、あらゆる問題に首を突っ込む必要なんてないでしょ?自分自身にとって必要な問題には積極的に関わるけど、無関係な問題なり、トラブルになりそうな状況からは回避すればいいじゃないの?

しかし、ダメダメな人間は、そんな回避ができないんですね。そもそも排除がいいのか?回避がいいのか?そんな判断そのものから逃避しているんだから、とにもかくにも逃げているだけ。
だって、そもそも自分にとって必要な事項なんて、自分でもわかっていない。だから不必要な問題との分別ができない。あるいは、普段から何も考えずに人に合わせているだけなので、自分の前にどんな問題があるのか?どんなリスクがあるのか?考えようとはしていない。

ちょっと考えれば、リスクなんて簡単に認識できるのに、何も考えないから、そのまま「て・き・と・う」に突っ走って、ドッカーン!となってしまう。
「そうして、どうしてこんなことに?!」
「ワタシって、何てかわいそうなの?!」
と、お約束のグチ。

まさにドメスティク・ヴァイオレンス(DV)なんてそのパターンの典型でしょ?
そもそも、妻を殴ったり、付き合っている女性を殴ったりするような男性がこの世の多数派なの?そんなわけないでしょ?そもそも、そんな男性も会話の能力がないから暴力を振るうわけでしょ?だから、結婚前に会話をすればいいだけ。というか、結婚前にどんな話をしたの?
そもそも、そんなアブナイ男性なんて回避すればいいだけでしょ?自分自身に人を見る目がないのなら、周囲の人で「人を見る目」のある人に相談すればいいだけ。
そうすれば、そんな状況は簡単に回避できるでしょ?

しかし、ダメダメ人間はそんな回避の論理は取らない。「この世界から家庭内暴力を根絶すべきだ!」と「べき論」で、別の言い方をすると「排除の論理」でお説教するだけ。しかし、「オレはオンナなどと話をするつもりは毛頭ない!オンナなんか殴ればいいんだ!」と言っている男性がいたらどうするの?というか、実際にそんな男性っていたりするでしょ?

回避の論理だったら、そんなアブナイ男性がいたら、その危険性を認識し、避ければいいだけ。実に簡単だし、誰だってできることでしょ?しかし、自分がどうしたいのか?自分で考えないような人間は、一般論にしてしまうんですね。「世界から家庭内暴力を根絶しよう!」とご高説。しかし、みんながアブナイ男性を回避すれば、結果的に根絶しますよ。そもそも、目の前の危険を回避しようともしない女性はどうするの?そのような回避の意欲のない女性のために、暴力的な男性をどう処置するの?殴るの?蹴飛ばすの?収容所に入れて、ガス室送りにするの?

実際のドメスティック・ヴァイオレンスの現場なんて、わざわざ暴力的なオトコに近寄って行って、トラブルになって、そのあげく「この世からドメスティック・ヴァイオレンスを根絶すべきだ!」とご高説を語っているもの。そんな流れは、「こんにゃくゼリー」の問題とまったく同じなんですね。

そんな現実的な指摘をしたりするとどうなるんでしょうか?
そうなると、やっぱり「排除の論理」が登場するわけ。
「あの人・・・鬱陶しいわね!もう来てもらいたくないわ!」
「ワタシたちのことを、全然わかってくれないっ!」

そうやって、厳しいことを言う人間を排除して、安心してグチ大会。
回避の論理がないがゆえに、排除の論理がまかり通ることになる。

自分が何をしたいのか?それなりに自覚できていれば、回避の論理で行動できますが、自分が何をしたいのか?わかろうとしない人は、厳しいことを言う人間をどんどんと排除してしまう。
・・・現実にそんな感じになっているでしょ?

排除の論理は、「見ない」「見せない」ための方法論であって、そんな方法が必要になっているということは、ダメダメということ。
たとえば「見ない」「見せない」となると、独裁国家の外国人専用ホテルがあります。
そもそも外国人専用ホテルがある時点で、その国家がダメダメということでしょ?
それだけ、「見ない」「見せない」はダメダメと直結しているわけですし、いざ「見せられて」あるいは「見られて」しまいそうになると、過激な反応を取るもの。
そうして、マトモな人たちとのやり取りが「根絶」されてしまう。

そうして、その集団はどんどんとスパイラル的にダメダメが進行することになる。
まあ、そんなダメダメ集団が、自分たちのダメダメを熟成させていくのは勝手でしょう。しかし、そんな連中は、結局はマトモな人からは相手にされないので、そんな自分でも支配することが出来る恵まれない人を見つけてボランティアなどをやろうとするもの。

そうやって、サポート対象の恵まれない人も、ダメダメ集団に巻き込まれ、微かに持っていた当事者意識が喪失してしまう。
サポートを受ける側も、身体的にハンディキャップがあったり、経済的に立ち行かないケースもあるでしょうが、サポートを受ける側が回避の論理をしっかりと持っていないと、そんな排除の論理で武装したダメダメ集団の餌食になってしまう。
これも、実にポピュラーな事例でしょ?

避けるという発想は、認識と判断がその前提になっている。それこそ、子育ての問題も、一人目で苦労して、「ああ!もう子育てって、イヤだ!」と思ったのなら、二人目を作るのを回避する必要があるでしょ?
しかし、ダメダメ人間は、一人目の子供でトラブルになっているのに、何も考えずにどんどんと子供を作ってしまって、「政府は子育て支援をするべきだ!」「ワタシたちは、悲しい表情の子供を見たくない!」と声高に主張するだけ。

問題への対処において、とりあえず「逃げる」のか?そもそも不適切なので、「避ける」のか?あるいは、そもそも荒唐無稽なので「無視する」のか?
その判断は、それぞれでしょうが、抑圧的なダメダメ人間は、その判断自体から逃げてしまう。
だから、逃げるのか、避けるのか、無視するのか?結局は、あいまいなまま。
しかし、事態は何も解決していないので、何かあると、かつて自分が受けたシャープな指摘がフラッシュバックすることに。平時においては何とか逃げ回っていても、トラブルになった時こそ、厳しい言葉が頭の中を駆け巡ったりするものでしょ?

本来ならちゃんと自分で考えておけば冷静に対応できるものでも、逃げてばかりだから、逆上するしかない。そんな人は、自分が信奉しているものと違ったものが現れると途端に身構えたりするもの。
そして「それは正しいのか?」とスグに聞くことになる。
抑圧的な人間が、スグに「それは正しいのか?」と質問することは、魯迅の「狂人日記」にも出てきました。「正しければ → 信じる。 間違っていれば → つるし上げ。」

そんなシンプルな反応となってしまう。
逆に言うと、自分で考えなくてもいい。

「正しさ」というのは、「有効」とは違うもの。正しくないものは、許されないという二重否定的なもの。それに対し、有効という言葉は、単純な肯定形であり、排他的なものではないでしょ?「正しい」という言葉が登場する領域では、排斥が起こりやすい。そして、その排斥を実力を持って行うことになる。
そのような対応が許されるがゆえに、「排除の論理」で凝り固まった抑圧的な人間にしてみれば、「正しさ」というのは、意味のある基準となる。

正しさというものは、「自分が何をしたいのか?」そんな発想からの逃避として使われる。
たとえば、芸術表現の分野では「正しさ」は出てこない。というか、創造的な分野では出てこない。それこそ、「ピカソの絵は正しいのか?」「ベートーヴェンの音楽は正しいのか?」そんな議論にはらないでしょ?
作曲には出てこないけど、演奏の際にはでてきたりする。
文章創作には出てこないけど、翻訳の際には出てきたりする。
逆に言うと、抑圧的な人間は、翻訳とか演奏の領域に行きたがることになる。

当事者意識や会話の能力が欠如しているがゆえに、自分自身の思考なり、会話が必要としないものに行きたがるわけ。そしてその「すがり先」が、権威筋認定の「正しさ」というわけです。

自分と違った考えが提示された場合において、必要に応じ相手を説得する必要がありますが、正しいという言葉を持ち出すことによって、説得することから逃避してしまう。「自分は正しいんだから」、相手に対して何をやってもいいんだ!そんな発想のもと、過激な対応が許されてしまう。そんなことだから、ドメスティック・ヴァイオレンスになるわけですし、そのドメスティック・ヴァイオレンスの「加害者」をつるし上げて喜ぶようになってしまう。
しかし、実体としては何も解決しないでしょ?ただ、見えなくなったというだけ。
だから同じような事態を繰り返すことになる。

だから、肝心な問題の判断については、無視も、逃げも、避けてもダメなんですね。ちゃんと自分で見て、考える必要がある。前に取り上げました実家の問題ですが、ダメダメ家庭の出身者にしてみれば、逃げ切れるものではありませんよ。

実家とどう付き合うのか?
実家を避けるにせよ、そのことについて「考える」こと自体からは、「逃げ切れる」ものではありませんよ。

しかし、多くのダメダメ家庭出身者は、「とりあえず」という名目で、逃げてばかり。そして突っ込まれると逆上するばかり。
そのまま何も考えずに「て・き・と・う」街道をばく進するだけ。
だから、事態がうまくいくわけもなく・・・その点を指摘されて、やっぱり逆上する。
結局は、そのツケは子供に行ってしまう。
そのツケが子供に集約するだけでなく、逃げ口としての格好のネタとして子供が使われることになる。
「子供のために・・・」
「子供のせいで・・・」

まさに、「アナタの親と、そっくりの姿」となるわけです。

(終了)
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発信後記

本文中で書いていますが、抑圧的な人間は、「見えてしまっているもの」には、対応するわけですが、「見なくて済む」ものには対処しない。
だから、「こんにゃくゼリー」の根絶も必要となってくる。
しかし、逆に言うと、「見なくて済む」ようになればそれでいい・・・そんな感じになっているわけ。

家族の中で兄弟が1年の内で、一言も言葉を交わさないが故に、「問題のない」、「ふつうの家庭」と言えてしまう。
まあ、確かに問題はないでしょ?ケンカしているわけではないんですからね。
「問題はない」は、まさに二重否定表現であって、「うまくいっている」とは違うわけ。
あるいは、「ふつう」というのは、「特に変わったところがない」と分解できるわけですから、やっぱり二重否定のようなもの。

明日は、そんな肯定と二重否定の間の違いについての文章を配信いたします。
R.10/12/29